それから部室に行った二人は、他のメンバー達と会について軽く予定をたてた後、いつも通りに部活動へと参加した。
自分がどんなに重い決断をしても、世界は何事も無く回るものなのだ、と改めて知った。
すぐ傍にある世界なのに、自分だけが膜一枚で隔てられている。
昨日までは、私もあっちにいた…そして、多分明日には…
そんな事を何度も繰り返し思う間にも、時間は刻々と過ぎていき…
約束通り、彼女は部活が終了した誰もいないコートで、幸村と向き合っていた。
「…どうしたの? 誰にも聞かれたくない話って…」
「幸村さん…私と、試合、出来ませんか?」
「え?」
何を言うのか、と首を傾げた幸村に、桜乃は真剣そのものの表情で訴えた。
「レッスンじゃない真剣勝負で、私と試合してくれませんか!? 『神の子』として、一度だけでいいですから!」
「…本気なの?」
問い掛ける言葉に侮蔑の色は無い…幸村も真面目だった。
「本気です! 私にとって、大切な事をこれに賭けてるんです…だから、お願いします!!」
「……」
だからテニスウェアのままで、と頼まれたのか、と納得しながら、幸村は暫く無言を守っていたが、自身の愛用のラケットを握る事で答えとした。
「…何を考えているのかは知らないけど…」
しかし、その口調は、最早いつもの優しい彼のものではない。
桜乃に投げかけられたのも、これが初めてだっただろう…静かで穏やかな声の中に、幾枚もの刃が隠されている様な迫力があった。
「…正直、テニスを賭け事に使われるのは物酷く嫌なんだけどね、俺は…でも、どうやら君の決意はふざけた賭けとはちょっと違うみたいだし…いいよ、やろう」
「…有難うございます!」
いつもなら、幸村の迫力に桜乃も足が竦み、一も二もなく要望を撤回していたかもしれない。
しかし、今日この時、桜乃は尻込みもしなければ逃げもせず、真っ向から視線を返してきた。
(…何だ?)
彼女のこれだけの決意は…何処から来ているんだ?
何も知らない幸村は、知らないが故に、より一層の興味を持って相手に臨んだ。
何が彼女をそこまで動かしているのか……知りたい。
「…君が勝ったら、君の好きなようにするといいよ。でももし俺が勝ったら、その時は理由を話して貰えるよね?」
「…どうして」
「…本気で付き合うんだ。それぐらい、我侭を言ってもいいだろう?」
「…はい、分かりました」
「じゃあ、始めようか。挑戦者に敬意を表して、サービス権は君に譲るよ」
サービス権を与えられた桜乃は、コートの隅に立って、向こう側の相手を見つめた。
あんなに遠いのに、ここまで来る威圧感が自分の身体を後退させてしまいそうだ。
以前、自分の同級生が彼と戦った時も、同じ様な感覚を味わったんだろうか…?
でも、もしそうだとしても…
(…こんなに腕は震えなかったよね…きっと)
小刻みに震える腕を必死に押さえつけながら、桜乃は渾身の力を込めて、サーブを放った。
いつもと変わらない感覚…決して悪くないサーブだったと思った。
しかし、思った次の瞬間…
バシッ!!
(…え?)
打ったばかりのサーブが、瞬く間に打ち返され、ボールは自分のすぐ隣を勢い良く抜けていった。
(…嘘! 今の…まるで見えなかっ…)
「いいサーブだね」
「!」
褒めてくれた彼の顔に、笑みはない…真剣そのものの瞳だ。
「でも、打った傍から気を抜いてるようじゃ、勝負なんて挑まない方がいいよ…そんな心構えで、勝てる訳が無いからね」
これが…真剣勝負なんだ…
言葉を返すことも出来ず、桜乃はただ、構えた。
まだ…勝負は……
あれ程に覚悟を決めて挑んだ勝負だったのに、かけた時間はあっという間だった。
勝敗は…無論、決している…
自分は、結局ワンポイントも取れなかった…いや、ロクに動く事すら許されなかった。
獅子の前に、蟻がどんなに意気込んで立ち塞がろうと、それは見られることすらない覚悟だ。
気付かれずに素通りされるか、気付かれても嗤われて踏み潰されるだけ。
蟻がどんなに抗おうとも、蟻は蟻でしかない。
分かってはいた…分かってはいたが…ここまで力の差を見せ付けられると、最早自分はピエロ以下の滑稽な存在だ。
男だろうと女だろうと関係ない、ここまで悔しいと思った勝負は、初めてだった。
「……」
力なく、コートに膝を付き、肩を上下させている桜乃に、幸村はゆっくりと歩きながら近づいた。
必死にボールを追いかけた結果、汗まみれになっている相手に対し、幸村は肩のジャージを外すこともなく、汗一つかかずに涼やかな顔をしている。
