どっちが大事?


「俺さー、振られたんだよ」
 或る日の休み時間、テニス部の部長である幸村は、親友の真田と一緒に同じクラスの男子から或る相談持ちかけられていた。
 いや、相談と言うよりは愚痴に近いものかもしれない。
「え? そうなの? 結構仲良かったじゃないか、君達」
 向こうのカップルの様子はこれまでも目にした事があったらしい幸村は、沈んだ様子の相手に不思議そうに尋ねたが、そういう話題が苦手な真田は親友に進行役を任せて押し黙っている。
「そうだけど…俺、他の高校の受験の為に、結構頑張って勉強してるんだけどさ、その所為で暫く付き合いが疎遠になってたんだよ。そしたらいきなりキレられて『試験と私とどっちが大事なのっ!?』って言われて…こっちもストレス溜まってたから、後は売り言葉に買い言葉…」
「うわぁ…それは災難だったね」
 心から労いの言葉を掛けた幸村の隣で、けろっとした顔で真田が言った。
「試験に決まっているではないか、何をそんな分かりきった事を…」

『………』

「? どうした?」
 二人の沈黙に訝し気な顔をした真田に、幸村がぽんぽんと肩を叩いて優しく諭した。
「いや…弦一郎、世の中には理屈で済まされないコトもあってね……そこで『君の方が大事だよ』って答えてほしいのが女心なんだよ」
「そ、そうなのか!?」
 では自分は間違った答えを出してしまったのか!?と少なからずショックを受けている親友に、幸村は苦笑して首を横に振る。
「そもそもそういうのって比べられないものだろ? でも、そこを敢えて比べて欲しいって言うのは、自分を大切にしてるよっていう相手の心の確認が欲しいんじゃないかな…」
「むう…」
「…俺が少し折れたらよかったのかなぁ」
 振られた同級生が落ち込む様子を見て、優しい美麗な若者は、まぁまぁと相手の肩を叩いて励ました。
「きっと向こうも我慢してて、寂しかったんだと思うよ。お互いに少しだけ心のゆとりがなかっただけさ……もしやり直す気があるのなら、落ち着いた時に改めて二人で話し合ってみたら?」
「そうだな……そうするよ。話、聞いてくれてサンキュー」
「頑張ってね」
 相手をばいばい、と送り出す親友を、真田はほう、と感心した様子で眺めており、やがてその視線に相手が気付く。
「何だい?」
「いや…見事なものだと思ってな…俺なら、融通の効かない相手に困惑して終わってしまいそうだが、そういう考え方もあるのかと」
「まぁ、当たり障りのない理屈だよ…実際、そんな事を余裕がない時に言われたりしたら、俺だって機嫌を損ねてしまうかもしれないし…あくまで第三者だからこそ、客観的に見ることが出来るのさ」
「そんなものかな…」
「……ふふ」
「?」
 不意に何かを思い出した様に笑う親友に、真田が眉をひそめて視線を向けると、相手は何でもないよと手を振った。
「俺にとっては、逆の方がよっぽど困るんだけどね」
「逆?」
「…世の中、色々な女性がいるってことだよ」
「……???」
 それは世の中には様々な人々がいるのだから女性についても同じ事が言えるのだろう、と真田は思ったものの、相手の真意を図ることは難しく、困惑を隠せない。
 その話題についてはもう何も語るコトもないと真田は早々にそれを切り上げ、代わりに、ひそりと小さな声で相手に尋ねた。
「…で、例の件だが…お前の調子はどうだ?」
「それは君も傍で見ているからよく分かっているだろう? 弦一郎」
「む…まぁ、な」
 くすっと笑って逆に尋ね返した相手に、真田はばつが悪そうに視線を逸らした。
 そして、ちょっと考えた後で改めて詫びる。
「すまんな、どうにもこういう性格だ。お前が己に対して厳しい事はよく知っている筈なのに、どうしても検める癖が抜けん」
「いいよ、別に抜かなくても」
 今度こそ、幸村は楽しそうに笑う。
「いい事じゃないか、君がそうして気を配ってくれているから、俺達は試合に集中出来るんだ。そうそうない機会だし、大いに楽しもうよ」
「…そう言ってもらえると助かる」
 相手に諭されながらも、やはり自分を戒めずにはいられないのか、真田は瞳を伏せて自分を心の中で叱咤する。
