繋がれた縁
「そうそう、円をかくようにして…よしっ!」
「えいっ!」
ぱこ―――ん!
今日も良い天気に恵まれている立海テニスコート。
男子だけで構成されている部員達が練習に励む場所だが、この日は普段と違い、女子の声も混じって聞こえていた。
部員の練習を邪魔しないように、コートの隅のそのまた隅の所で、一人の少女が二年生のエース切原から、テニスのフォームのチェックを受けていたのだ。
青学の男子テニス部顧問、竜崎スミレの孫にあたる青学一年生女子、竜崎桜乃だ。
「おし、何かイイ感じになってきたんじゃねぇ?」
「わ、そうですか? 有難うございます、切原さん」
「へへ、いいってことよ。アンタ、いっつも一生懸命に話聞いてくれるし、ちゃんと頑張ってるもんな。教えてる俺達も張り合いがあるって」
「えへへ…頑張りますね」
そんな二人の様子を、遠巻きに他のレギュラー陣が見つめている。
「今日は切原が当番かー」
「しかし頑張るよなぁ、相変わらず。ま、俺達と比べたらまだまだ甘いが…」
丸井やジャッカルの言葉に、柳はふむと顎に手を当てて分析する。
「竜崎が女性である以上、俺達と比較することは出来ない。しかし、彼女の努力は特筆すべきものがあり、見習うに値する。それに彼女に指導する行為は俺達にとっても基本に立ち返る上で非常に有用だ」
「そうですね。たゆまぬ努力をする者は見ているだけでも励まされますし、自らもああなるべしという道標にもなるでしょう。こういう言い方は好ましくありませんが、ウチの非レギュラー達にも、「女性に負けてはいられない」と発奮している者も多いと聞きます」
柳に同意する柳生を見て、仁王はふーんと面白そうに向こうの少女に注目する。
「…そんなにウチにメリットが多いんなら、本気で立海に引っ張って来たいのう…出来ないことはないが、まぁ、本人にはいい迷惑じゃろうな」
嫌われたくないし止めとくかーとのたまう詐欺師に、当然だ、という視線を向けながら、真田もまた桜乃へと視線を向けた。
「しかし、まぁ確かに、竜崎も最近は上達が目覚しい。来た頃は危なっかしかったものだが、最近はミスも少なく、難しいボールでも捕らえられるようになってきた。このままいけば、女子の部でも十分に上を狙えるだろうな…」
「ふふふ…珍しいね、弦一郎がそこまで手放しで人を褒めるなんて」
真田の評価に対し、静かに笑ってそう言ったのは、立海のテニス部部長を務める、幸村精市だった。
長い間、重い病に苦しめられ病床に臥せっていた彼だが、奇跡とも呼べる復活、回復を果たし、今では元の様に凛とした姿で立海のテニス部を牽引している。
その華奢な見た目からは想像も出来ない強い意志を秘めた若者だが、普段は非常に温厚で、よく出来た人柄で部員に限らず人々から慕われている。
本当の強さとは優しさの中で生まれ、育まれる…彼を見ると、そう思える人も多いだろう。
「しかしなぁ、竜崎も今でこそあんなに熱心で、上達もしてるが、これからがな…」
ふとジャッカルが漏らした疑問に、仁王が顔を向ける。
「何じゃ、これから不真面目にやるとでも思うんか?」
「違う違う。聞いた話だと、彼女、中学に入って青学のテニス部に触発されてテニスを始めたらしくてさ。最初って、色々なフォームを覚えて面白い時期ではあるけど、結構上手くいかないこともあって、投げる奴も多いよな」
「ああ、確かに」
柳もそれには頷いた。
毎年、立海のテニス部にも新入生が来る春の季節には多くの入部希望者が訪れる。
選考を経て入部出来た者は、最初は頑張って部活動に参加するのだが、その内、数は明らかに減ってくる。
練習が辛くてついていけない者も多いのだが、他には己の力の限界、壁の高さに絶望して辞めていく者も少なくないのだ。
真実は、彼らに力の限界はなく、壁も無限に高い訳ではない。
それなのに、彼らは勝手に己の限界を己自身で作り上げ、そして勝手に放棄していったのだ。
人には可能性がある、それは誰にでも同じ様にある。
それを潰そうとする困難が訪れては打ち払い、訪れては打ち払う…それを何度も何度も繰り返し、もう限界だというところで、また困難は訪れる。
