心の傍らに
「そっか……いよいよ立海でももうすぐ卒業式なんですね」
「まぁな、名残惜しいけど、いつまでも先輩達を引き止める訳にもいかねーだろ。ンなコト言ってたら、ウチの三年生なんて全員留年組だぜ、きっと」
「あはは、そうですね」
或る日の立海テニスコートにて、二年生エースの切原は、他校からの訪問者とそんな会話を交わしていた。
自分より更に一年年下である、青学の一年生女子、竜崎桜乃である。
すっかり立海のテニス部レギュラーと仲良しこよしになった少女は、これまでもずっとこのテニスコートを訪れて彼らと親睦を深め、今では彼らの共通の妹の様に可愛がられている。
しかし、レギュラーの殆どが三年生である事実から、四月以降は事実上彼らと会う事は難しくなってしまうかもしれない。
「寂しいけど…切原さんはそんな事言ってられませんよね。何しろ次期部長なんですから」
「あー…まぁそうなるんだけどな」
部長というと部のトップと同義語であり、当人にとっては非常に喜ばしい功績の筈なのだが、何故か切原は渋い顔だった。
「? どうしたんです?」
「いや…結局、俺はあの三人に勝てなかったからさ。同じ立海にいる限りいつかぶっ倒すとは決めてるけど、出来れば先輩達が中学にいる間に実現したかったぜ…」
「切原さん、負けず嫌いですもんね……でも、それって大きな目標ですから、そんなにあっさり実現する筈ないでしょう?」
「う…そりゃあなぁ…」
あのバケモノ三人組を簡単に打ち負かせるとは自分も思ってはいないが、どうしても挑みたいという気持ちが止まらないのだ、と切原がぼやいたが、桜乃は首を横に振って諌めた。
「じゃあ焦りは禁物です。あんまり早くその夢を実現させようとするのも、幸村さん達にとっては侮辱ですよ。あの人達だって、楽して今の位置にいる訳じゃないんですから…切原さんがしっかり実力をつけて挑んでいった方が、先輩としても嬉しいことだと思いますよ」
「…竜崎と話すと、何かそれが一番いい道みたいに聞こえるよな…反論する気も起きねーよ」
「あはは、呑気すぎるって言われることもありますけどね」
「いや、アンタはそれでいーんじゃね? だから、幸村部長もアンタのこと、凄くかってるんだろうしさ」
「え?」
いきなり出て来た人物の名前に、ぴくんと桜乃の肩が敏感に反応したが、切原はそれを見てはいなかった。
「他所の学校からわざわざ来てるっていう理由もあるだろうけどさ、幸村部長はすげぇアンタの事気に掛けてんだぜ? 同じ立海の女子にも、滅多にあんなにテニスの指導なんかしねーしさ」
「そ、そうですか?」
「ま、誰にでも優しい人だから、それでも女子からの人気もハンパねーけど……そういや、今年の卒業式は結構荒れるんだろうな〜」
「え?」
何かを憂いている表情で、しみじみと呟いた切原に、桜乃が顔を向けて首を傾げた。
「荒れる?」
「あー……ほら、よく卒業式であんじゃんか。『第二ボタン』くれってヤツ」
「あ…ああ、アレですか」
相手の言葉に桜乃は当然知っているとばかりに頷いた。
卒業式に、女子が慕っている卒業生に『第二ボタン』をねだるというのは日本全国共通の儀式だ。
ボタンをねだるという事は実質的に女子の告白の行為であり、卒業という人生の節目をを甘酸っぱく盛り上げる一大イベントなのだ。
「こう言っちゃなんだけど、ウチの三年生はみんな人気高いからな〜〜、すっげぇ騒ぎになりそう」
「……あのう、一つ聞いてもいいです?」
「あ? ナニ?」
「第二ボタンって、普通、詰襟学ランの制服の場合ですよね…でも立海ではブレザーで、そういう場合は…?」
「あー、悪い悪い、説明してなかった。ウチではボタンじゃなくて、校章バッジになるんだな」
「バッジ、ですか」
「そ、ほれ、俺達の制服の上着の襟ンとこに付いてるヤツ。あれが第二ボタンの代わりになるんだ」
今はテニスウェアを着ているが、切原が自分の左胸の該当する部分をちょいちょいと指し示す。
「…ところで、何で第二、なんだろうな」
今度は切原が疑問を呈し、それに桜乃が答えた。
「ええと…第二ボタンがその人の心臓に一番近いからだって説があります。だからその人の心の傍らにあったボタンを欲しがるんですって」
