「……っ!!」
息が出来なくて、ただ身体の中に僅かに残っている空気だけを頼りに、震える身体を動かし、幸村はただ、手を伸ばす。
スイッチには、まだ、届かない……もう、そこまでの距離が分からない…
(目が…見え…な、い…)
酸素が、失われてゆく……光を捉える事すらも困難な程に……
意識まで遠くなり、苦しいのかも分からなくなる……
死ぬ……?
そこで初めて、幸村は死を意識した。
死ぬのか……俺は…このまま……
嫌だ!!
朦朧とした意識が、抗う拒絶の意志に揺さぶられ、ほんの僅かに覚醒する。
(死なない……死にたくない……!!)
意識が戻ると、今度は苦痛も戻ってきた。
肺は相変わらずその働きを放棄し、喉から頭にかけての通り道が荒縄で縛られているような感覚が襲う。
しかし意識が混濁すると、苦痛は失われるが、すぐ隣にぽっかりと奈落の底が自分を待ち構えているような錯覚が己を誘った。
苦しい…
全身を最後の力でよじり、命綱であるスイッチへと手を伸ばす。
もう少しで届くと思って手を振ったが、それは空しく宙を切り、そのままぱたんとベッドの上へと落ちた。
見えるもの全ての輪郭も、遠近感も、まるで嘘っぱちだった。
見えているのに触れられない…・蜃気楼だ。
ダメだ、動かない………
動かないのではなく、動けないのだ……
身体が痙攣しているのは分かるが、皮肉にもそれは止められなかった。
落ちてゆく……身体も……意識も………
間際に脳裏に浮かんだのは、立海メンバー達の姿だった。
笑う彼らの姿は、こんな意識の中でも鮮やかで光り輝いていた。
ああ、そうか…と朧に思う。
会いに来てくれたんだね…最後に……
俺の最後を感じて……みんな、会いに来てくれた……
「……っ」
生きたいっ……!! 生きてまたみんなと……!!
最後の抗いの呼吸も、最早その形は為さず、幸村の意識は真っ逆さまに奈落の底へと突き落とされた…
『………』
意識を失った幸村が目覚めた場所は、白い世界だった。
靄か、霞か、それすら分からない……真っ白な何かで埋め尽くされた世界…
瞳を開けて横になっていた身体を起こす。
さっきまで感じていた苦痛は、最早、ない。
『……ここは』
辺りを伺っても、そこが何処であるのか、彼には分からなかった。
見たことない……人もいない…静かな場所だ。
………いや、人はいる。
幸村がもう一度振り返った先に、一人の人間が立っていた。
こちらを見ているその姿は、自分もよく知っている人間だった。
『……・切原?』
呼んでも、相手は答えない……しかし、聞こえたように、向こうはゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
静かに、何一つ言わず歩くテニスウェアを着た切原の姿は、よく見知っていて、それでいて見たこともないものだった。
『……切原?』
もう一度名前を呼んだが、向こうは答えない。
ただ、無邪気な笑顔を浮かべるだけ……
『どうしたんだ、切原…みんなは?』
辺りを見回しても、白い…白いだけの場所だった。
徐々に、幸村の胸の奥で何かが受け入れられる。
違う…ここは、普通の人間が来る場所じゃない…
そう言えば、ここに来る前、自分は……もう死ぬ寸前の状態だった。
あれからの記憶はないが、もしかしたら、もう自分は……
『……え…』
幸村は声を漏らして、前の切原を見た。
じゃあ…じゃあどうして彼もここにいるんだ……!?
『切原!?』
慌てて幸村が相手の手を取って、はっとする。
『………』
この手……おかしい……
熱がまるで感じられない……冷たくも熱くもない……
『……これ』
彼は…本当に、切原なの、か…?
ゆっくりと顔を上げ、目前の後輩を視界に捉えると同時に、相手はにっこりと自分に笑いかけてきた。
『ありがとう』
『え?』
何に対して切原が自分に礼を言うのか、分からない…
戸惑う幸村の手を、相手はすぅと静かに取ると、その熱のない手で握って、また言葉を継いだ。
『 』
確かに聞こえたはずの音なのに、言葉として認識出来なかった。
もう一度聞こうと口を開きかけた瞬間…
『あ……っ』
ぱんっと、何かが弾ける音を聞いた。
そして、目の前に真っ赤な色が広がってゆく…まるで花が咲くように
赤い……赤い……世界………
まるで血の様に赤く……とても美しい世界………
もっとこの色を見ていたいと思いながら、幸村は再び意識を失っていった……
「っ!!」
前触れもなく…世界に光が差しこんだ。
それが生まれる前から決められていた不文律の様に、幸村の瞳が開かれる。
見慣れた病室の天井が、相変わらずの白さで彼を迎え、そして、泣きながら自分の名を呼ぶ母親達の声も、彼を迎えていた。
「………」
もう大丈夫です…という医師の声が部屋の向こうから聞こえ、両親の感謝の言葉がそれに応えているのも分かった。
しかし、薄い膜一枚が彼らと自分の世界を隔てている様に、今の幸村はそれに意識を向けることはなかった。
音としては聞こえているが、言葉としては通じない。
(……あれ…?)
