言われるままに、桜乃はベージュのコートを脱ぐと、それを腕に抱える形で持ったが、相手はそのコートに向けて手を伸ばした。
「ちょっと貸して」
「?」
更に意味不明の要望だったが、これにも桜乃は特に逆らうでもなくそのまま手渡して答えた。
「どうぞ」
「有難う…さて、竜崎さん、ちょっとこっちに寄ってもらえる?」
「? 幸村さんの方へ、ですか?」
「そうだよ」
「…はい」
何をするつもりなんだろうと思いながらも、彼女は座っていた態勢を少しだけ変えて四つんばいの状態になると、ぺたぺたと相手へと近づいてゆく。
ぺた…ぺた…
(わ…結構近づいてるんだけど…まだ…?)
これ以上近づいたら、幸村さんの顔が直前まで来ちゃうし…身体なんか、もう触れるか触れないかってところまで…
「うん…そのまま…ね」
「はい?」
間近に迫っていた相手の顔が、やけに嬉しそうにほころんだ…と思った瞬間、ぐ、と自分の背中に何かが押し当てられたかと思うと…
とさり…
「!?」
それはそのまま桜乃の身体全体を前へと押し倒し、結果、彼女は幸村の胸の中へと倒れこんでしまった。
「え…?」
一瞬何が起こったのか分からずに呆然とした少女が、状況を理解して慌てて身体を離そうとしたものの、全く自由が効かない。
この時初めて、桜乃は自分の背中に触れているのが相手の両腕だったと気付き、それが自分を離してくれないのだという事も分かった。
「あ、あの…っ、幸村さん!?」
「ん…これでよし」
かぁーっと顔を真っ赤にして動揺している桜乃を他所に、幸村本人は平然としながら預かっていた少女のコートを片手で取るとそのまま大きく広げ、ふわりと相手の背中へとかけてやった。
つまり桜乃の身体の前面は幸村の身体に密着し、背面はコートにより保護されるという姿になったのだ。
「床も冷たいし、暖房設備には負けるかもしれないけどね、こうしたら少しはましだよ」
「いい、いえいえいえ! そんな…お気遣い無くっ…!」
自分的には非常に嬉しい格好なのだが、あっさりその状況を受け入れる程に大胆にも図々しくもなれず、桜乃は必死に辞退しようとしたのだが…
(うわ…いつの間に足までっ)
後ろを見遣ると、幸村のすらりとした足が、がちりと彼女の身体をしっかりと拘束していた。
「幸村さん…!?」
桜乃の動揺にまだ気付いていないのか、幸村は腕の力を緩めるどころか、寧ろ更にぎゅうと力を込めて抱き締め、彼女の耳元で嬉しそうに囁いた。
「…あったかいや」
(キャ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!)
至福の時を過ごしているかのような囁きに、桜乃の身体が一気に熱くなる。
それこそ暖房などなくても、十分に発熱には間に合うように…
(どうしよう〜〜〜〜!! これじゃあ離れられないよ〜〜〜!!)
自分だけの寒さであれば遠慮を貫いたかもしれないが、相手が暖かいと言った以上、その暖を守ってあげる為にも離れる訳にはいかなくなってしまった。
それに正直な話、確かにこうして抱き締めてもらっていると、物凄く暖かい…
人工の温風など足元にも及ばないだろう、ほこほこと心までもが温められるような、優しい温もりだ。
(…人肌って、こんなにあったかいんだなぁ……)
恋人達がよく身体を摺り寄せあうシーンを見るけど、確かにこんなに気持ちいいなら納得だよね…残念なのは、幸村さんが私の恋人じゃないってことだけど…
「……?」
そんな事を考えている間に何となく上からの視線を感じて桜乃が顔を上げると、見事に相手のそれとぶつかった。
同時に視線を動かしたのではなく、相手が明らかにこちらを前から凝視していた事を察知した桜乃が、あわわっと再び慌て出す。
「あ…あのっ! な、何見てるん…っ」
「君の顔」
「ど、どど、どうしっ…どうしてっ…」
「可愛いから」
「かわっ…!」
絶句してしまった相手に、幸村が苦笑する。
本当に、一つ一つの動作がここまで可愛いなんて…目を離すのにも苦労するよ。
「言われたことないのかな…可愛いって」
「い、いえその……だ、男性の人に言われたのは…はっ、初めてで…!」
「…青学の男子は目が悪い人ばかりなの?」
「…そんなことは…菊丸先輩は特に良いですよ、動体視力も凄いし」
「そう、なら女性を見る目がないんだ」