「っへ〜、ロマンチックだねぇ…ま、確かにブレザーで第二ボタンだと、ヘソの部分になっちまうからな〜…イメージブチ壊し」
「うわぁ、言われてみたら確かに…」
二人でうんうんと頷きつつ納得したところで、改めて切原は卒業式当日の騒動を予想して眉をひそめた。
「そのロマンティックなイベントで、血の雨が降らなきゃいいんだけど…」
「血!?」
「いや、マジで幸村部長の人気はハンパねぇからさ。本人がどう言ってもほぼ争奪戦になるのは目に見えてるし…もし部長が『じゃあ殴り合いで決めてもらおう』って言ったら、マジで実行するヤツいそうだし…」
「幸村さんはそういう事言いません!」
何て事言うんですか、と桜乃がぷんっと頬を膨らませた時だった。
「俺が何だって?」
「いっ!?」
「あ…」
いつの間にか…二人の背後にその部長本人が微笑み、腕組みをして立っていた。
いつもの様にジャージを肩に羽織っている凛々しい若者は、ゆっくりとその微笑を桜乃から切原へと移す。
「楽しい話?」
「い、いやその〜〜」
微笑んでいる筈の相手が、とても恐く見える……
見えない威圧感に押されている男の異変に気付いていないのか、桜乃が代わりに幸村へと答えた。
「幸村さん達の卒業式について話していました。人気者の幸村さんは、きっと大変だろうなって」
「卒業式…ああ、何だ」
ナイスなフォローで、幸村の視線が桜乃へと逸らされた隙に、二年生の後輩はダッシュでそこから逃げ出した。
「じゃ、じゃあな! 竜崎」
「あれ? 切原さん?」
自分が彼を助けることになったとは露知らず、桜乃は呆然とその男の背中を見送ったが、それも小さくなったところで改めて幸村へと身体を向けた。
「…えーと」
身体を向けてはみたものの、いざとなると話す言葉が出てこない。
嫌いではなく、寧ろ慕っている相手なのに…いや、だからこそだ。
優しく気さくな若者は他校の人間にも親切に接してくれ、しかもトップクラスのレベルを持ちながら、素人同然の自分にもテニスの指導を懇切丁寧に行ってくれていた。
驕りの気持ちなどとは無縁で、ただひたすらに己の技術の向上に邁進し、病に伏してもそれを言い訳にすることも無く常にテニスに正面から向き合い続けてきた人。
強さと優しさを併せ持つ人間は、こんなにも美しいものだと初めて知り、知った瞬間に、心はもう奪われていた。
相手は己の手が自分の心を鷲掴みにしている事実に気付いていない様だが。
それでも幸村は、桜乃にとってまさに憧れの存在だった。
こんなに素晴らしい若者なのだ、人気があるのも頷ける。
だからこそ…何の取柄も無い自分が慕っているなど、言い出す事は出来なかった。
相手は、もしかしたら自分の淡い気持ちに気付いているかもしれないけど…分からないけれど。
憧れているのにそれを言い出せないもどかしさは、少女の小さな心の中に翳りを生んでいたが、それでも彼女はにこりと相手に笑いかけた。
「…幸村さん達がここからいなくなったら、寂しくなりますね…」
「うん、俺も寂しいよ…やっぱり馴染んだ場所だしね」
コートを見渡した幸村は感慨深げにそう言うと、桜乃に首を傾げて問い掛けた。
「俺達が卒業したら…君はどうするの?」
「私…ですか?」
「もう…立海には来なくなるの?」
「そんな事はないですよ」
僅かに寂しさを滲ませた相手の言葉に、しかし少女はふるっと首を横に振って否定した。
「幸村さん達がいなくなっても、きっとまたここに見学に来ます…許されるなら、ですけど」
「赤也なら大丈夫だよ。でも、それより高校の方のコートにも来てほしいな」
「え?」
きょとんとする桜乃に、彼女の答えを聞いた男は少しだけ安心したような笑みを見せる。
「ここに来るなら、高校の棟はすぐ傍だ…そこのコートに俺達はいるから」
「い、いいんですか?」
高校の建物にまで押しかける行為は考えられず、半ば諦めていた望みが繋がれた事に少女が戸惑いつつ確認したが、相手はあっさりと頷いてみせた。
「部長じゃなくなるけど、君を見学させるぐらいの融通は利かせられると思う。弦一郎や蓮二たちも協力してくれると思うしね」
「な…何だか申し訳ないですね」
「そんなに遠慮しないで、大丈夫」
「そう…ですか…私はもう、幸村さん達が高校に上がられたら、滅多に会いに行けなくなると思ってました」