しかし、それを乗り越えてこそ、その人に初めて更なる可能性を掴むチャンスが与えられるのだ。
「おさげちゃんが、壁にぶつかったらどうするかって事かぃ?」
「まぁ、あんなにいい顔でテニスやってんだ…辞めないでくれるといいなってな」
「辞めないよ」
苦笑して言ったジャッカルに、断言で答えたのは幸村だった。
彼は薄く笑いながら、真っ直ぐに桜乃を見つめている…まるで存在そのものに執着している様に。
「…彼女はへこたれずに、ラケットを振っていた……前から頑張り屋だったよ」
「?」
相手の言い方に、何処となく不自然さを感じ取り、真田が眉をひそめた。
「前から…? お前の言い方では、随分以前から彼女を知っていた様に聞こえるが…もしかして、夏以前から彼女を知っていたのか?」
真田の質問に、ありえないと声を上げたのは丸井だった。
「えー? そりゃ無理だって。だって幸村、その頃はずっと入院してたじゃんか。青学どころか、病院の外にも出られない状態だったのは、真田もよく知ってるだろぃ?」
「む…確かに、それはそうなのだが…」
確かに、あの夏の日に彼女と出会った時が、自分達にとっての初対面だった。
試合の時にも会っていたと言えばそうなのだが、互いのベンチに別れ、顔もよく見えない状況だったから、あれでは会っていた、知っていた、とは言えない。
そして何より、幸村は関東大会の時には、外に出ることなど出来なかった…
彼にとっての戦いは、手術室で行われていたのだから…
「……」
夏以前での桜乃との出会いが、ある筈の無いものと認識されている中で、幸村はそんな彼らの声など聞こえていない様に、桜乃をじっと見つめていた……
初夏と呼ぶにはまだ早い季節の変わり目だった。
暖かな日差しが差し込み、木々の緑がようやく色づきを強めようかという時期に、幸村は、季節の中で取り残された様に着慣れたパジャマを纏い、その日も病院という白い牢獄の中を彷徨っていた。
牢獄と言っても、普通の牢獄よりは快適な環境で、身体を拘束する枷もない。
しかしこの時の幸村にとっては、ここは牢獄以上に地獄だった。
枷はなくとも、自身の自由にならない身体が枷そのものであり、目の前に自由に開く扉があるというのに、そこをくぐってはならないという不文律によって閉じ込められている。
自由の世界と閉ざされた監獄…それを隔てるものは自身の中に。
望まぬ災いを身体の中に抱えたまま、幸村は上階の窓から正面玄関側の広場を見下ろしていた。
残酷な程に快晴で、雲ひとつない。
飛べる羽があったら、この空に飛んでいきたい気分だ。
いや、羽などなくても、ここから出てゆく方法はある。
とても手軽で、確実な方法だ。
「……」
ぐ、と握っていた窓枠に力を込めて、幸村は僅かに身を乗り出し…そして苦笑した。
「……ふふ」
やっぱり駄目か。
何度やろうと思っても、その度に一つの思いが邪魔をする。
それさえなければ、自分はもうとっくに…
(…テニスがしたい)
ただ、それだけが、今の自分をこの世界に繋ぎとめていてくれる…ただそれだけが。
ラケットの手触り、グリップの感触、コートの広さ…
相手と戦う時の、代え難い高揚感…
思い出す程に、渇望し、胸の切られる思いがする。
また、戦いたい…あの仲間達と一緒に…
だからこそ、自分はまだ逃げてはいけないのだ…分かっている、分かっている…
けれど、迷いはいまだ己の中に……
どうしたら断ち切れるのか…と頭を伏せ、そして不意にそれを上げた時、彼の視線が一点へと引き寄せられた。
病院の正門に近い、広葉樹が植えられている一箇所で、何かが動いていた。
いや、誰かが何かの作業を行っているのだ。
「……」
見ず知らずの誰かが何をしていようと、普通の人間はあまり気にも留めないだろう、しかし、この時の彼の視線は、その人物に釘付けになった。
(あの子……テニス、してる)
女性だということはすぐに分かった。
何処かの学校のセーラー服を着た、おさげの少女だ。
彼女は木の陰でラケットを持ち、つたない動きでフォームを確認しながら、素振りを行っていた。
(うわ……初心者だ)
