神の子の孤独


 その者を創った神は、とても彼を愛していたのだろう
 だから、彼に類稀なる才能を与えたのだ

 神は、その者を奪われることを恐れたのだろう
 だから、その才能で彼を孤独にしたのだ

 至高の座を与えられた子は、哀しかったのだろう
 だから、彼は…


 三月五日は幸村精市の誕生日である。
 その日を前にして、立海のテニス部でも賑やかにパーティーを開こうという話が持ち上がっていた。
「けど、その日は平日だから、やっぱ次の休日にしない?」
「みんなの予定が合えば、それでいいんじゃないか?」
 レギュラー達が集まり、部室でわいわいと日取りについて話し合っているが、そこに当人の幸村の姿はない。
 どうやらまだ教室にいるらしく、その彼の代わりの様に、一人の訪問者が部室のドアを開いていた。
「あのう…お邪魔します」
「おっ、おさげちゃんじゃんか」
「丁度いい所へ、お前も加わらないか?」
「え?」
 いつもの様に彼らの歓迎を受けた少女、竜崎桜乃は、中に身体を滑り込ませる様に入室しながら、小首を傾げた。
 青学の生徒ではあっても、もう殆ど準部員にも等しい存在である彼女は、レギュラー達にとっては可愛い妹のようなものだ。
「今度さ、幸村先輩の誕生会をしようって話! お前も来るか?」
 にぱっと笑って誘ってくれた切原に、桜乃は大きな瞳を更に大きくして顔をほころばせた。
「わぁ! 私なんか参加してもいいんですか?」
「なんかって…お前はもう少し自分に自信を持てよ」
 思いやられるぜ〜っとため息をついている切原だが、それも彼の優しさだろう。
「あなたも参加出来るのでしたら是非。きっと幸村部長も喜びますよ」
 柳生の誘いに、桜乃は嬉しそうに笑うと、ふと辺りを見回した。
「…あら? 幸村さん本人は、いないんですか?」
「まだ来ていない。担任と話をしているのを放課後に見かけたから、それで遅くなっているのかもしれんな」
 真田は、幸村が故意に遅く来ることなどありえないとばかりに全幅の信頼を持って答え、そして誰もそれに意義は唱えなかった。
 桜乃も全く同感だったが、そんな楽しい企画があるのなら早く教えてあげたいと、再びドアの外へと出る。
「ちょっと見て来ますね。途中で会うかもしれませんし」
 誰の返事を待つ事もなく行ってしまった少女の背中を見送り、仁王が楽しそうに笑った。
「ああ、これで幸村、上機嫌で来るのは確実じゃのう…」
「精市は、竜崎を特に気に掛けているからな。彼女が会に参加してくれるのであれば、是非実現させたいところだが…」
 仁王に続けて柳も、幸村の桜乃贔屓について言及する。
 そうなのである。
 幸村は、『神の子』と呼ばれる程にテニスの技術が卓越しており、その能力は病を克服した後にも更なる飛躍を見せ続けている。
 それだけの高みにいる人間が…いや、だからかもしれないが、彼はやたらと竜崎桜乃という少女を気に掛けて、何かと世話を焼いていた。
 桜乃はテニスについては殆ど初心者の枠を出ていない。
 何しろ中学に入ってから初めてラケットを握ったくらいで、正直、運動神経もそれ程に抜群ではないのだ。
 だから、幸村と桜乃の能力値を比べたとしたら、獅子と蟻程に差が歴然としている。
 それなのに、獅子は蟻を見過ごすこともなく、丁寧に技術の指導を行っているのである。
 元々が優しい性格の男であり、必死にテニスに打ち込み、こちらの練習から熱心に何かを学び取ろうという桜乃の気概が、獅子の心の琴線に触れたのかもしれない。
 とにかく、立海のレギュラーの中でも、最も桜乃に近い人間が幸村だった。
「…そうだな、彼女が来てから、精市も随分、嬉しそうに笑うようになった」
「それって、俺達と一緒じゃ嬉しくないってこと〜?」
 真田の一言に反応して丸井がぶーっと唇を尖らせつつガム風船を作ったが、彼に対して答えたのは柳だった。
「そうではない。精市が…ああいう普通の子とテニスで接する事は、あまり無かったからな。元々が才能があると謳われていた所為か、平均的なテニスレベルの子等からは逆に敬遠されていた時期もあった」
「…天才故の孤独ってヤツか?」
 仁王が、薄い笑みを浮かべ、何処か遠くを見つめながら呟いた。
「俺達だって、自惚れではなくレベルは決して低くない。これまで、似たような経験は無かったか?」
 参謀の問い掛けに、皆が無言で応じると、彼はそれを受けて頷いた。
「だから…精市にとっては、彼女は或る意味特別なんだ」

