三月五日…
「………」
この日は、栄えある幸村の誕生日。
立海一のイケメン男のめでたい記念日という事で、当日朝から、幸村はずっと誕生日プレゼントの攻勢をかけられていた。
前年の経験から準備していた紙袋は如何なくその効力を発揮し、その贈り物の数々を貰った傍から飲み込んでいっている。
勿論心からの贈り物なので、幸村は休み時間にそれらをくれた主に女子達にも細やかな感謝の言葉を一人一人に投げかけていたのだが、プレゼントをくれた人達が姿を消すと、そのまま自分の机に肘を付き、ぼーっと珍しく気が抜けている様子だった。
そこに、同じテニス部レギュラーだった丸井がたたーっと元気良く走ってくる。
「ちーっす幸村―っ! お誕生日おめでとーっ!」
「ああ、ブン太。うん、有難う」
呼ばれてそちらに目を向けた幸村は、見知った友人ににこりと笑う。
そして、幸村の机に至近距離まで近づいた丸井は、その脇のフックに掛けられていたプレゼント入りの紙袋をよいしょっと両手で持ち上げた。
「そんな訳で、コレ、預かってくからな」
「うん、宜しく」
全く唐突な丸井の言葉にもあっさりとそう答えた幸村は、それからもぼーっと窓の外を眺め続け、一方荷物を奪取した丸井は、廊下に出たところで信じられないといった表情で振り向いていた。
「ボケ度二百パーセントッ!!」
「ナニ試してんだよお前は」
人の物を盗むような真似は止めろ、としっかりと相棒のジャッカルが念を押している脇では、廊下で同じく集まっていた詐欺師と紳士が、教室内の元部長を困った様子で眺めている。
「…重症じゃのう」
「コートではいつもと変わらない様子なんですけどね…ああ、しかし元参謀は、何かが違うと敏感に察知されていた様子でしたが」
「何かが違うって…決まってっしょ。誰かさんが来なくなってから、明らかに気落ちしてるッスよ、元部長」
トーゼンっす、とばかりにその指摘をしたのは、二年生の切原だ。
「ああ、竜崎だろ? この時期は向こうも時間割がかなりヌルくなるから、よく来てくれてたんだけどなぁ」
ジャッカルが言う通り、最近は三年生の自分達は卒業を控える身で、授業も殆ど午前中で終了する。
桜乃の学校でも、三年生ほどに暇ではなくても、多少早めに切り上がる時間割に変更されている筈なのだ。
それを立証する様に、ついこの間までは桜乃はほぼ毎日と言っていい程にここに来てくれていたのだが…何かあったのだろうか…?
「ま、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ぬのがオチじゃ…俺はまだ死にたくないからのう、一抜けじゃ」
「仁王君が動かないという事なら、まぁ大事ではないという事でしょう。私もここは傍観ということで」
「お前ら…本当にそれでいいのか?」
「取り敢えず、食い物はちょこっとだけもらっとこー」
「あ、俺もちょっと欲しい…」
そんなメンバー達を他所に、幸村はじっと窓の外の青空を見つめていた。
あの子に会えなくなってから、何日が経過しただろう。
ずっと、想っては打ち消してきたけれど、今日みたいな日は正直辛いな…
「…ふぅ」
折角の一年に一度の自分だけの記念日に…一番祝ってほしい人が傍にいない…
誰からもそんな素振りを見せられなければ、自分も忘れて済む話だけど、こうして誰かから祝われる度に、君の事を思い出してしまう。
携帯でメッセージを送りあう事も出来る時代だけど…何だか勿体無い気がして、画面を開く気さえ起きない。
「……」
こんな思いを抱えて一日過ごすくらいなら、いっそ……
暫く沈黙していた幸村は、それから心の中で或る事を心に決めた。
(……会いに行こう)
彼女の心遣いはよく分かっている、感謝もしている。
けど、どうしても、会いたい気持ちが抑えられない。
会いに行ったら、また怒られてしまうかもしれないけど…けど、それでもいいから、自分が悪人になったっていいから…一目でいいから会いたいんだ。
それに……
(……これだけは俺の手で…)
心を決めた若者は、それから机の脇に下がっている自分の鞄をじっと見つめていた。
放課後…
部活を終えて、心地良い疲労感を感じている身体を制服とコート、マフラーで包んだ幸村は、丸井から返された紙袋も鞄と一緒に持って、校門へと向かって行った。