『目が悪い』よりもっとヒドイことをさらりと言った若者は、そっと桜乃の頬を優しく撫でた。
「すぐ傍に、こんなに可愛い子がいるのに」
「え…ゆ…幸村さん…?」
「ふふ…」
林檎の様に頬を赤く染める桜乃を優しく見下ろしていた男は、それ以上は何も言わずに相手を抱き締め、ガラス窓の向こうへと視線を移した。
「どうせ君と二人きりでいるのなら、君とのデートなら良かったのに」
さらりと大胆な事を再び言った幸村だったが、ようやく桜乃も多少は免疫がついたらしく、今度は普通の口調で返した。
「…何だか余裕ですね幸村さん…いつもそうですけど」
「そう? 少なくとも、今の俺は凄く緊張しているよ」
「そうですか? いつも通り落ち着いているように見えますけど…」
「ふぅん」
言われて幸村はにこ、と笑い、徐に桜乃の右手首を掴む。
「…え…?」
そしてその掌を、そのまま自分の左胸に押し付けた。
「ほら」
「!」
ドク、ドク、ドク、ドク……
手に伝わってくる心臓の鼓動…凄く速い…
しかしそれより、掌に伝わる鼓動以外の、相手の胸の生地越しの感触と温もりに桜乃はうろたえ、慌てて手を離した。
「〜〜〜〜〜!!」
「…ね? 速いだろう?…実際、口から飛び出しそうだよ。かろうじてこういう風に落ち着いている振りをしている…ふふ、男の下らない意地さ。寧ろ一人の方が、見苦しい処を見られる心配がない分楽かもね」
「……幸村さん」
「…けど、君一人だけじゃなくて俺も一緒だったから、それだけでも良かった…どんなに良い景色でも、一人っきりで見るのは寂しいから」
「……」
「俺は寂しいのには結構慣れてるけど…君がそんな目に遭わなくて、良かった…」
ぽつりと呟かれた男の言葉の裏に、桜乃は彼がこれまで経験してきた心の痛みと寂しさを感じた。
そうだ、彼はずっと、ずっと…長い間、白い病室の中で一人でいたんだ。
時には肉親も友人も来てくれていただろうけど…夜はずっと一人で、窓の外を見ていたのだろう。
そこから見えた景色がどんなものかは知らないし想像も出来ないけど…どんなに素敵な眺めでも彼の心は満たせなかっただろう…いや、寧ろ彼の悲しみの傷を押し広げていさえしたかもしれない。
寂しかっただろうな、辛かっただろうな…病の恐怖を一人きりで抱え込んで…
決してそれは誰にも告げることは無く、柔らかで優しい笑顔を浮かべていたんだろうけど…
「……」
「!?」
今までは恥ずかしがって遠慮がちに身体を寄せていた少女が、初めて自分からこちらへと、すり…と身体を摺り寄せてきた。
「竜崎さん…?」
「…寂しくないですよ、二人なら」
にこりと笑い、桜乃は手を回して相手の身体をぎゅっと抱き締めた、丁度相手が自分にしてくれているように…
「それに、二人ならあったかいです…私もあっためてあげますから、大丈夫ですよ、幸村さん」
「……うん」
身体ではなく、心が温かくなってくる…この子の言葉は、本当に温かい…
きっと、同じ言葉を他の誰かに言われたとしても、俺は……
幸村は、同じく相手の身体を抱き締めて、嬉しそうに囁いた。
「君じゃないと、駄目みたいだな…俺」
ようやく二人がエレベーターから救出されたのは、閉じ込められてから一時間以上経過した後だった。
そんなに長い時間いたのかと二人は何となく違和感を覚えていたが、確かに時計を見ると、外界の時間の流れはその通りであったようだ。
エレベーターが開いた時にはメンテナンス会社の人の他、デパートの責任者であるらしい人物も外で待機しており、二人は彼らの謝罪を受けながらの脱出となった。
「大した騒ぎにはなってなかったみたいだね」
「…テレビに映らなくて良かったです」
ようやく外へ出られた二人は、揃って駅への道を歩いていた。
彼らの手には、ビルの管理者からのお詫びの形で、上層階の高級レストランの招待券が握られている。
幸いと言うべきか、桜乃が今日行ったのと同じ店ではなく、更に高級志向の場所であった。
「良かったんでしょうか…?」
「くれるって言うんだから、貰っておいたら?」
「…でも、一人だとちょっと気後れしちゃうかも」
「そうだね」
「……」
幸村の同意を受けて、桜乃は沈黙した。
言葉を暫く封じる間に、頭の中をフル回転させる。
(…一緒に行ってくれないか、お願いしてみようかな……でも、受けてくれるか分からないし…いっそ…)
告白してみちゃおうかな…?
