それから約一ヵ月後、幸村はまだ、牢獄の中にいた。
相変わらず、流れる時間に押しつぶされそうになる程に退屈で、ただ唯一自分が自分らしくいられるのは、イメージトレーニングの中でラケットを握っている時だけだったけど…
そんな彼に、予期せぬ二度目の邂逅が訪れた。
或る日、またいつもの様に、天気の良い日に窓の外を見つめていた幸村が、何かを見つけた。
(…あれは)
あの日の事が一気に頭の中でフラッシュバックする。
小さな少女が、木の下でラケットを振っていた時…あの瞬間が、また戻って来たと思った。
「…あの子だ」
ぽつりと呟く幸村の視界の先は、あの木の根元…そこで、ラケットを握っているおさげの少女…
幸村は自然に窓枠に手を掛け、身を乗り出し、彼女の様子を探る。
あの時と違う点は、少女のフォームが確実に良くなっている事だった。
自分があの日に教えた事を忠実に守り、しっかりとした正しい形が身についている…のだが、何かが引っかかる。
(何だかまだぎこちないな…)
肩の動きはスムーズだし、何が…と思っている幸村の目に、引っかかる物が映った。
(…包帯?)
彼女のラケットを持つ手が、包帯で包まれている。
それに気付いた瞬間、幸村は相手の動作のぎこちなさについて正解を導き出していた。
(怪我を庇ってるんだ…だから僅かだけど、身体のタイミングにずれを生んでいる)
自分の仮定が正しいことは、すぐに立証された。
普通に素振りをやるのであれば、数回は続けて行える筈なのに、少女は一度振っては少し間を置き、また一度振ってはまた間を置いた。
そしてその動作の中で、ラケットを持ち手から離しては、包帯で包まれた掌を凝視している。
(痛いんだな…)
よく見る程に、痛みを堪えている様子がありありと見て取れる。
そんなに痛いのなら止めればいいものを、まるで何かに取り憑かれた様に、何かに立ち向かっていくように、何度も…
「ねぇ」
呼びかけていた、あの時と同じ、無意識の内に。
今度は、向こうはすぐに気付いてくれた。
すぐに素振りを止めて、こちらへと走ってくる。
「…こんにちは」
「こんにちは」
やはり逆光の所為か、向こうは光を反射する白の壁を眩しそうに見上げている。
かなり高さもあるし、こちらの顔など、殆ど見えていないだろう。
「…怪我をしたの?」
こちらの問い掛けに、相手ははた、と自身の包帯を巻いた手を見て、そして、恥ずかしそうに笑った。
「…力を入れすぎて、皮が剥けちゃって…」
多少の力が入っても、無論、そう簡単に手の皮が剥けることなどない。
彼女は、あれからどれだけラケットを振っていたのだろう。
自分が見ていないところで…
「…痛い?」
「……ちょっとだけ」
下手な嘘をつく少女に、幸村は笑う。
「休まないの?」
「…テニスをしたがるんです…身体が。痛いけど、やらない方が落ち着かなくて」
変ですよね、とまた恥ずかしそうに笑う少女は、酷く眩しく見えた。
真っ直ぐにテニスと向き合っている人間と会ったのは、随分と久し振りだ。
おかしいな…何だか、無性に嬉しい…
ここに入院してから、こんなに嬉しいと感じることなんて無かった…
「…好きなんだね…テニス」
そんなに痛みを堪えるほどに…君もテニスが好きなんだ。
問いに対し、少女は一瞬きょとんとして…そしてうんと頷いた。
心からの笑顔と共に。
「俺も、好きだよ…」
幸村も、笑って言った。
張り合うつもりじゃないけれど、俺もこんな身体になっても尚、テニスをやりたい気持ちで一杯だ。
二人が互いに微笑み合った時、何処からか声が聞こえてきた。
『桜乃―――――――っ、おいで!』
「!…おばあちゃん」
通りのいい大声で呼ばれたのは、少女だったのか。
彼女の視線から、どうやら呼んだ人物は玄関の中にいるらしい…誰かの見舞いだろうか?