 そんな彼らの脇を通り過ぎた一人の女子が、思い出した様に彼らに話しかけた。
「幸村君、真田君、今度、外国でテニスの試合するんだってね。頑張って」
「ああ…全力を尽くすつもりだ」
「うん、有難う」
 今正に自分達が話していた話題について振られた二人は、相手にそつのない返答を返した後で、ふぅとどちらからともなく息を吐いた。
「…秘密裏に、なんて言っても何処かから情報は洩れるんだね」
「まぁいずれは公表されるのだ…何の関係もない奴らにまで言われてしまうのだから、これももう時間の問題だな」
 実は、二人に関わらず、立海のレギュラー達は近日中…春休みの期間を利用してとある国に向かう予定になっている。
 時期的に言えば卒業旅行というものだが、実際はそんな呑気なものではない。
 テニスが盛んな某国から、これからの将来有望な若きテニス選手を集めて国際的な親善試合を行おうという企画が提示され、この国でも様々なスポンサーが乗り、実現の運びとなったのが去年末。
 それから各地の優秀な選手が結構な人数選別されることになったのだが、全国的にも有名なテニス強豪校の立海メンバーは文句なくその大会への参加切符を手に入れた。
 そして現在、年が明けて参加資格があることを伝えられてからは、二年を主力とする後輩達に譲ったテニス部の活動にも再び参加しつつ、受験などで一時鈍っていた試合の勘を取り戻している。
 元々が才能に恵まれ、何よりテニスが好きな面々であった若者達である。
 勘を取り戻すのにはそう時間は掛からず、専ら現在はかつての自分達を越える事に重きが置かれている程だった。
「…取り敢えず、全員、進級進学が決まっていて良かったよね」
「試合に参加して留年になりましたなど、本末転倒だからな…」
 実際、ヤバイと思う人物もいたりしたのだが、そこは何とか持ち前の火事場の何とやらで乗り切ってもらった。
 まぁ決まった今は毎日嬉々として練習に励んでいるのだが、外国に行けるという喜びも含まれているのだろう。
「今年は春から早速忙しくなりそうだな…だがお陰で、有意義な休みが過ごせそうだ」
 そう言った真田は、窓から見た景色に微かに目を細めて、感慨深げに呟いた。
「……向こうには桜はあるのだろうか…帰って来て散っていた、という事にならなければいいのだが」
「桜か…」
 相手の言葉を聞き、ふと何かを思い出したらしい幸村は、同じく窓の外を見て愁いを帯びた表情で溜息をついた。
(………会いたいな)
 その時若者の脳裏に浮かんだのは、満開に咲き誇る桜の花々ではなく、幼さを残した一人の少女の笑顔だった。


 数週間前…
「最近、お祖母ちゃんが余所余所しいんですよ」
「竜崎先生が?」
 或る日の夕方、立海を訪れていた一人の少女は、幸村の隣を歩きながら些細な愚痴を零していた。
「時期が時期だから、学校行事の事で色々と忙しいのは分かるんですけど、何となく私に隠している事があるような気がします…まぁ、気のせいかもしれないんですけど」
「へぇ…それは気になるね」
「でしょう?」
 冬至はとっくに過ぎたとは言え、まだまだ日が落ちるのは早い。
 夕暮れから夜の闇へと移ろってゆく黄昏の色を浴びながら、二人はゆっくりと駅へと向かって歩いていた。
 こうして二人で一緒に歩くのは初めてではない。
 しかし、そう長く続いている訳でもない。
 夏に桜乃が立海のメンバー達と出会い、交流を深めてから数ヶ月…
 その数ヶ月の間に、幸村はこの少女のすぐ傍に立つことが癖になってしまっていた。
 最初に会った時から出会いを重ねる内に、彼は自分が相手にどんどん惹かれている事実を感じていた。
 最初は、コートの向こうにいる少女をたまに見ている程度だった。
 テニスについて真面目に質問をしてくる子を好ましく思い、丁寧に受け答え…勿論その中にはちょっとした雑談も混じっていて…きっと、それも切っ掛けだったのだろう。
 ふと、何気なく見た少女の笑顔が、全てを変えてしまった。
