「皆さん、この度は御卒業、おめでとうございます〜」
「わざわざ来てくれたのか、竜崎」
「嬉しいことだ、感謝する」
 真田や柳が礼を述べる中で、桜乃は持ってきた紙袋の中から、一つ一つデザインや花種が微妙に異なるブーケを取り出して、三年生レギュラーに贈呈した。
「これ、皆さんに…それぞれイメージして作ってもらいました」
「マジでくれんの!? うわ、可愛いな〜」
「持って来るのも大変だったろうに…有難う」
 レギュラーの全員が思いがけない贈り物に感激している中、最後に幸村も桜乃から淡い桃色と赤を基調としたブーケを受け取る。
「どうぞ、幸村さん」
「ああ、有難う…本当に可愛らしいブーケだね」
 少し腰を屈める姿で桜乃からブーケを受け取る幸村の胸元に、少女が注目する。
(あ…幸村さんの校章バッジ…)
 襟で鈍色の輝きを放つ若者の校章バッジ…
 卒業式が終わり、喧騒の時を抜けた若者は、今もそれを胸に留めたままだった。
 てっきりもう無いものとばかり思っていた桜乃は、寧ろそれが不自然な光景に思えて眉をひそめる。
 辺りの三年生レギュラーで付けている人はもういないのに…
(…あれ? 誰にもあげなかったのかな……)
 幸村さんが人気あるのは周知の事実だし、きっと沢山の人からねだられた筈なのに…
(……誰にもあげない主義なのかな…)
 綺麗な心をしているからこそ、妥協でそういう行為を行わないという事も考えられる。
 好きな人がいなかったから、あの校章バッジをそのまま自宅まで、自分と一緒に連れて帰るつもりなのかもしれない…しかしだとすると…
(…今更ながらに、勝ち目がないことを思い知らされるなぁ…)
 そんな若者の覚悟を壊すなど、自分が出来る筈がない。
 多分、願ってもやんわりと断られるのは目に見えている…でも…
(……欲しいなぁ)
 目の前に実物を見せ付けられると、どうしてもそう思ってしまう。
 どうしよう…頼んでみようか、ダメで元々だし…
「おい、幸村」
 そう心で悩んでいる桜乃の思考を遮るように、ジャッカルが相手の名を呼んだ。
「なに?」
「…外、凄いコトになってるぞ? どうすんだ?」
「え?」
 相手の困惑した表情に、意味が分からないらしい幸村本人は、ジャッカルに促されるままに部室の窓から外を見て唖然とした。
「うわ、また…」
「どうしたんですか?」
 同じ様に外を覗こうとした桜乃だったが、その腕を仁王が掴んで部屋の奥へと引き、見ることを許さなかった。
「お前さんは顔を見せん方がええ、下手に見られたら暴動が起こりかねんしの…しかし、タイミング悪かったのう」
「困りましたね、竜崎さんには害が及ばない様にしたいのですが…」
「え? え?」
 きょとんとする桜乃に、丸井が肩を竦めて説明する。
「外に女生徒達がまた来てるんだよぃ…幸村の校章が欲しいってさ。まだ誰にもあげてないのを見られちまったんだ」
「諦めてくれてると思ったんだけどなぁ…」
 当の本人は困ったな…という感じで黒山の人だかりを見つめている。
「俺達の様に隠して、既に誰かにやったのだと思わせるべきだったな…精市。あの女子の内、九十パーセント以上がお前目当てだぞ」
 成る程、あげた訳ではなく隠して手元に残していたのか、と桜乃が納得している向こうでは、そんな事言っても…と幸村が柳に反論していた。
「下手に隠しても、今度は何処にあるのか探そうと、やたらべたべた触られるんだ…何でばれるんだろう?」
「性犯罪ギリギリじゃのう…」
「俺だったら、女であろうと投げ飛ばしているぞ」
 言葉とは裏腹に楽しそうな仁王の隣では、想像して鳥肌を立てている真田が苦虫を噛み潰している。
「…こうなったら、最後の手段ッスね」
 切原が、何かを考えたのかそう言うと、幸村と桜乃の両人を交互に見た。
「竜崎も、ここは逃げた方がいいからな…後は幸村部長に任せるッス」
「え?」
「何ですか?」


 それから十分後…
「大丈夫でしょうか…? 皆さん」
「うん…多分、上手くやってくれてると思うよ」
 幸村と桜乃は二人だけ部室を抜け出して、最寄の駅に向かって歩いていた。
 ここまで来たらもう追ってくる女子もいないだろう…
「…切原には今回ばかりは助けられたな…練習を抜け出す才能は伊達じゃなかったね」
「抜け出しても、後のフォローは苦手そうですけど…」
「ふふ…確かにね」
 実は、二人は部室の裏にある非常口からこっそりと抜け出し、他の部員が女子達を引き付けている間に脱出を図ったのだった。
 この後、約束の時間にみんなでカラオケで落ち合うことになっている。