「そんな事…」
許さない
絶対的な拒絶を心の中で宣言した幸村は、それを笑顔に隠したまま桜乃を見つめる。
「…折角の卒業式なのに、君が参加出来ないのは残念だけどね」
「あは、それは仕方ないです、別の学校ですもん…でも、次の土曜ですよね卒業式。私も終わる頃に来ますよ」
「本当に?」
桜乃の申し出に、ふわりと幸村の表情がいつになく綻ぶ。
「はい! 勿論です。お世話になった『先輩』達の卒業式ですもん」
「ふふ…嬉しいな。こんなに可愛い後輩に送ってもらえるなんて」
「そ、そんな…」
真っ赤になって照れてしまった少女は、はた、と或る事を思い出して顔を上げた。
「あ、あの、それで…」
「え?」
ふ、と視線を合わせると、桜乃の唇が微かに動いたが、それはそのまま不自然などもりへと変わった。
「……あ、いえ、そのぅ…何時頃に、式が終わるのかな…って」
「多分、昼前に終わると思うよ。終わったら三年生全員部室に行く予定だから、君もそこで待っていてくれるかい?」
「そ、そうですか、分かりました。それなら必ず会えますからいいですね」
「うん」
何の疑問も持たずに頷いている若者の美麗な笑顔を眺めながら、桜乃は心の中で意気地なしの自分を責めていた。
(ああ…やっぱり言えなかった…折角のチャンスだったのに…)
『幸村さんの校章が欲しいんです』
本当は、そう言いたかったのに……・
立海大附属中学卒業式当日
『先輩! 今まで本当に有難うございましたっ!!』
男子テニス部の部室では多くの後輩に送られ、幸村達が晴れやかな思いで卒業の時を迎えていた。
代表として切原が大きな花束を贈り、幸村がそれを厳かに受け取ると、周囲から割れんばかりの拍手が贈られる。
「みんな、本当に有難う…俺達がこれまで頑張ってこられたのは、偏にみんなの協力と努力が支えてくれたからだよ。俺達がいなくなっても、どうかこれまで以上に、立海大附属中学男子テニス部を盛り立てていってほしい…切原、頼んだよ」
「お前の双肩にその責任があるという事を、常に自覚するのだぞ、赤也」
「皆も、どうか赤也を支えてやってくれ。どんなに優秀な人間でも、一人でやれることなどたかが知れている。お前達が一枚岩になる事で、初めて大きな物事を為すことが出来るようになるのだ」
『はいっ!!』
最後の訓示を受けて後輩達がそれを胸に刻みつけ、それから暫くはみんながそれぞれの別れの時を過ごしていた。
「しっかし、やっぱ凄かったスね、部長達のファン」
卒業式後の小さなハプニングを思い出して切原が苦い笑みを浮かべると、他の男達も一様に同じ反応を示した。
「げに恐ろしきは女の情念じゃのう…」
「流石にあの時は恐怖を覚えましたが、私達も何とか無傷で済みました」
柳生や仁王が辟易とした顔で言うと、真田や柳もそれに続いた。
「……俺はてっきり果し合いか何かに来たのかと思ったぞ」
「だからと言って、あの睨みはあんまりだったがな…」
「いや…つい癖で…」
校章を貰うどころか、人生の厳しさを教えてもらった女生徒達の不運を思うと心底気の毒だ。
「お前はどうした?」
ジャッカルが隣の丸井に尋ねると、相手は相変わらずガムを噛みながらどうでもいいという表情を浮かべて言い切った。
「適当に逃げてきた。下手に構ったら変な噂流されんだもん…それに高校行くったってどうせ近いし、辛気臭くすることもないじゃん」
(やっぱりコイツはまだ色気より食い気か…)
春は遠いな…とジャッカルが思いつつ幸村に目をやると、彼は何故か先程からきょろきょろと部室の中をせわしなく見回していた。
「どうした? 精市」
「いや…竜崎さんが、来てくれる筈なんだけど…」
真田の問いに答えた丁度その時、部室のドアが開いて探し人が現れた。
その手に大きな紙袋を持って。
「おう、竜崎じゃ」
「噂をすれば、ですね。ようこそ」
「す、すみません、遅くなりました…ちょっと時間かかっちゃって」
ドアの傍にいた仁王達の歓迎を受けながら、桜乃は袋を抱えたまま中へと入り、すぐに三年生達に向かって深々とお辞儀をした。
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