エレベーターの中でも、何となく相手が自分のことを気に掛けてくれている様子はあったし、もしかしたらもしかするかも…ああ、でももし可愛いって言葉が妹みたいな意味で言われたんだとしたら?
断られたら、私、もう立海に行くことも恐くなってしまうかもしれない…
(ど…どうしよう…もう駅もすぐ傍だし…)
言うなら早く言わないと、タイミングを逃したら、こんなチャンスはもう巡ってこないかもしれない…
「あ、あの…幸村さん!」
「知ってる? 竜崎さん」
「え…」
声を掛けたところで、桜乃は逆に相手に問いかけられた。
「男女が一緒に危機に陥った時って、その時の動悸を相手へのときめきと勘違いして二人が恋に落ちる確率が高くなるんだって…吊り橋効果って言うらしいよ?」
「……」
どうして…今のタイミングでそんな事を…?
(…気付かれた?)
それは、今の私への答えなのだろうか…?
告白をしようという自分の気持ちに気付いて、彼は先にそういう答えを出したのだろうか…?
「そう…なんですか…」
そんな合いの手ぐらいしか返せない…
告白をしようという意志が萎んでいくのを感じていた桜乃の前で、それまで一緒に歩いていた幸村がぴたりと止まった。
もう数メートル先には、駅がある。
「…竜崎さんの心臓は、もう動悸は起こしていない?」
「え?……は、い…多分もう…大丈夫」
「そう…俺の心拍数も六十台まで落ち着いたよ…けどね、今またどんどん上がってきているんだ」
「?」
「今は八十ぐらいかな…まだ正常範囲だね…けど、止まらない、酷くなる…」
「幸村さん!?」
「ふふ、大丈夫、病気じゃないよ…いや、一種の病、かな、これも…」
自嘲気味に微笑むと、幸村は改めて桜乃と向き合った。
「言っておくけど、吊り橋効果でもないから…本当は、俺はエレベーターで宙吊りにされたくらいじゃ、動悸なんか起こさないんだ。これまで何度も確認したけど、どうやら俺は君の前ではどうしても胸が高鳴るのを抑えられないらしい。危機なんか関係なく、ね」
「っ!」
「ここに来るまでにも何度も自分に問い掛けた…返る答えに躊躇いはなかったよ。竜崎さん、そのまま心を落ち着かせて聞いて」
どうか、吊り橋効果なんてものに惑わされないで…俺の言葉を聞いて。
「君が好きだよ…竜崎さん。大好きだ」
「…! 幸村、さん…」
「…俺の恋人になってくれないか」
恋の告白はとても甘く…そして怜悧な刃物の様に桜乃の心を貫いた。
動く隙すら与えられずに貫かれた心は彼の手に奪われ…そして優しく包まれる、恐い程に。
拒める人間がいるのだろうか、この人を…少なくとも私には無理…絶対に。
だって、拒むという選択肢そのものが、私の中に見つからないから。
「…はい」
短い、しかしはっきりとした答えを頷きと共に相手に返し、桜乃は瞳を潤ませ、顔を赤らめる。
「…じゃあ、恋人として君に触れてもいい?」
その問いには最早頷きでしか返せないほど感極まり、桜乃は幸村の胸の中に静かに抱かれた。
エレベーターの中と同じ…なのにまるで違った。
幸村は、まるで桜乃が自分だけのものであることを知らしめるように強く彼女を抱いた。
エレベーターの中では、それでもかろうじて見せていた遠慮というものも最早必要ないのだと、嬉しそうに笑いながら…
「有難う…」
ずっと、こうしたかった、と囁く恋人に、桜乃は照れながらも答えた。
「…私も…告白するつもりだったんです…さっき…」
「ああ…やっぱりそうだったんだ。何となく感じてた」
「え、じゃあ…」
どうしてそれを止めたのかと顔を上げた桜乃に、幸村は苦笑する。
「そういうのはね…男にさせてほしいな。でも嬉しかったよ」
「幸村さん…」
「ふふふ…」
本当に嬉しそうに笑いながら、幸村はああ、と思い出した様に頷いた。
「じゃあ、このレストラン、今度一緒に行こう。一人より二人…だよね」
貰った券を示した相手に、桜乃は嬉しそうに頷いて、でもちょっと困った様に笑う。
「…また閉じ込められるかもしれませんよ?」
「どうかな…でも君には申し訳ないけど、俺はあのエレベーターには感謝しているんだ。それにもしまたそうなったとしても…」
そこまで言って、幸村は桜乃の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。
『俺がずっと傍にいてあげるから』
了
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