吊り橋効果?


「やっぱりこんな時間だと、お客さんも少ないなぁ」
 或る夜、桜乃は街の中の高層ビルの中にいた。
 様々な店が入っている所謂総合デパートであるが、閉店時間がかなり近くなっており、もう人影もまばらだった。
 彼女がここに来たのは、上層階にある店で、久し振りに友人達と夕食を楽しんだのだ。
 一人の友人が招待券を持っており、祖母にお願いして、今日だけ夜の外出を特別に許可された。
 無論、友人達は全員が女性である。
 その彼女達とも店の外で解散し、彼女達も今頃は思い思いの店を回るなり、帰宅するなりしているだろう。
「…私もそろそろ帰ろうかな」
 久し振りの夜の外出を満喫すると、桜乃はビルのエレベーターへと向かった。
 その乗り場に来たところで、彼女はエレベーターのボタンの傍に、一枚の貼り紙を見つけた。
「あれ?」
 何かと覗き込んでみると、明日のエレベーターの点検についてのお知らせだった。
 どうやら明日、この機は一日、メンテナンスを受ける予定であるらしい。
「えーと…ワイヤーの脆弱性を確認、必要であれば交換するため、この日は終日使用出来ません…か」
 なるほどなるほど、と頷いていた桜乃の目の前で、そのエレベーターが到着し、がーっと特徴的な音と共に扉が開かれた。
 もうこの時間ではエレベーターガールもいない。
 中を見ると、一人だけ、乗客がいた。
 男性で、こちらには背中を向けている。
「……」
 別に話す必要性もないので、桜乃は無言のままに乗り込んだ。
 そして、彼女を呑み込んだエレベーターは、桜乃ともう一人の先客を乗せてゆっくりと降下を始めた。
「……」
 桜乃がこのビルのエレベーターに乗った時の指定席は、エレベーターの奥の壁際。
 そこは全面がガラス張りになっており、外の景色がよく見えるのだ。
 先客が背中を向けていたのも、彼もまた、外の世界をガラス越しに眺めていたからだった。
 この時も、彼女はすぐにとてて…と壁際に寄り、先客の隣でぺたりと両手をガラスにつけて、外を覗き込んだ。
(わぁ…綺麗…)
 そのまま景色に集中する前に、桜乃は少しだけ隣の男性に興味が沸いた。
 自分より長身の見知らぬ男性と二人きりともなると、のんびり屋の少女であっても多少は気になるものである。
(どんな人かな…)
 ちょっとだけ…と思い、ちらと隣を見上げると、隣人も彼女と全く同じタイミングで、全く同じ事を考えていたらしく、ほぼ同時にこちらへと視線を落としてきた。
「え?」
「ん?」
 し―――――――ん……
 互いが互いの顔を見合わせた瞬間、二人ともが瞳を見開き、相手の姿を再確認する。
 そして、自分の見間違いではないと認識して…
「竜崎さん?」
「あ、幸村さん」
と、呼び合った。
 呼び合った後に、二人は照れた様に微笑み合った。
「何だ、君だったんだ」
「お久し振りです、幸村さん」
 共に見知った人間だったということで、エレベーター内の空気が和やかなものに変わる。
 幸村は立海の男子テニス部部長であり、全国的に名を知られた名プレーヤーである。
 片や、桜乃は青学の女子テニス部員であるが、テニスを始めたのが今年からのほぼ初心者。
 しかし二人は夏の出会いを切っ掛けに、他の立海メンバーも含めて大変な仲良しさんとなり、最近は桜乃が立海にテニスの見学へも訪れる程であった。
 メンバーの中でも性格が温和な幸村は、部長だけに後輩の面倒見がいい所為もあってか、初心者の桜乃には特に優しく親切で、困ったことがあったら相談にも乗ってくれる非常に良いお兄さん的な存在になっており、彼女からの全幅の信頼を寄せられていた。
 幸村に実際、妹がいるというのも桜乃を可愛がる要因なのかもしれないが。
「今日はどうしたの? 随分遅い時間だけど…って、俺が言うのも変だけどね」
 ふふ、といつもの様に微笑む幸村に、桜乃もにこりとにこやかに笑う。
「今日はお友達と上のレストランでお食事です」
「へぇ…でも御家族の方がよく許したね」
「おばあちゃんを一時間拝み倒しました」
 えへんと胸を張る少女に、幸村はそう、と頷いた。
 元々が違反や非行などとても出来そうにない純真無垢な少女が、無断での夜間外出など出来る訳がないと読んでいた彼にとっては、想定内の答えだった。
「…で、幸村さんは?」
「…上の階にスポーツコーナーがあってね」
「テニスですね」
「勿論。柳生だったら、ゴルフって選択肢もあっただろうけどね…でも残念、そんなに品揃えが良くなかった」
「あらら…それはがっかりでしたね」
 三年生と一年生という学年の違いはあるが、桜乃はこれまで彼と話している時に、その垣根の高さを感じたことなど全くなかった。
 かと言って自分がその高さに登っている訳ではない、相手がこちらの高さに合わせて、話してくれているのだ。
 丁度、背の高い人が自分より低い人に対して腰を屈めて視線を合わせるような…そんなイメージ。
 そういう事をさりげなく行えてしまえる幸村さんは…
(大人だなぁ…いつも立ち振る舞いも堂々としているし、落ち着いているし…いいなぁ)
 出会った頃は、こんなお兄ちゃん、いいなぁと思っていたものだが、最近は少し違う見方になってきた。
 自分にはとても過ぎた願いであることは分かっているけど、夢を見ることが許されるのであれば、彼のような人が恋人であれば凄く幸せだと思う。
 憧れるように一瞬うっとりとした桜乃が、はた、と気付いた。
(わ…そう言えばよく考えたら、二人っきりなんだ、今…)
 狭い空間で、二人仲良く並んで…夜の街の灯りを眺めている…図らずも、物凄く魅力的なシチュエーション。
(…このまま、二人でいられたら…って、無理よね、すぐに一階に着いちゃうし…)

