赤い花
『幸村部長! コレ、お見舞いッス!!』
そう言って笑いながら、一人の後輩がくれたのは、一つの鉢植えだった…
「…全く、嘆かわしい!!」
その日、見舞いに訪れた立海テニス部の副部長・真田は、いつになくご機嫌斜めの様子で、眉間の皺を幾つにも増やして苦言を呈していた。
今、この病室の住人は同じく立海テニス部の部長である幸村であり、彼は先程から親友の真田の様子を困った様に笑って見つめている。
幸村が上半身を起こした状態で横になっているベッドに据えつけられたテーブルの上には、高さが二十センチ程度の鉢植えが置かれ、それを挟む形で、一人の後輩が立っていた。
二年生エースの切原である…が、彼は先程からバツが悪そうに顔を俯け、じーっとひたすらに真田の苦言に耐えている。
「大体、入院患者に鉢植えを見舞いに持ってくるとは何事だ! 鉢植えは『根付く』と言って、病の時には特に忌み嫌われる。それが例え迷信であったとしても、当然避けるべきものだぞ!」
「すんません…」
真田から視線を移し、しょんぼりと項垂れる後輩を静かに微笑んで見つめると、幸村は彼に助け舟を出した。
「いいんだよ、切原。俺が、ガーデニングが趣味だから選んできてくれたんだよね、有難う」
「幸村部長…」
幸村は、続けて真田にも声を掛ける。
「もういいじゃないか、弦一郎。当事者の俺が気にしていないんだから、切原を責めるのは筋違いだ」
「しかし精市…」
尚も食い下がろうとした真田に、幸村は静かに、しかしこれ以上は許さないといった様にはっきりと首を横に振った。
「切原は、鉢植えの禁忌を知らなかったんだ。知らなかった人間に、そこまで責める事はない。ただ、覚えておいてもらえばいい。切原、これから俺以外の人にこんな事はしちゃダメだよ?」
「は、はいっ! もうしないッス。覚えときます、ちゃんと! その鉢植えも、俺、持って帰りますから」
素直にこくっと首を縦に振った後輩に、しかし幸村は、この時もまた首を横に振った。
「いや、それはダメ」
「え…?」
「これは、俺が一回貰った物だからね。返さないよ?」
幸村が目を遣ったのは、切原が先日持ってきてくれた、問題の鉢植え。
草丈は二十センチぐらいで、輪の紋様の入った葉が瑞々しい翠の色で咲いている。
花はまだ小さな蕾らしきものが頂上に見えるのみで、今の段階では色が何であるかは伺えないが、幸村は葉を見ただけで、それが何という名であるのかを言い当てた。
「ゼラニウム…だね。とても丈夫で、花も綺麗なんだ…見たことある?」
「…?」
見たことはあるかも知れないが、名前だけ聞いてもさっぱり分からない…
切原はぶんぶんぶんと首を激しく横に振り、幸村は笑って頷いた。
「じゃあ、俺が責任もって育てるよ。咲いたら見においで」
「は、はい!」
「精市…?」
育てるのか?という顔の真田に、幸村はゼラニウムの葉に優しく触れながら言った。
「丁度、退屈していたんだ…趣味のガーデニングもここじゃ出来ないし、病室って殺風景だろ? 花は見舞いでよく貰うけど、切花だから結局長くもたないし…正直、切原のこの贈り物は凄く嬉しいんだ」
ガーデニングの気分も少しは味わえるし、何より緑のある風景はいいよ…と言う親友に、結局、真田が折れた。
縁起も気にはなるが、相手の言う事も尤もだ。
幸村の慰めになるのなら、古くからの慣習に敢えて逆らってみるのも悪くない…
「うーんと…じゃあ、日当たりの良い場所に置いてあげないとね」
早速、ガーデニング魂が疼くのか、幸村はいそいそと鉢植えの指定席を何処にしようか迷い始めていた。
「そうだ、名前も付けよう…じゃあ、『切原二号』ってことで」
(相変わらず、ネーミングセンスは無いようだが…)
親友の長所だか短所だかよく分からない性癖に、真田はふぅと息をつき、一方、切原の方も非常に微妙な表情だった。
「…何だか、愛情があるのかないのか分からない名前ッスね…」
「そう? 『赤也二号』の方が良いかなぁ」
遠慮がちな後輩の意見に対し、幸村の反応は至って真面目で真剣である。
(とりあえず、二号から離れるつもりはないらしいな…)
真田の苦悩は彼の頭の中のみで続き、切原は早々に命名談義に白旗を振った。
「…やっぱ、『切原二号』でいいッス。『赤也二号』だと何か、どっかで歌われてた列車の名前みたいで…」