 向こうはまだ騒ぎが続いているかもしれないが、彼女達の一番の目的である幸村が不在となった以上、騒動は収束に向かう筈だ。
「…幸村さんも、大変ですねぇ」
「静かな卒業式に憧れるよ…」
「それも贅沢な悩みかもしれませんけど…」
 やれやれと髪を梳く相手に苦笑した桜乃の目に、相手の襟元のバッジが飛び込んでくる。
 女子達が欲しがっていた宝物…
(…三年間、幸村さんの心の傍にいたバッジかぁ……そう思うと、どんな宝物でも敵わない物に見えちゃうな…)
 それは彼女達だけでなく、自分にとってもそうなんだけど……
 でも、ここまで彼が渡さないことにこだわっている物だものね…きっと、大事にしたいんだろうな。
(ここまで徹底されると、何だか悩むのも馬鹿馬鹿しくなっちゃう…)
 断られるのも、相手の思い入れを知っている今ならそんなに恐くない……
 言わずに後悔するよりも、言って断られた方がまだまし……それに、あの女子の人達だって、きっと勇気を出してあんなに来てたんだろうし…
 こういうのは勝負じゃないとは思うけど…やっぱり負けたくないもの…想う気持ちは。
「…それにしても竜崎さんまで巻き込んでしまってごめんね…もう少し考えるべきだったかな」
 苦笑する若者に、桜乃はにこ、と笑って首を振る。
「いいえ、いいんですよ」
「青学の君には分からないコトばかりだったろう? 実はね、立海では校章バッジが…」
「あの、幸村さん…」
「ん?」
「…えーと…その…もう聞き飽きて、うんざりしているかもしれないんですけど…」
 断られるにしろ、あまり相手を不愉快にさせないように、と桜乃は必死に言葉を探し、選ぶ。
「…うん、何かな?」
 向こうは全く桜乃の意図が分からないのか、きょとんとして聞き返してきた。
「そのう……幸村さんの…校章バッジ…を…」
「!…バッジ…を?」
 今まで微笑を浮かべていた幸村の顔が、その単語を聞いた瞬間、真剣なそれに変わった。
 相手の豹変振りに、びく、と桜乃の肩が震える。
 もしかして…やっぱりうんざりしてたから、怒っちゃったのかな……!?
『君までそんな事を言うの?』
 聞こえない筈の非難の声が心の中で響き、少女の唇を塞ごうとしたが、桜乃は何とか続けようと必死にそれを動かした。
 最初の勢いはもう無かったけれど、それでも勇気を振り絞って…
「あのっ……バッジを…わ…たしに…」
 一番言いたい言葉が、出てこない…もう身体が熱くて、勝手に燃え上がってしまいそうだ。
 それに、頭まで血が昇って、混乱して…あれ?
(私…何を何処まで言ったんだっけ…? ええと、バッジを…)
 ぐいっ…
「!?」
「ちょっと…こっちに来て」
 恐いくらいに真剣な顔をした幸村が、桜乃の細い手首を掴んで引き寄せると、彼はすたすたと有無を言わさず少女を連れ、歩いていた道から少し外れた。
「え…あ、の…幸村さん?」
 驚く少女の声にも答えず、幸村は通りから外れた場所にあった公園に彼女を連れて行くと、その公園の樹の陰へと手を引いていった。
 今の時分、ここには誰もいない…二人だけだ。
「…幸村、さん…?」
 私、そんなに怒らせてしまったのかな…と不安になった桜乃に、幸村が腰を屈めて問い掛けてきた。
 怒りの感情はなかったが…やけに真剣な面持ちだった。
「…竜崎さんは…もしかして知ってるの? 立海での、校章バッジの意味…」
「え…あの…」
 そんなに真剣な顔で言われるという事は…もしかして自分が知っている意味以外のものがあるのだろうか…?
「あの……第二ボタンの代わり…じゃ、ないんですか…?」
 私はてっきり…と言い掛けた桜乃の前で、幸村が一瞬驚きに瞳を見開くと、それはそのまま笑みに変わる。
 いつもの、優しい彼の笑顔だ。
「そう…知ってたんだ…俺はてっきり、知らないものとばかり…」
「…幸村さん…?」
 何かを納得した様に何度も頷いた男に、桜乃が声を掛けると、相手は樹を背にした少女にずいっと顔を寄せた。
「…で…バッジを…どうしたいの?」
「え?」
「…ちゃんと聞こえなかった…最後まで」
 確かに、最後までは言ってなかったけど……と桜乃は戸惑う。
(何…? さっきまで怒ってたみたいなのに…幸村さん、笑ってる…)
 しかも、こんなに顔を近づけられたら…凄く緊張しちゃうよ…
 幸村さん…物凄く綺麗な顔してるんだから…!
「あ……校章バッジ…その…」
「うん…なに?」
「っ!」
 くすくすと笑いながら先を促す若者の笑顔が間近に迫り、一気に桜乃の脳内ヒューズが焼ききれた。
「ゆっ、幸村さんのバッジが…欲しいんです…っ!」
 自分でも驚くほどに大きな声が出た。
 言った…!