 ガクンッ!!

「ん?」
「きゃっ!!」
 突然、下から突き上げられるような地響きを感じて桜乃はよろめいた。
 幸村は流石に鍛えている所為か、バランス感覚抜群で僅かに身体を揺らすのみで視線を上へと上げた。
 続いて電灯がふっと消えて辺りが真っ暗になる。
「…あれ? 止まった?」
「ええ!?」
 まさか、心の中で思っていたお願いが、こんな形で神様に通じちゃったの!?
 ありえない事を本気で心配し、必要以上にうろたえる桜乃の隣で、幸村はきょろっと辺りを見渡しつつ、景色が動かなくなったこと、エレベーターの移動時特有の浮遊感が無いことを確認し、完全にエレベーターが静止した事実を認識する。
「移動だけじゃなくて電気まで止まった…停電かな」
「下の方は、問題ないみたいですけど…」
 或る程度の広さがある地区内の停電であれば、下方の建物などにも異常が生じる筈だが、向こうは全く問題ない、普段どおりといった感じだ。
「じゃあ、ビル内のみのトラブルかな…こうしていても埒が明かない」
 幸村は当然、外の担当と連絡を取ろうと、エレベーター脇のパネルに設置されている非常用のボタンを押した…が、うんともすんとも言わない。
 もう一度押しても、結果は同じ。
「ここの連絡網も死んでる…ええと、その場合の連絡先は…んん?」
 下に記されている電話番号を読み取ろうとするも、暗くて難儀していると、脇から小さな明りが差し込んできた。
「?」
 見ると、桜乃が自分のケータイのカメラ用ライトを点けて、脇から照らしてくれていた。
「これでどうですか…?」
「ああ、有難う。よく見えるよ…よし」
 少女の手助けも借りて、番号を読み取りながら自分のケータイに入力し、幸村が担当会社への連絡に成功する。
「もしもし? すみません、エレベーターのトラブルです…ええ、今です、二人閉じ込められてるので、至急お願いしたいんですけど…場所は…」
 簡潔に必要な要件のみを伝えると、幸村はやれやれと苦笑しながらケータイを切った。
「夜間だから対応している人間が少なくて、ちょっと時間が掛かりそうだって…念の為に家の人に連絡しておいた方がいいよ」
「そ、そうですか…」
 アドバイスに従い、桜乃は早速自宅へと連絡を入れ、その脇では幸村も同じ様に家に電話を掛けていた。
「あ、おばあちゃん? ごめんなさい、今エレベーターの中に閉じ込められちゃってて出られないの…ううん、大丈夫、もう会社の方には連絡が入ってるから。ちょっと帰りは遅くなっちゃうけど、心配しないでね…・・え?…うーん、ニュースで流れるかなぁ…って、ビデオに撮らなくてもいいよ!?」
 向こう側で何かの企みを感じ取った桜乃がケータイを通じて阻止しようとしている脇では、あっさりと連絡を終えていた幸村が、面白そうに少女を眺めていた。
(へぇ…イベント好きな家なのかな)
「ん…もう」
「お疲れ様」
 ぴっとケータイを切った桜乃に微笑んでそう言うと、若者は手持ち無沙汰にぐるっと首を巡らせた。
「さて、とんだトラブルに巻き込まれちゃったけど騒いでも仕方ないし…落ち着いて待つしかないね」
「はい、そうですね…」
 うんと素直に頷いた桜乃の脳裏に、急にあの貼り紙の内容が浮かび上がった。
(あ…そう言えば…ワイヤーが緩んでいるって…)
 頭の中に、素人が考えがちなイメージが浮かんだ。
 エレベーターを支えている頑強なワイヤーの一部がちぎれている…それがやがてエレベーターと中の人の重みで徐々に大きくなっていき、最後には…
(サイアク〜〜〜〜〜〜ッ!!)
 そんな事、絶対にない!と思いながらも、不安を完全に打ち消すことは出来ず、桜乃の表情が暗く沈んだものへと変わっていく。
(わ〜〜ん、思い出さなきゃよかったのに〜〜!)
「どうしたの、竜崎さん? 気分悪い?」
「あ、い、いいえ、そうじゃないんですけど…明日、このエレベーターがメンテナンスの予定だったって貼り紙があったのを思い出して…ワイヤーが何か、とか…」
「そうなのかい? 運が悪かったな…けど、今はここから動けないからね、諦めよう」
 さらりと言うと、男性とは思えない程に美麗な若者は微笑んで、ガラス窓の外を指差した。
「折角だから、ここからの夜景を見ておくのもいい…普段はすぐに下に下りてしまうからね、実はチャンスかもしれないよ」
「そう…ですね」
 自分にとっては大事な事件でも、彼にとってみれば些細なアクシデントに過ぎないのだろうか?
 受け止め方が泰然としている相手につられて、桜乃の心の動揺も徐々に収まってきた。
(そうか…そうだよね…必ず落ちる訳もないし一生ここにいる訳でもないんだから、前向きになっていかないと…変に騒いだら、幸村さんにも心配掛けちゃうし…)
 こちらを見下ろしてくる相手に笑顔で返事をすると、桜乃も彼に倣って外の景色へと意識を向け、様々な建物に灯る人工の星達を見下ろし始めた。
「……」
 しかし、幸村は少女には軽い言葉を投げかけておきながら、つい…と指先をガラスに触れ、そこから空間に滲み寄ってくる冷気を感じ取り、微かに厳しい表情を浮かべていた。
(…昼ならまだ良かったけど、今の時間は…救助も遅くなるって言ってたし、ちょっと長期戦を覚悟しておくか。まぁ、死にはしないだろうけど)
 何かを心に決めて、うんと頷くと、幸村は再度少女に呼びかけた。
「竜崎さん、座ろうか」
「え…?」
「同じ場所に長く立ったままだとどうしても足が疲れてしまうだろうから。座って少しは疲労を軽減した方がいいよ。ここはコートじゃないから、トレーニングする必要もないしね」
「あはは…そうですね」
「ふふ…」
 アドバイスを受けて、桜乃がガラス窓の傍で滅多に出来ないだろうエレベーターでの座位を取り、それを確認した幸村も、彼女から少し離れた場所で同じ様にゆっくりと座った。