「えーと、幸村さん、幸村さん…あれ?」
 部室から校舎へと至る道の途中で、桜乃は目的の人物を見ることが出来た…が、すんなりと近づく事は出来なかった。
 幸村が、数人の女性に囲まれるような形で彼女らと何かを話していたからだ。
 丁度こちらは校舎の壁の近くで向こうからは死角になっている。
 何を話しているんだろう…と思いつつ近づいていくが、幸村はいつもと同じ優しい微笑を浮かべており、どうやら諍いなどではないらしい。
 考えられるのは…彼女達はおそらく幸村の熱烈なファンだろう。
 そして、これは幸村以外のレギュラーから聞いた話だが、彼はよく、複数のファン達のそれぞれから付き合って欲しいと懇願されるのだという。
 しかし、今まで彼がそれを受けた試しはない…理由は、今はテニスが一番楽しいし大切だから、なのだそうだ。
 いかにも幸村らしい。
 しかし、断り方も至って柔らかな物言いで、断られた本人もそれ程に痛手には感じず、ガッツのある子は、時期をおいて再びチャレンジする強者もいるのだという。
 まあ、普段から温和な事で有名な彼が、そうそう諍いなど起こさないだろうが…
(でも何だかあの光景…誤解を生みそう)
 何人もの彼女を作って、それがばれて責められているプレイボーイの様だ…と一瞬桜乃は考えてしまい、すぐに自己嫌悪に陥ってしまった。
(うう…ゴメンなさい幸村さん…)
 取り敢えず、心の中で思った事だから心の中で謝ろう、と実践していた彼女の耳に、向こうの声が徐々に聞こえてきた。
『えー!? 本当ですか!?』
『幸村先輩が、好きな人!?』
(…え?)
 思わずどきりとした胸を無意識に押さえた桜乃の耳に、幸村の声が聞こえた。
『うん…名前は言えないけどね…最近だよ、出来たの。だからごめんね、期待には応えられないんだ』
『うそ――――――っ!!』
 きっと、そんな断り方を聞いたのは初めてだったのだろう。
 断言する人気者の言葉に、女性達の悲鳴が上がっている。
 桜乃も、上げたかった。
(嘘…幸村さん…好きな人、いるんだ…)
 知らなかった…全然、そんな素振り見せなかったし…けど、それならその人って誰? どんな人なんだろう…
『教えて下さい! どんな人なんですか!?』
『ウチの学校の子ですか?』
 桜乃の興味と彼女達の興味は見事に一致していたらしく、自分が聞きたかった事を、彼女達が代わりに聞いてくれたが、肝心の相手はふふふと笑って上手く誤魔化すばかりだった。
『さぁ、どうだろうね…秘密だよ』
『そんなぁ!』
『ちょっとぐらいいいじゃないですかぁ! あ、じゃあ、あれですか? 幸村先輩みたいに、物凄くテニスが上手いとか!!』
『テニスを通じて知り合った仲だったり!?』
『…うーん』
 具体的な質問に、その時初めて幸村が口篭り、その僅かな間に、桜乃が息を詰める。
 まさか、そんな人が…?
 そのまさかという思いは、残念ながら裏切られた。
『そうだね…男子の俺が言うのは何なんだけど…凄く気になるテニスをするんだ。こっちの練習をしていても、つい注目してしまうくらいにね』
『きゃあ、やっぱりー!』
『んも〜〜! 一体何処の子なのよ〜!! ウチの女子テニス部かしら』
『ふふ…さぁね。ヒントはおしまい…じゃあ、俺、そろそろ行かなきゃ』
 爽やかに別れを告げている幸村の声を聞きながら、桜乃は視界が暗くなった気がした。
(ああ…そっか…やっぱり、そんなにテニスが上手な子なんだ…)
 じゃあ、その人は何処で、幸村さんと一緒にいたんだろう…?
 もしかして、部活動が終わった後にでも、何処かのテニススクールとか…テニスクラブで?
 見たこともないのに、その情景が脳裏に浮かびそうになり、彼女は慌てて頭を振って妄想を打ち払った。
 走ってもいないのに、心臓がやけに速い…頭がぐらぐらする…
(…バカだな、私…覚悟は、してたのに…)