そんな経験を、自分はついさっきもした様な気がする……
(何だったっ…け…)
頭がぼうっとして、思い出せない……
「………」
頭をゆっくりと動かすと、外は真っ暗…サイドテーブルの時計を信じるとするなら、もうすぐ夜明けに近い時間だった。
どれだけ自分は意識を失っていたのだろう…と漠然と考えながら、幸村はゆっくりと身体を動かし、起き上がる。
それだけの動作が酷く苦痛だった。
まるで一昼夜、テニスをやり続けたぐらいの…しかし、テニスの様な達成感や充実感は微塵もない、ただ、無駄な疲労だけが身体に残っているようだ。
自分の名前を呼んだ両親が慌てて自分に駆け寄り、また寝かしつけようとしたが、幸村はその前に、あの鉢植えを見つけた。
いつもの様に、窓際に置かれているそれは、鮮やかな緑の色を完全に失っている。
「……?」
嘘だ…と、最初に思った。
「…り、はら…」
小さな声で呼びながら手を伸ばす、届くわけもないのに。
何度もそれを繰り返している息子の様子に、彼の意図している物に気付いた親が、仕方なく鉢植えをベッド前のテーブルに置いてくれた。
幸村の目前に置かれたそれは…・『切原二号』は…無残な姿だった。
葉も茎も老人の骨の様に枯れ果て、あんなに瑞々しく膨らんでいた蕾も、一つ残らず落ちてしまっている。
いや、よく見ると蕾が落ちたのではなく、一度咲いた花弁が散ってしまっていたのだ。
呆然とする幸村に、母親が言った。
自分が倒れた昨日から、気が付いたら、もうこうなってしまっていた、と。
有り得ない…
たった一日でどうしたら花が咲き、そのまま、まるで生き急ぐように一日で枯れてしまうのか…
生き急ぐように……
「……っ!!」
突然、幸村の脳裏に、あの白い世界の出来事が甦る。
切原のような…それでいて別人のような男が、自分の手を取って、最後に言った言葉…
そうだ……今、思い出した……彼は……
「……あ…」
ぼろっと、知らず涙が零れた。
泣きたいと思う前に、悲しいと思う前に、涙が溢れて止まらなくなる。
そうか…そうだったのか……だから…あんなに美しい鮮やかな赤が……
「…じゃあ……君が……」
細い指で、枯れた葉を、茎を、花弁を撫でる…・何度も何度も、慈しむように、慰めるように
そして、涙はまだ流れ続けている……
「君が……俺の代わりに………」
どんなに病に苦しめられても涙は決して見せなかった息子が、枯れた植物の姿に泣き続けている姿に、両親は驚き、戸惑うばかりだった。
医師は、覚醒した直後でまだ意識が混乱しているのだろうと判断した。
それは正しいかもしれないし、誤りであるかもしれない。
ただ、もし少年が泣く理由を彼らに語ったところで、信じてくれることは無いだろう。
幸村は聞いていたのだ、あの切原の姿をした男が、笑って最後に遺した言葉を…
『かわりに死んであげる』
「君在りて幸福」
その言葉を抱く彼は…自分にそう言ったのだ……
「本当に良かった…俺達が来た時には、面会謝絶でどうなるかと思っていた」
幸村の意識が戻ったと聞き、立海のメンバーはすぐに全員が彼の許に見舞いに訪れた。
みんな、心配していたのだろう、会ってしばらくは、まだ信じていいのか分からないような、ぎこちない表情をしていたが、幸村の言葉と表情を確認し、ようやく安心した様子だった。
「……?」
ふと、切原が辺りを見回し、それに気付いた幸村はすまなさそうに謝った。
「御免ね、切原…『切原二号』は…もう枯れてしまったんだよ……」
「え…あ…そうッスか」
「うん」
「…いいッス。部長が無事だったんなら、俺はいいッスよ」
少しだけ残念そうな顔をした後輩は、しかしすぐにいつもの呑気な笑顔を浮かべて言った。
部長が生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだから、彼が助かっただけで切原は満足だった。
「…切原」
相手の気遣いに幸村は感謝しながら、でも、と続ける。
「まだ、終わってはいないんだよ。あそこにね…」
指し示した先、日当たりの良い窓際に置かれた小さな小鉢の中に、小さな枝が一本挿されていた。
あれから幸村は必死に『切原二号』を調べ、何とか生き延びそうな枝を切り、挿し木にしたのだ。
「どうなるかはまだ分からないけど、何とか助けてみる。花は、少し先にお預けだね」
「…へぇ…」
暫く無言で挿し木を見ていた切原は、にっと笑うと幸村へと振り返った。
「じゃあ、その花は、幸村部長の家で見ましょうよ。元気になった部長も一緒に、みんなで!」
「切原…」
後輩の言葉に、誰も茶々を入れることなく、一様に笑って頷いた。
そして、幸村もまた、笑った。
「うん……俺は、生きるよ……君達と一緒に」
君がくれた命を、言葉を抱いて……生きるよ……
了
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