「……」
 はぁ…と吐く息が、外からの街の灯りに照らされて白く変わるのが分かる。
 エレベーターに閉じ込められて、まだ一時間と経過していないのに、明らかに変わりつつある状況を、桜乃は身をもって理解していた。
「…何だか、寒くなってきましたね」
 環境の変化が最早疑いようもないと感じて口にした一言に、相手は全く反論もなく頷いた。
「そうだね…多分、この窓の所為だよ」
 そう言いながら、幸村はまた窓を指先で軽く撫でる。
 トラブルが生じた時から彼の頭の中には今の状況になる可能性は既に描かれていた。
「見た目重視のこういうガラス窓は、外気を遮断するには適さない素材だからね…ここから外の冷気がガラスを通じて入ってきてるんだ。エレベーターなんて、普段は一分と入っていない空間だろうし空調も効いているから、ここがガラスだろうと大した問題はないんだけど…流石にこれだけ空調なしで冬の夜空に晒されていると、ちょっと辛いね」
「幸村さんは…寒くないんですか?」
「確かに多少は冷えるけど…男性は女性より筋肉が多い分、熱産生も大きいから、その違いかな」
「…何だか説明が柳さんっぽいです」
「ふふふ、彼ほどじゃないよ」
 相変わらずのほほんとした受け答えをしている幸村だったが、その何気ない会話の中で彼は相手の語尾が寒さで微かに震えている事実を感じ取っていた。
(…そろそろ、辛くなってきているかもな…)
 とても恥ずかしがり屋の子だから、なるべく控えようとしていたんだけど、これ以上になると間違いなく風邪をひいてしまうだろう。
 仕方ない…実行に移すか。
「竜崎さん、その上のコート、脱げる?」
「は…はい?」
 いきなりの、予想外の質問に桜乃が唖然としたが、相手は構わず同じ質問を繰り返した。
「コート…脱げる?」
「は…ぬ、脱げますけど…あの」
「じゃあ、ちょっと脱いでくれる? 少しだけ寒くなるけど、我慢して」
「…はあ」



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