 立海のメンバーの面々にテニスを教えてもらうようになって間もなく、一際熱心に自分にテニスを教えてくれるようになったのが、幸村だった。
 最初は、真田や柳、その他のレギュラーが基礎を教え、幸村は何処か遠くで、部活の指揮を取りながら様子を見ていた気がする。
 それが、或る日の事…
『そうじゃないよ』
『え…?』
 いつもの様に、コートの隅で素振りをしていた彼女の手首を、優しく背後から掴んだ手…
 それが、彼のものだった。
 驚く桜乃に、神の子は優しく笑った。
『…教えてあげる。よく見てて』
 それから、彼の桜乃に対する指導が始まったのだった。
 最初は面食らっていた桜乃だったが、相手の心遣いにすぐに打ち解け、元々人懐こい性格もあったのだろう、二人はとても仲良くなっていった。
 最近では、幸村が手が離せない時だけ他のレギュラーが代わりを務め、普段は幸村が彼女に付くというのが常になっていた。
(…勘違いしていたんだな…私)
 だから…凄い勘違いと自惚れをしていたんだ…
 自分が、彼の一番近くにいるって思っていた…心の何処かで。
 勿論、堂々とそんな事を思った事はない、ちゃんと自制もしていた『あの人には他に親しい人がいるかもしれないだから』って…心を諌めていた時もあった。
 なのに…いざ、現実に迎えてみると…
(…バカみたい)
 本当に、バカみたいだ、自分の独りよがりな思いに惑わされて、自分で勝手にうろたえてる。
 世界は何も変わっていないのに、自分だけが自分だけをめちゃくちゃにしていく…
 めちゃくちゃになって、壊れて…
「あれ? 竜崎さん?」
「!!」
 壊れていく自分は、まだこの現実ではまともな姿に見えるらしい。
 こちらへと歩いてきた幸村は、桜乃の姿を見つけると、にこりと深い笑みを浮かべてくれた。
「あ、幸村さん」
 壊れた欠片をまた元に戻し、つぎはぎだらけの心でも、必死に桜乃は笑った。
(…駄目だよ)
 笑いながら、自分に念を押した。
(駄目だよ…彼にはもう、好きな人がいるんだから、踏み込んだら駄目)
 あなたは選ばれなかったんだから、彼の領域に入って行ってはいけないの。
 ただの友人…いいえ、後輩に過ぎないんだから…
「こんな所でどうしたの?」
「あの…皆さんが今部室で、幸村さんの誕生会を開こうって話になってて…早く教えてあげたいって思って…」
「その為にわざわざ迎えに来てくれたの? 有難う、竜崎さん。じゃあ早速、部室に行こうか」
 嬉しそうに笑って、桜乃の隣に並んで歩き出した青年は、ふと、気にする様に彼女を覗き込んだ。
「それって、竜崎さんも、来てくれるよね?」
「え? わ、私ですか? それは、その…」
 先程までは行く気満々だったが、今となってはそれは彼女にとって決して楽しいものではなかった。
 もし参加したとしても、自分は幸村の姿を見る度に思い知らされる事になる…彼には他に、その笑顔を浮かべる女性がいることを…
 少女の沈黙を、不参加という形で受け取った相手は、え、と不安そうな表情に変わって相手に言った。
「もしかして来られないの? じゃあ、君が来られる日に予定を動かそうよ。折角の会なんだし、みんなで揃った方がいいから」
「あ! い、いえ! 大丈夫ですっ! 予定の日取りでやってもらって、大丈夫です!」
「? 本当に?」
「は、はい…」
 嫌だな…これじゃあ本当に迷惑しか掛けられない…
 このままじゃ、私、嫌な自分しか、幸村さんに見てもらえなくなる…それならいっそ…
「えーと…幸村さん」
「ん?」
「あの…今日の部活の後って、お時間、ありますか? 何処かで誰かと待ち合わせしているとか」
「いや? 別にそんな予定はないよ。いつも部活が終わったら真っ直ぐ帰るだけだし…どうしたの?」
「…ちょっと、お時間貰えませんか? それで、決めたい事があるんです」
「…決めたいこと?」
「はい」



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