「…約束、だったね、竜崎さん」
「…あはは…」
「…っ!?」
果たしてもらおうと声を掛けた幸村が、不意に、その唇を閉ざす。
顔を伏せていた彼女の、その顔の真下に当たるコートに、ぱたぱたと水滴が零れ落ちていた。
それが何であるかを察した時、冷えた色を称えていた男の瞳に、いつもの優しさが戻った。
「…竜崎、さん…?」
「……ずるいなぁ…幸村さん…ホント、ずるい…」
「…?」
涙の混じった声で、まるでおどけるように言った桜乃は、その涙を止めようとせず、はらはらと泣き続けた。
我慢は…もう無理だと心が叫んでいた。
「凄い才能があるのに…あんな努力までされたら、敵うわけない…私なんか、まるで敵わない…私が一歩進んでいる間に、幸村さんはもう、見えなくなってる…」
「……」
幸村が、ゆっくりと片膝を付き、ラケットをコートに置いて、彼女の顔を覗きこむ。
僅かに見えた彼女の表情は、あまりに悲しげで、寂しげで、幸村の唇から言葉を奪った。
動けずにいる彼の前で、桜乃は涙と一緒に心から溢れ出した想いを吐露していく。
「勝ちたかった…勝って、幸村さんの心の中にいる人よりもっと…近くに、いたかった…けど、やっぱり……無理、でしたね…」
「!…え?」
僅かに動揺する彼の前で、桜乃は泣きつつ笑った。
ああ、ばれちゃった…私がこんな嫌な子だったって…とうとうばれちゃった…
でもいい…覚悟、してた…
「あは…私も、もっと早くからテニスやってれば、良かったな……でも、いいです。負けは負けだし…私、決めなきゃ…」
そう言うと、桜乃は、コートの上に畏まって正座し、深々とお辞儀をした。
「私…会には行けません…もう、ここにも来ない…結局、私は追いつけなかっ…」
ぎゅっ…
「…?」
自身の手首を掴まれ、桜乃はそちらへと目をやった。
あの時の様に…初めてテニスを教えてもらったあの時の様に、幸村の手が、自分の右手首を掴んでいた。
「…何処に行くの?」
「……え…」
「誰に…追いつくつもり?」
ぐいと掴んだ少女の手を持ち上げ、それと共に彼女の上体も起こしながら幸村が尋ね、そして彼は桜乃の掌をそっと己の頬へと押し当て、笑った。
とても、優しい笑顔で…
『神の子』だった彼は、幸村精市に戻っていた。
「俺は、ここにいるじゃないか…君に触れる程に近くに」
「幸村…さん…」
「見えなくなってる…なんて、ある訳ないよ。俺はいつでも傍にいた筈だよ…ここに来てくれる度に、君の傍に」
「…違う…んです、そうじゃない…」
「え…?」
慰めてくれる相手の言葉が、尚更、心に傷を生む。
きっと、この人は、私の本当の心に気付いていない…私の抱く『好き』という気持ちに。
それは妹や後輩が抱くものではなく、もっと近しくて…愛しいという気持ち。
しかしそれを告げる事は出来ず、桜乃はまた新たな涙を零す。
「幸村さん、優しいから…っ、勘違いしちゃいけないと思って…どんなに優しくされても、幸村さんが好きな人には、絶対に敵わないからっ…!!」
「ちょっと…待って」
嗚咽を堪えつつ白状する少女に対し、幸村はどうにも分からないとばかりに首を捻っていた。
「あの…さっきから気になってたんだけど…俺が好きな人って、誰の事?」
「え…そ、れは…知りません…けど、今日、幸村さんが言ってたから…」
「俺が!?」
「…はい…私と会う少し前に…」
「……ああ!」
過去を反芻した男は、ようやく思い当たる事に行き着いたのか声を上げて頷くと、ちらっと桜乃を見下ろした。
「…もしかして、それを聞いて…俺にテニスが上手い彼女がいると思った?」
「そう…なんでしょう?」
「……ええと」
うーんと唸りながらぽり、と頬をかいた若者は、少し困った様に笑って言った。
「…じゃあ、もし俺に勝てたら…もしかして、告白する気だったの?」
「…告白なんて図々しいものじゃなくて…せめてテニスの時には一番近くにいられると思ったんです……幸村さんと渡り合えたら…恋人じゃなくても、一緒にテニスをする資格はあるって…」
「……」
それだけの為に、あれだけの覚悟を見せて、彼女は俺に挑んだのか…
『神の子』と呼ばれている事実を知りながら……
幸村は、手を口元に持っていくと、嬉しくて笑い出したい気持ちを必死に耐えてぼそりと呟いた。
「…気になるとは言ったけど、テニスが上手いとは一言も言ってないんだけどね、俺は」
「…え?」
今、何て…?