 声さえも控えめな、柔らかく儚げな笑顔…でも、とても嬉しそうに楽しそうに、心から笑っているその少女は、彼女自身が知らない内に幸村の目を釘付けにしてしまったのだ。
 もっとあの笑顔を見たい
 笑顔だけじゃない、他の表情も見たい
 声を聞きたい
 自分を呼んで欲しい
 もっと近くに
 俺の一番近くに…
 一つの欲が生まれ、満たされたかと思えばまた新たな欲が生まれ…
 それを相手が叶えてくれる度に、己の心の中の少女の居場所が大きくなっていき、今ではもう、幸村は彼以外の男性が彼女の傍にいることすら許せなくなってしまっていた。
 こんな醜い男の心を彼女は知っているのかどうか…しかし、こうしてたまに自分が青学に行ったり、桜乃が立海に来たりしている時には、彼女は自然に傍にいてくれる。
 それが嬉しくて…自分はまた欲を出すのだ。
「立場も大事ですけど、大切な孫にあんまり長く隠し事をするのも……ぷしゅっ」
 話している途中で寒気が悪戯をしたのか、桜乃が小さくくしゃみをした。
「ああ、大丈夫かい?」
 そんな何気ない行為すらも可愛くて、抱き寄せてしまいたくなる気持ちを必死に堪えながら、彼はかろうじて片手を差し出すに留めた。
「?」
「まだ寒いからね、気をつけて…手を繋げば少しはましになるよ、さぁ」
「は、はい…」
 あまりに自然で何気ない誘いだったから、桜乃も戸惑う時間はごく僅かで、相手に言われるままに手を伸ばした。
 きゅむ…と優しく、しかしすっぽりと手を包んでくれた温もりに、ようやく桜乃が頬を染めている傍らで、幸村も隠した心の高揚を感じていた。
 試合でもそういう場ではなくてもポーカーフェイスが必要となる場合はあるが、今日ほどにそれが上手くいった事に感謝した事はなかったかもしれない。
「冷たいね…辛かっただろう」
「い、いえ…元々、冷え性なんで慣れっこです、でも…今は本当にあったかいです」
「………」
 そのささやかな一言だけで、熱に浮かされそうになる…こんな寒い中にあってさえ。
 幸せな気持ちの中、幸村の脳裏に『告白』という言葉が過ぎった。
 そう、これだけ近くにいながら二人はまだ先輩と後輩…或いは友人、という枠からまだ抜け出せていない。
 それは桜乃の内気な性格と、そんな彼女のことを大事に思い過ぎてしまっている幸村、双方に原因があった。
 互いに好意があるのは既に分かりきったことなのだが…その次の一歩が、なかなか踏み出せない。
 けど、いつまでも後手後手に回ってしまえば、いつ誰から横から攫われてしまうかもしれない…
「…竜崎、さん…」
 ひそ、と呼びかけたが、それは残念ながら、桜乃の耳には届かなかった。
「お祖母ちゃんがそんなだから、私もあまり話しかけられなくて…最近は、幸村さん達も試験が終わってからテニスを再開されましたから、ここに来ることが出来て嬉しいです」
 話が戻ってしまった事で、結局チャンスを逸してしまった幸村だったが、彼はそれでも小さな主張を続ける少女を楽しそうに眺めていた。
 その小さな心の揺らぎが、若者の判断力を僅かに狂わせたのかもしれない。
 しかしその揺らぎは、意外な形で彼に災難となって降りかかることになってしまった。
「竜崎先生も今は学校の行事で大変なんだよ…それに春休みにはあっちの国での大会の件もあるしね…」
「……え?」
「?」
 約一秒遅れで自分の言葉に反応した桜乃に、幸村が不思議そうに振り返ると、向こうはきょとーんとした顔でこちらを見上げていた。
「…大会?」
「……あ!」
 そんな桜乃の態度を暫く見ていた幸村ははっと一つの可能性に思い至った。
 もしかして彼女は…竜崎先生からまだ何も聞かされていない!?
 という事は、竜崎先生が彼女に余所余所しかった理由って…それこそ、今自分が暴露してしまった件があったから…!?
(しまった! 関係者には殆ど告知されていることだったから、てっきり彼女ももう耳にしているとばかり…!!)
 けど、改めて考えてみるとそうだ…彼女は竜崎先生の孫ではあるけど、公の立場から見たら部外者に近いのだ。
 気をつけるべきことだとは分かっていたのに、うっかり…!!