結局、ゼラニウムはその日『切原二号』という立派な名前を貰い、幸村の部屋にささやかな緑の息吹をもたらすことになったのである…
ゼラニウム…『切原二号』が来てから、幸村は毎日、かいがいしく彼の世話を続けていた。
元々、緑が好きで、ガーデニングの腕もかなりの彼だ。
難易度としても然程高くないゼラニウムの世話は難しいものではなかった。
『精市、やっぱりそれ、ここに置かない方が良いんじゃないかしら。捨てなくても、家に持って帰って…』
母親はやはり息子の病を心配し、迷信や縁起の類であっても、その鉢植えを彼の側に置くことに難渋を示したが、幸村は断固として断った。
親の言葉は優しく柔らかな表現だったが、幸村には分かっていた。
もし、相手に鉢植えを持って帰ってもらったとして、いつか自分が健康になって家に戻ったとしても、もうこの鉢植えは家にはいないかもしれない。
それが自分に対する親の愛情だという事は分かっているが、後輩の心遣いの証が失われてしまうということが嫌だった。
「切原に約束したからね。ちゃんと花を咲かせるって…・それに、今はこの子を育てるのが、とても楽しいんだ」
本人が拒絶する以上、親であってもそれ以上の無理は言えず、『切原二号』は幸村の病室の中でも日当たりの良い特等席を占領し続ける。
一日、一日…幸村の病状が変わらなくても、悪い日でも、『切原二号』はすくすくと彼の細やかな愛情を受けて成長を続けていった。
「ち――――っす! 幸村――っ!」
「おー、『切原二号』も元気じゃのう」
「おっ、何か蕾も大きくなったなぁ」
日が経ち、立海のレギュラーメンバーも、すっかり『切原二号』がいる病室に馴染んでしまった。
初めて部室で真田から『切原二号』の話を聞いた時、レギュラー全員は『あーやっぱり』と、半ば諦め顔で頷いたという。
悪意のない、天然のネーミングセンスは相変わらずだ…
最早、誰もが矯正不可能と諦めている部長の性癖には誰も異を唱えず、その代わりに『切原二号』をからかう事に注目が集まった。
切原本人が、からかいがいのある後輩だったということもあるのだろう。
「今日は『切原二号』にお土産あるぜい!」
丸井は早速、真っ赤なリボンを『切原2号』に結んで立派な蝶々結びを作り始めた。
「まぁ、可愛い後輩の二号じゃからのう…オシャレさせんとな」
仁王も、丸井の行為を面白そうに眺め、さわさわと『切原二号』の葉を触る。
他のメンバーも彼らの行為を苦笑して眺める中、当然、当事者である切原は面白くなさそうにぶすーっとふくれっ面をしていた。
「あのね! オシャレはいいッスけど、何で赤いリボンなんスか!? やり過ぎでしょ、いくら何でも!!」
「似合ってるじゃないか」
くっくっと笑ってジャッカルが丸井の行為を支持する。
普段からお守りをさせられている鬱憤をここで晴らそうと思っているのかもしれない。
「〜〜! ジャッカル先輩まで!」
「何じゃ赤也、お前もリボン付けたいんか?」
「そう言や、切原、赤色が好きだったよな。よし、今度二号とお揃いにしようぜい!」
「結構ッス!! 赤いリボンなら、もう仁王先輩が付けてるじゃないスか。そういうのは部に一人いたら十分ッスよ」
「…赤也、俺達、一度ゆっくり話し合った方が良さそうじゃのう…」
わいのわいのと騒ぐ一同の向こうでは、場に入らない、入れない別の一同が静かに彼等を見守っていた。
「…全くあいつらは……」
いつもの様に、真田が騒ぐ彼等を見て辟易とした様子でため息をつく。
彼が立海テニス部に関わる限り、その眉間の皺は消えることはないのかもしれない。
「すみませんね、幸村部長…静かにするように言ってはいるのですが…」
申し訳なさそうに謝る柳生に、幸村はふるふると首を横に振った。
「いいよ、彼らの楽しそうな顔を見ていた方が俺も気が楽だ。あまりかしこまられると、かえって背中がむず痒くてね…・けほん」
笑って言う幸村が、小さな咳をする…が、その咳は一回だけですぐに止まった。
だから…誰も気に留めなかった。
「ところで、今日は全員が揃うなんて珍しいね? 何かあったのかい?」
「む? いや、特にそういう事はないが」
真田が言った通りだった。
特に今日は全員で決めていた訳でもないのに、部活が終わって何となく皆が集まり、幸村の見舞いに行こうという話が持ち上がって、誰も断る理由がなかったのだ。
珍しいことであるのは、事実だった。