「…ねぇ、竜崎さん…俺は、君が凄く気になるんだ…」
「……え!?」
何それ…!と思う彼女の心の動揺を突いて、幸村は相手に一気に身体を寄せて、上から見下ろす形で告白した。
「どんなに辛くても、上手くいかなくても、ひたすらにボールを追いかけていく君の頑張る姿に、俺は酷く惹かれているんだ…気が付いたら、君を目で追ってる」
「…」
ちょっと待って…じゃあ、自分の認識を改めないと、と思っている間に、今度は背中に手が回され、抱き寄せられる。
(ちょっと……!?)
「今、俺がどんなに嬉しいか、分かる? 竜崎さん…」
「え…あの…っ」
まだ戸惑ってばかりの少女を、膝立ちのままぎゅうと抱き締めて、幸村はその確かな温もりを感じながら微笑んだ。
「今まで、『神の子』を下す為に幸村精市に挑んだ奴らは、数え切れない程いたけど…幸村精市を得る為に『神の子』に挑んだのは、君が初めてだ……しかも、それが、俺の大好きな人だったんだから……嬉しくない訳がないだろう?」
「え…!?」
端的に告白され、そこでようやく桜乃も全てを知った。
じゃあ、幸村さんが好きだって言っていたのは…テニスが得意な女性ではなくて…テニスに打ち込んでいた私だったって…こと?
でもまさかそんな、私が…
「あ、あのっ…幸村さん!?」
「逃がさないよ…」
身体を離そうとする桜乃に対し、幸村はその鍛えられた身体を使って彼女をあくまでも腕の中に拘束する。
「俺はもう、君を逃がす気はないから…覚悟して」
「ゆ…きむら、さん…?」
力強い宣言に、心をも鷲づかみにされた様な感覚を覚える。
「…君はここで…神聖なコートで、俺に告白をしたんだ…今更、取り消しなんか効かないし、俺も聞くつもりはないから…」
抱き締めたまま、幸村はふふふと笑い、今度は耳元で囁く。
「じゃあ、盗み聞きをしていたお仕置きと一緒に、誕生日のプレゼント…先に貰っていいかな」
「ぬ、盗み聞きじゃなくて、聞こえてきたんですけど…プレゼントって、な…何をですか…?」
「君のキス」
「っ!!!」
ぼっと一気に赤くなった相手に、予想していたのか、幸村はくすりと笑った。
「…ダメ?」
「いいいい、いえ、その…ダメじゃないですけど恥ずかしいというか…あの、私…初めてですから、その…」
「俺もだよ」
「…!」
ダメじゃない…という許しを受け、幸村は静かに、彼女の頬に掌をひたりと当てて上向かせた。
(うわぁ…! ゆ、幸村さん、物凄くキレイ…・!!)
間近で見れば見る程に、美形なんだ、この人…
凄く緊張しているのに何故かそんな事を考えてしまっている少女に、相手が苦笑して瞼に優しく触れる。
「目を閉じて…」
「は、い…」
瞼を伏せ、世界が闇に包まれた瞬間、暖かで柔らかい感触のものが、己の唇を優しく塞いだ。
(ふわ…っ)
初めての経験に慄き、びくりと肩を震わせた桜乃が僅かに身体を引こうとしたが、相手の手が自分の顔を固定しており、逃げる事を許さない。
まるで触れ合ったところから、二人が一つに溶け合っていくような……
(あったかい…柔らかで、優しくて……ダメ、頭がジンジンする…)
ファーストキスで前後不覚となってしまった桜乃は、それから唇が離された後も、相手のそれが軽く鼻の頭に触れ、そして額にも押し当てられるのを夢見心地で感じていた。
「…好きだよ」
耳元で囁く幸村に、声を出すことも出来なくなってしまった桜乃は、必死に相手にしがみ付く事でそれに応え、彼は愛おしそうに彼女の小さな身体を抱き締めた。
「俺の誕生会には、絶対に来て。君には俺の傍にいてほしいんだ」
その者を創った神は、とても彼を愛していたのだろう
だから、彼に類稀なる才能を与えたのだ
神は、その者を奪われることを恐れたのだろう
だから、その才能で彼を孤独にしたのだ
至高の座を与えられた子は、哀しかったのだろう
だから、彼は己と共に在る人を求めたのだ。
彼の者の才能に臆せず、唯、愛してくれる人を……
了
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