幸村でなくとも、それはすぐに分かる。
実に動きが不自然でたどたどしく、一つ一つの動作に自信がない様子だ。
一人で何度か素振りを繰り返しては、首を傾げて何事か考えている。
きっと、今の自分のフォームが正しいのかどうか、頭の中で検証しているのだろう…が、初心者がそれを判断すること自体、難しい。
フォームは、誰か上達者の指導を受けて身体で覚え、それから自身でこまめにチェックをしていくものである。
独りよがりで行っても、それは将来、変なクセがついてしまう事になりかねない。
テニスに限らずどんな競技であっても、基本に忠実であることが重要なのだ。
「…うーん」
ほんの一分前には悲壮な表情を浮かべていた幸村が、今は別の目的で窓から身を乗り出し、その少女の動きを細かく見ていた。
遠目だからあまり細かい筋肉の動きまでは分からないが、それでも改善点はすぐに見つかった。
「力み過ぎだよ…手首もあれじゃあすぐに傷めてしまう…本当に始めたばかりなんだ」
それなら、尚更しっかりとした指導を受けないと、後々まで面倒なクセをつけてしまう。
初心者だからこそ、陥りやすい罠だ。
練習を一人で多くこなす事で満足感は得られるかもしれないけど、その代償は痛いものになる。
その事実に気付かず、少女はまた、同じ様に素振りの姿勢をとり、ラケットを構えていた。
「力を抜いて!」
知らず、叫んでいた。
叫んだ後に我に返ると、向こうの少女は聞こえてきた言葉に、はた…とフォームを解いて、きょろきょろと辺りを見回している。
自分に言われたのかどうか、今ひとつ分かっていない様子だった。
つい、声を上げてしまったが、こうなったらそのまま見ない振りをする訳にもいかない。
「力みすぎてる! 余計な力は抜いて、代わりに手首はしっかり固定するんだ、怪我するよ!」
再度の忠告に、今度ははっきりと自分に向けて言われた事だと理解した少女は、更に頭を巡らせて、こちらへと視線を向けた。
互いの距離は遠かったが、その視線が重なったことは二人ともが理解した。
幸村が上階の室内にいることもあり、桜乃は彼の顔も殆ど見えていない様子だったが、ラケットを抱えてすたたーっとこちらに走ってくる。
「…手首を動かさないで、身体で打つんだ。腰や肩を意識してごらん」
下から見上げていた少女は、幸村の指導を受け、ちょっと戸惑った感じだったが、こくんと頷き、その場で構えた。
近くなったお陰で、より詳しい姿勢が明らかになる。
「足をもう少し開いた方がいい。肘はもっと閉めて。左手にも集中して」
こくんと頷き、姿勢を改めて、少女はぶんとラケットを振った。
最初のフォームから比べてかなりの改善を認め、それは素振りをした本人にも分かったのか、嬉しそうに笑うと、またこちらを見上げてきた。
おさげを揺らして笑う少女は、まだまだ幼い…きっと自分より年下だ。
あの制服…中学生だな。
あれ? でもあの制服は、見たことが…
「幸村君、ここにいたの」
彼の思考を、呼びかけてきた声が止めた。
「…」
ふ、と廊下へと視線を向けると、自分の担当の看護婦がこちらに向かって歩いてきていた。
どうやら自分を探していたらしい。
「検査の時間よ、そろそろ下に下りないと」
「あ…」
そう言えばそうだった…午後に検査室に行かないといけないと言われていたのだったが、すっかり忘れていた…
テニスが絡むと、いつも自分はこの調子だった…久し振りだな、こんな経験も。
もう一度ひょこんと首を窓から出すと、またあの少女と視線が合った。
「有難うございました、あのう…」
「ごめんね、もう行かないといけないんだ」
話しかけてくる相手の言葉を申し訳なさそうに切ると、幸村は軽くばいばいと手を振った。
「じゃあね、テニス頑張って」
「は…はい、あの…お大事に!」
「!…有難う」
ぺこんと頭を下げる少女に微笑み、幸村は看護婦について歩き出した。
(お大事に…か。不思議だ、病人だって事も忘れていたよ)
やっぱり自分は…大概テニスが好きなんだな……
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