いつもなら他のメンバー達と一緒に帰る道だが、今日は自分に一つの目的があるので、予め一緒の帰宅は断っている。
勿論、その目的は…
(電車で向かうとして…やっぱりその時間なら家にいるよね…)
過去の記憶を掘り起こし、桜乃の家までの道程を反芻しながら、幸村は校門を出て駅へと向かうべくそのまま道に沿って向きを変えた。
そんな彼の目前に、意外な障害物。
丁度校門前に佇む形で、一人の人間が幸村の視界にいきなり入ってきたのだ。
彼の歩みが緩やかだったことと脇見をしていなかったお陰で、接触事故は避けられたものの、二人は互いを目の前にして立ち止まる。
そして二人がほぼ同時に相手の顔を見たところで…
『あ』
彼らの声が、見事に合った。
互いによく見知った人物だったからだ。
幸村と…桜乃。
「え…あれ? 竜崎、さん…?」
ほんの数秒前まで考えていた人物が目の前にいた事で、完全に不意打ちを喰らってしまった幸村が珍しくうろたえる。
テニスの試合でも日常生活でもあまりそういう姿を見せた事がない若者だったが、向こうも驚いたのは同じだった様で、明らかに狼狽してもじもじと身体を揺らせて俯いている。
夕暮れの明りの所為だけではない、赤く染まった頬が酷く目を惹いた。
「あ、の…っ」
てれてれと真っ赤になった顔で視線を上げられないまま、先ずは桜乃が切り出した。
「…き、今日は、幸村さんのお誕生日ですからっ……あの、これ…」
「……」
「…お誕生日…おめでとうございます…」
まだ声が出ない様子の若者に、小さな可愛らしいラッピングの包みを手渡した後、桜乃は照れたままにどもっていたが、それから頑張って唇を開く。
何も言わず、沈黙に支配されてしまったら、更に言葉を封じられそうだと思ったのか。
「ごめんなさい…我慢するって、言ったのに…」
一方、宣誓を自分から破ってしまったことに少女が謝っている間に、幸村にはそれに対して非難するどころか、嬉しいと思う気持ちが溢れるほどに湧きあがっていた。
夢じゃない…彼女が目の前にいる。
しかも、自分から会いに来てくれて、プレゼントまで持って来てくれて…
それでいて、まだ自分を気遣う事を忘れていないなんて…
ああ、もう…本当にこの子は…!
「きゃっ…!」
溢れた感情を抑える術もなく、彼はただ夢中で少女をきつく抱き締める。
ずっと焦がれていた存在は、相変わらず小さく頼りなげで…愛おしかった。
「…君って最高…いつだって、俺が求めているものをくれるんだね…」
「え…」
いきなり抱き締められ、戸惑う相手に、幸村は嘘偽りない心情を熱の篭った声で伝えていた。
「会いたかった…君に」
感動の再会はまだ幸村の胸を躍らせてはいたのだが、ずっと校門前という目立つ場所で抱き合うという事も憚られる為、二人はそれから近くのカフェに場所を移していた。
「やぁ、桜の花のストラップだね」
「まだ咲く時期じゃありませんけど…幸村さんが桜がお好きだとお聞きしたので」
「え? 誰に?」
「真田さんです。幸村さんが欲しがっているものを差し上げたかったので、こっそりと電話でお聞きしました」
渡す前には秘密にしていた事だったが、今はしっかりと渡せたので種明かしをするのも躊躇いはないらしい。
しかし幸村からしてみたら、自分が少女に会えなくて悶々としていた時に親友は裏で彼女と連絡を取っていたという事であり、彼は理不尽だと分かってはいても少しだけ微妙な気分になってしまった。
(まぁ…今回についてはお咎めなしってことにしてあげようかな)
今頃、帰る道すがらにくしゃみをしている真田の姿が思い浮かぶ。
気を取り直して、幸村は改めて少女から贈られたストラップを手にそれをしみじみと眺めた。
円形の硬質ガラスの中に、本物の桜の花が一輪封入されたものだ。
「…ソメイヨシノだね…とても綺麗だ」
園芸が趣味の若者が桜の種類を正確に言い当てて微笑むのを、桜乃は眩しげに見つめつつ頷いたが、その表情には微かに不安の色も滲んでいた。
「何が喜ばれるのかよく分からなくて…ありきたりの物になってしまいましたけど」
「そんな事ないよ……うん」