(…ふぅん)
初めて少女の名を聞き、記憶した時、幸村がサクノから声を掛けられた。
「あのっ…私、桜乃です…あの…」
何かを言おうとした時、また向こうから声が聞こえてきた。
『桜乃! 早くおいで!! 何してんだい!?』
「は、はいっ! おばあちゃん」
急かされて、幸村と玄関を交互に見つつ大いに慌てている少女に、彼はくすくすと笑いながら手を振った。
「…行っておいで、待たせたら悪いよ」
「は……はい」
ぺこっとお辞儀をして、少女は玄関へと向かい、姿を消した。
せめて、名前を聞きたかった…その気持ちは、結局声には乗せられないままに……
消える相手を見届けて、幸村はひそりと呟いた。
「……サクノ…か」
誰のお見舞いかな…病人か…それとも怪我?
いや、そんなことより……また彼女に会えるだろうか…?
夏が来ても、幸村は、結局それからあの少女と会うことはなかった。
「精市、行くわよ」
呼びかける親の声を聞きながら、彼はあの木の根元に立っていた。
彼女…サクノが素振りをしていたあの場所だ。
自分は今日、病を克服し、この牢獄から出て行く…
嬉しいけど…少し、心残りだな……
名前は聞いていたけど、それ以上のことは結局何も知らないままで…ここから出たら、もう彼女と会うのは難しいだろう。
後は、テニスという繋がりだけ、か……手繰り寄せるにはあまりに漠然とした繋がりだ…
「じゃあね、サクノ」
俺はもう行くよ…君も元気に、テニスを続けているといいな…
病院での生活が日常となってしまっていた幸村にとって、本当の日常に慣れるまでには多少の時間を要したが、特に困ることもなく、彼は再び本来の生活へと馴染んでいった。
それには、家族の助けだけではなく、友人達の助力も大きな功を奏したと言っていい。
或る夜のこと、これもリハビリの一環だと、テニス部の仲間達が自分を花火大会に誘ってくれた。
おそらく自分達が騒いで遊びたいという目的も多分にあったのだろうが、幸村は快く承諾し、浴衣を着て出掛けたのだった。
「すごい人ごみだね」
「ああ、毎年、結構な数の花火が打ち上げられるイベントだからな…精市、気分は大丈夫か?」
「ふふ、有難う…何て事はないよ、寧ろ、久し振りにこんなお祭りに参加出来て、嬉しいくらいさ」
気遣ってくれる親友の真田に答えながら、幸村はゆっくりと人ごみの中で歩を進める。
ふと、気になる夜店を見つけて、ほんの少し立ち止まっている間に、彼は真田と、同じく親友の柳とも多少の距離を置いてしまった。
「ああ、しまったな……うーん」
他のメンバーはまだ後ろの方で、店を回っては楽しくはしゃいでいる筈だ。
(…まず、弦一郎達と合流しようか…)
こういう時、相手が身長がある場合には助かる…と思いながら二人の後を追いかけていくと、それ程苦労も無く、幸村は目的の二人を見つけた。
「げん…」
呼びかけようと開いた唇が、ふ、と閉ざされ、幸村の瞳が大きく見開かれた。
(あの子は……!)
周りの人ごみなど、最早存在していないかの様に、彼は意識を視線の先にのみ集中させていた。
少し先に行ったところに真田がいることは認識出来た…柳も一緒だ。
しかし、幸村の視線を固定させているのは、その二人ではなく、彼らが相対している一人の少女だった。
おさげの、幼さの残る少女……あれは…間違いない!
「っ!!」
弾かれた様に、彼は前へと急いだ。
真田と対峙し、彼を見上げ、心なしか怯えているような様子の彼女に、真っ直ぐに向かってゆく。
行かないで…
心の中で願う。
行かないで、まだ、そこにいてくれ…
人の群れを掻き分けつつ前へ前へと進む彼の耳に、次第に三人の会話が聞こえてきた。
『こんな場所に竜崎先生が孫…しかも女の子を…』
柳の言葉で納得した。
ああ、あの時に見た制服の既視感はそれだったのか…青学のものだったから…それに、あの竜崎先生のお孫さん…? 彼女が?