「そう? あまり無理しないでいいんだよ。病院とかそういう場所は息が詰まるし、話す話題に悩むこともあるしね」
「無理などしておらん。お前は俺達のことは心配せず、病気の克服だけ考えていたらいい」
「うん…でも、ふふ、今は話す話題については困らないかな」
「む?」
真田に、幸村は笑って切原達を指し示す。
相変わらず賑やかに騒いでいる彼らの中央には、『切原二号』がしっかりと鎮座していた。
「切原が持ってきてくれてから、彼らも何かと『切原二号』を可愛がってくれてね。何だかんだと言って話題には困らなくなった…俺の病状を聞かれるより、余程良いよ……こほっ」
また、咳。
しかし、また一回で止まる。
今度は真田が僅かに視線を相手に向けたが、何も言わなかった。
幸村が言ったばかりの『病状を聞かれるより、余程良い』という台詞が、真田を引き止めたのかもしれない。
「切原、よく見てごらん」
幸村が呼びかけると、切原がぐるんと振り向いた。
「え?」
「『切原二号』、もうすぐ咲くよ。蕾が膨らんでいるだろう? 赤い花が咲くと思う…早ければ明日にでも」
「え…ホントに!?」
切原達が覗き込んだら、確かに奥にあった蕾がふっくらと膨らんで、薄い紅色に染まっている。
しかし、切原が見ても、それがいつ咲くのかを予想するのは難しかった。
「うわ〜、そっか…・明日咲くんだ、すっげ――――! 明日も来ようかなぁ」
うずうずとした様子の切原に、幸村はふふふと優しく笑った。
「ゼラニウムは花が絶えるのはほんの一時期だからね、そんなに焦らなくてもいいよ。ゆっくり見に来るといい」
「えー!? でもそれってつまんないッスよ。やっぱ、咲く瞬間が見たいッス!」
「赤也…お前さん、朝顔の観察日記で、早起き比べをしたクチじゃな…」
「うっ!? 仁王先輩、何故それをっ!!」
「で、結局寝コケて負けたんじゃろ」
「…もしかして隠しカメラでも仕込んでるんじゃ…」
冗談のようで本気の彼らの話がまた始まり、暫くそれを眺めていた柳が、ぽつりと呟いた。
「ゼラニウム、か。別名、天竺葵。原産地は南アフリカ、花期は春から秋の常緑多年草…花言葉は…」
「君ありて幸福……そして、真の友情と慰め」
柳の言葉を受け、幸村が締め括る。
真田達が視線を向けたまま無言を守る中、優しい病み人は愛おしそうに、もうすぐ咲こうとする蕾を見つめていた。
「切原は知らなかっただろうけど…俺達にぴったりだと思わないか? 素敵な偶然だよ」
「………」
「…俺も明日が楽しみだ。切原には悪いけど、花が咲くのを見るのは俺が一番乗りだね。こういう楽しみもあるから、ガーデニングって、止められないんだ」
「…そうだな」
それならば、その明日に備える為にも自分達があまり長居してはいかんだろう、ということで、真田の号令の下、立海メンバーは暇を告げる事になった。
「また来ますから!」
既に花を見る気満々の切原が最後に大声で宣言し、彼等は病室のドアの向こうへと消えていった。
「…ふふ」
メンバーが去って、途端に静かになった病室で、幸村はそっと、『切原二号』の蕾に優しく触れた。
この子が来るまでは、メンバーが去ってすぐのこの沈黙の世界が苦手だった。
けど、今は……寂しくないと言えば嘘だけど、かなり心が慰められる。
「…明日は、君が咲く日だね…うん、土の状態も悪くないし…」
鉢植えの土壌を指で触れて確かめ、頷く。
ごほん…っ
咳が出た。
さっきの二回出た時と同じように、何の前触れもなく。
ただ、違ったのは……
ごほ…ごほ、ごほっ…!!
咳が一度では済まなかった。
何度も吐き出されるその度に、今度は吸い込むべき空気が肺の中に入ってこない。
吸えない…肺を包んだ筋肉が、痙攣しているようだ……
苦しい…気持ち悪い……!
「け、ほ…っ! …っ…!!」
何とかベッドまでは辿り着いたが、そこでもう、身体の力が抜けてしまう。
幸村の身体がベッドの上に倒れてくの字に曲がり、口からひゅうひゅうと出来損ないの笛の様な音が聞こえた。
聞いている人間は、彼自身以外、いない……
苦しい…!!
幸村の手が口元から離れ、先へと伸ばされる。
苦しさで視界までもが朧になる中、かろうじて彼はそこに呼出ブザーのスイッチを確認していた。
もう少し、もう少しで手が届く…
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