 言ってしまった…断られるの分かってるのに…!
(うわ…どうしよう、呆れられる…?)
 今まで何を見てきたんだと責められてしまう、と今更ながらに慌てて、桜乃は目を瞑りながら俯き、後に続けた。
「いえその、断られるのは分かってますから! あの、気にしないで…」
 ぶちっ…
「……?」
 今の音、なに…?
 そろっと目を開いて顔を上げると、相手の襟が見えた。
「!?」
 バッジがない…真新しい小さな穴が、そこにバッジがあったのだと教えてくれたけど、その実物が跡形も無く…
(あれ…何処に…)
 不思議に思った桜乃の右手が優しく相手のそれに取られ、掌に何か固い物が押し当てられた。
 何かと思う間に、今度は指を曲げさせられ、固い物を手の中に封じられてしまった。
「…?」
 何だろう…?
 疑問に思うのは当然で、桜乃は殆ど無意識の内にその掌を再び開いて中を覗き込んだ。
「え…」
 バッジだ…立海のマークが刻まれた、鈍色の校章バッジ…
 何でこれが私の掌に…ううん、多分…幸村さんのなんだろうけど……
「あ…の…幸村、さん…」
 顔を上げると、とても嬉しそうに微笑む彼がいた。
「…いいよ、あげる」
「えっ!?」
 自分で言い出しておきながら大いに驚いている相手の反応が可笑しくて、幸村は更に笑みを深めて首を傾げた。
「…君の物だよ、もう」
「え…だって、その…これって、あんなに幸村さんがこだわってたバッジじゃないですか! 欲しがっておいて何ですけど、私なんかに…!!」
「好きな人にしかあげたくない…それが俺のこだわりだよ、別にバッジそのものにこだわる訳じゃない」
「!」
 それって…それって…どう考えても、一つの意味しか通じない訳で…
「〜〜〜〜〜〜」
 一気に顔を赤くした桜乃に、幸村がぎりぎりまで身体を寄せ、そして顔を近づける。
「知らないと思ってた…だから高校まで預かるつもりだったけど、こんなに早くあげられるなんて…最高の卒業式だ」
「幸村さん…」
「俺の心と一緒にいたバッジだよ…あげる代わりに、俺も一番欲しいものを貰っていいよね」
 それが何であるか察した桜乃が、ぎゅ、と瞳を閉じ、そんな少女の唇を幸村が優しく奪う。
 微かな春の香りを運ぶ風が吹く公園の、誰も見ていない木陰で、二人が秘密を共有する。
 心を手にする代わりに、愛の誓いを奪われる。
 残酷な程に甘い、二人だけの秘密…
「…っ」
「君はもう、俺のものだよ…」
 俺が、君のものであるように…
 男の心の証を掌の中にしっかりと握り締めたまま、震えるほどに口付けに酔ってしまった桜乃は、唇が離された後も男の腕の中に捕われたままだった。
 何処にも逃げられない…逃げたいと思う心すら無いけれど……
「これからの予定があるのはちょっと惜しかったな……ねぇ、竜崎さん、明日は空いてる?」
「は、い…?」
 まだ胸の中でぼんやりとしているままの桜乃に、その愛らしい顔を楽しみながら、幸村が誘うように囁いた。
「恋人として…俺とデート、してくれる?」
「っ!」
 ね?と誘うような囁きと暖かな吐息が桜乃の耳元をくすぐり、彼女に不思議な魔法をかける。
 照れるあまりに、下を向いてしまいながらも、桜乃は若者の望みに答えていた。
「…はい…幸村さん…」
「ふふ…恥ずかしがる君も可愛いけど…ね」
 思うままに相手を操る魔法使いの様に、余裕の笑みを浮かべた若者はその指で優しく少女の顎を持ち上げ、自分へと向けさせる。
「一緒にいる時は俺の方を見てほしいな…俺だって、君の顔を見たいんだから…」
「でも…やっぱり、は…恥ずかしいです…」
「じゃあ、慣れて?」
「〜〜〜〜〜」
 あっさりと笑顔で難問を突きつけたちょっと意地悪な恋人に、桜乃は声を失い、せめてもの抗議にぱふんとその胸に顔を埋めた。
 顔は見せない…けどその分、相手の傍にいるのだという自己主張に、幸村は苦笑しつつも楽しそうだった。
「ずるいな…ただでさえこんなに可愛いのに」
 こんなコトをされると、歯止めが効かなくなりそうだ…
 意外に手強そうな小さな恋人に、幸村は強く抱き締め返すことで応えた。
「いいよ…じゃあ、俺が目を離せないようにしてあげる…他の誰かなんて見ている暇がないぐらい」
 君は、結構厄介な男の心を欲しがってしまったみたいだね…
 でも、絶対に後悔はさせないよ…

 若者の心の宣誓に応えるように、桜乃はずっと相手の校章を握り締めていた……






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