じゃあ、あの日に彼女を呼んでいた『おばあちゃん』は、竜崎先生だったのか…
『どうした? 何故、黙っている』
真田の厳しい一言に、幸村は内心ヒヤリとした。
ああ、駄目だよ。そんな言い方をすると、彼女が行ってしまうかもしれない…
行かせない…絶対に…折角、また会えたのに!
逸る気持ちを抑えながら、彼はようやく三人の傍まで来ると、すうと軽く息を吸い込み、会話の中に割り込んだ。
「弦一郎、いけないよ。彼女、恐がっているじゃないか」
「!?」
割り込んだ自分の声に、あの子がはっとこちらを振り向く。
その顔を見て、幸村は密かに心を震わせていた。
(ああ……やっぱりあの時の子だ)
きょとんとこちらを見上げてくる仕草も、何も変わってはいない…
「……竜崎先生のお孫さん?」
「は…はい」
「……」
やっぱり、自分とあの病院で話をした事実についてはまるで気が付いていないみたいだね……じゃあ、知っているのは俺だけか…
ただ一人…自分だけが持つ秘密に、幸村は嬉しくなってにこりと笑った。
「よろしくね、立海大附属中学、男子テニス部部長の、幸村精市だよ……」
会いたかったよ…ずっと…
自分にとっては三回目…しかし彼女にとっては初めての、これが出会いだった……
(もう会えないと思っていたのに、まさかあんな場所で再会して、こんな縁を持てるようになるなんてね…)
過去を思い出して、幸村はにこにこと笑いながら桜乃を見つめている。
「おい…精市?」
「ん? 何だい? 弦一郎」
「前から思っていたが…お前はいつも嬉しそうに竜崎を見ているな」
「ん…そうかな」
答えながら、依然幸村は笑みを浮かべて竜崎の様子を見つめ、視線を外そうとはしない。
「まぁ、俺達の指導で上達していくのを見るのは喜ばしいことだからな、分からんでもないが…俺より余程お前の方が、彼女をかっていると思うぞ」
苦笑する親友に、ようやく顔を向けて、幸村がにこりと微笑んだ。
「ふふ、そうかもね…だって、嬉しいから」
彼女の上達もそうだけど…何よりまたこうして会えたことが嬉しい。
名前しか知らなかった彼女の事を少しずつ知ってゆける…
窓越しにしか見ることが出来なかった彼女に、今はもう触れられるほどに近い…
「すっかりお気に入りじゃの」
幸村の桜乃に対する態度の中に、ただの友情以上のものを既に感じ取っている仁王の言葉にも、相手は特に動揺することもなく笑った。
「そう…彼女は俺の大のお気に入りだよ」
「お前さんにそこまで言わせるとは、あの子もやるのう…お、練習が終わったようじゃ」
やれやれと笑う銀髪の男が示した先では、切原との練習を終えた桜乃がラケットを抱えてこちらに向かい、走って来るところだった。
「ああ、そうだね」
答える幸村もゆっくりとベンチから立ち上がり、彼女達の方へと足を踏み出す。
「あ、幸村さん」
「やぁ、頑張ってるね、竜崎さん。テニスは好きかい?」
「はい!」
にこにこと笑って、躊躇いもなく頷く相手に、幸村は優しく微笑んだ。
「そう…」
自分も勿論好きだ。
昔は信じられる仲間達とプレイすることが好きだったけど、今はもう一つ好きな理由が出来た。
それは…君に会わせてくれたから。
テニスが、自分を、こんなに素敵な子と出会わせてくれた……
「俺も好きだよ」
テニスだけじゃなくて、君のことも凄く好きだ。
もしかしたら、あの日から…始まりの日から、もう俺は君が好きだったのかもしれない…けど…
(何だか悔しいから、あの日の事は俺だけの秘密にしておくよ)
そしてもしいつか、君があの時の出会いを思い出したら、その時は俺も一緒に笑おう。
大好きな、君の隣で……
了
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