「え…ええと、今のは」
 取り繕おうと口を開きかけた幸村に、ぴしっと桜乃が人差し指を突きつける。
「ダウト!!」
「あ…やっぱりもうダメ?」
「ダメです」
「しまったな…」
 失言はしてしまったものの、うろたえる様な無様な姿は見せずに、幸村はぽりぽりと頭を掻いた。
「あっちの国ってどういうコトですか? 大会って?」
 ひしっと自分の腕に縋って瞳を向けてくる相手に、幸村は相変わらずしまったと苦笑していたものの、自分の負けは潔く認めた。
 ここでまだ黙っておくことも出来たが、いずれは知られる事でもあるし、内緒にされたままだと桜乃も辛いだろう。
 失言してしまった事は、後で竜崎先生に自分が詫びたらいい…幸いこの子は自分から他人の秘密を流布するような子ではないし…
 結局この時も、幸村は桜乃の心を第一に考えた。
「…多分、もう少し経てば、竜崎先生も君に教えてくれたんだと思うけど…」
 そう前置きして、幸村は桜乃に、春休みに持ち上がっている一大プロジェクトについてかいつまんで説明してやった。
 異国で休み期間中にテニスの親善試合が行われること、立海メンバーも自分を含めて選出されていること、今の練習はその大会に向けて特化したものであること…
 メンバー間でこれは秘密裏に、と示し合わされている重要機密は言えない事も断り、幸村は桜乃が納得するに十分な説明を行った。
「……そういう訳」
「え…じゃあ、もうすぐ外国で、皆さんはテニスを? 日本を代表して行くんですか?」
「まぁ、そこまで大袈裟なものじゃないと思うけど…形向きはそうなるね」
「!」
 その次の瞬間、桜乃は酷く真剣な顔をして、幸村に向き直ったかと思うと、彼の両腕をコートの上からぎゅっときつく掴んで声を上げていた。
「何で早く言わないんですか!!」
「…え?」
「そんな…中学生として最後の最後の大事な大会が控えていて、他の皆さんとも必死に練習されているのに…言って下さってたら、私、邪魔なんかしなかったのに…」
「え…!?」
 ちょっと待って、君は邪魔なんかじゃ…と言おうとした幸村の言葉を、相手の珍しくきつい一言がびしりと封じる。
「私とテニスとどっちが大事なんですか!」
「!!」
 不意打ちの問いに若者が言葉を失うと、桜乃は先程の口調から元の優しい穏やかなそれに戻った。
「大事な時期でしょう? 幸村さんは、他のメンバーの方々も引っ張っていかないといけないんですから、私なんかに遠慮したりしないで下さい。幸村さんにはベストの状態で頑張ってもらいたいから…私の我侭で、それを邪魔したくないんです」
「…竜崎さん…」
 神妙で真剣な相手の言葉に、幸村は静かに聞き入っていた。
 叱るというよりも、分かってほしいという切なる願いが込められた言葉には、相手の優しさが沢山込められている。
 感動したのは事実であるし、真摯に受け止めようと思った事も間違いない。
 しかし…
「…だから、これから試合が始まるまでは、私、お会いするのは控えますね」
「……!!」
 到底納得出来ない言葉が相手の口から飛び出した時、幸村の身体が微かに揺れた。
「え? 竜崎さん…?」
「私、決めました。お会い出来ないのは残念ですけど幸村さん達の勝利のためですもん、我慢しますっ!」
 ふんっとガッツポーズで可愛く気合を入れる桜乃の姿は可愛かったが、それを見た幸村は喜び半分絶望半分だった。
(本気で大会参加辞退、考えようかな……)
 いつかはばれることだったとしても、もう少しだけでも一緒にいられたかもしれないし、試合準備期間中でも会えるように段取りを組めたかもしれないのに…!
 しかし、相手の心遣いを無碍にする訳にもいかず、仕方なく彼は桜乃の気持ちを受け取ったのだった。
「うん…頑張るよ」
 まだ始まってもいないのに、既に幸村の心の中では、試合などとっとと終わらせようという気持ちが湧き上がっていた…


「…桜、か…」
 回想から現実に戻って来た幸村は、まだ蕾も膨らんでいない校庭の桜の樹を静かに眺めていたが……
「……会いたい時に会えないなんて…」
「っ!!!」
 悔しさが微かに混じっていた発言は実にひそやかなものだったが、その者の周囲に一瞬だけ纏われた鬼気に、ぞわっと真田が全身の産毛を逆立てた。
(な、何だ今の気迫はっ!!)
 思ったものの、相手の呟きを額面通りにしか受け取れなかった彼は、結局最後までその真意に気付く事は出来なかった。
(精市の奴……そんなに桜に思い入れがあったとは…まぁ日本人としては理解出来るが…)
 向こうに行っている間に咲いてしまって、戻った時に散っていては、会う事は叶わない。
 せめて開花が遅れる事を切に願おうと、親友思いの少し鈍感な男はそう思っていた……



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