断りながら、幸村は早速自分の手持ちの携帯にそのストラップを付けると、それを眺めて満足そうに頷いてポケットにしまった。
「いいね、ポケットに一足早く春が来た感じだ。これなら向こうにも持っていけるよ」
「うふふ…」
良かった、と喜んでいた桜乃に、しかし幸村は少しだけ意地悪な笑みを浮かべつつ、ひょいっと顔を近づけた。
「でも、まだもう少し物足りないな……どうせなら、俺の一番好きな桜を持って行きたいんだけど」
「え…?」
やっぱり、イマイチなプレゼントでしたか?と戸惑う少女に、幸村は自分の鞄を開いて、中から一枚の長方形の紙封筒を取り出し、相手に手渡した。
「え…?」
「だから、協力してくれる?」
彼の言葉を聞きながら確認したその封筒は、よく見たら航空券を入れた紙ケースだった。
更に中身を確認したら…某国への航空券と、何処かの大会の特別招待チケット。
参加者と一部の関係者にしか配布されない、非常に貴重なものだ。
「ゆ、幸村さん…これって…」
もしかして、これって…でも、信じられない、と思いながら幸村を見上げると、相手は肯定の笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「席は俺達のベンチのすぐ傍を用意してもらうよ…俺が、いつでも綺麗な桜を愛でられるように、ね」
さわ…
「っ!!」
優しく頬を撫でられ、『綺麗な桜』が一気に赤に近い桃色に咲き誇る。
恥じらいに視線を合わせられず、慌ててそれを横に逸らしてしまった桜乃に、若者はくすくすと楽しそうに笑った。
「気に入らない? 君に来て欲しくて、会えない間、結構スポンサーの人に無理言って譲ってもらったんだけどな」
「う…」
嬉しい言葉を言われたものの、校門で会った時と比べてかなりマイペースを取り戻しつつある相手の余裕が悔しいのか、桜乃がぷいっと拗ねた様に横を向いた。
「も、もうっ…真面目に練習しているかと思ったら、またそんな…私とテニス…」
「君の方が大事」
「!!」
いつか言われた質問に、今度は幸村は迷いなく答えた。
「テニスも好きだよ…俺にとって大事なものだ。けど、君の事も、とても大事」
そして、幸村はそこで彼なりの答えを出した。
「違うのは…テニスは世界中の人が楽しんでいても何とも思わないけど、君の隣にいるのは俺じゃないと許せないってことかな…」
「!!!」
「だから…おいでよ」
俺のすぐ傍で応援して、とねだる相手に、桜乃は真っ赤になった頬を元に戻せない。
答えは決まっているものの、恥ずかしさにどうして表現したらいいのか分からない少女は俯いて…必死に『注意しているんですからね』アピールをした口調で答えた。
「い、行きますっ…行きますから、ちゃんと勝って下さいね!?」
「うん…勿論」
承諾を取り付けた幸村は、嬉しそうに笑い、それからもずっと照れ続けていた桜乃の傍で美味しいコーヒーと彼女との一時を楽しんでいた。
暖かな店内から外に出ると、ひゅうと吹く風が頬を撫でて冷気を伝えてきたが、そこが火照りっぱなしの桜乃にとっては正直有り難かった。
ここから少し歩いたら、もうすぐ駅だ。
「ご、ご馳走様でした」
「どういたしまして…来てくれたんだから、当然だよ」
奢ってくれた幸村に感謝を伝えた少女の、いつになく紅く染まった様に見える唇を、彼はじっと見つめている。
「? 幸村さん?」
「ね、竜崎さん…俺の誕生日のお願い、最後にもう一つ聞いてくれる?」
「お願い…何ですか?」
「…ちょっとだけ、目を閉じて」
「…!」
今までのカフェでの会話と、彼の声に微かに滲んだ熱に、普段は鈍感な少女もそこに密かな目的の匂いを感じ取った。
「……な、何かする気、ですか…?」
少しだけ身体を引きながら尋ねる桜乃に、幸村はにっこりと笑った。
「うん、する気」
「!!」
「…嫌?」
こういう時、この人は本当にズルイと思う…「ダメ?」じゃなくて「嫌?」なんて聞くんだもの…
「嫌」なんて、答えられる訳がないの、知ってるのに…
「〜〜〜〜!!」
こうなったら、恋する乙女の覚悟を見せてあげようじゃない!と思ったのかは定かではないが、桜乃はとにかくその時、ぐっと心で気合を入れて瞳を固く閉じた。
しかし、その姿は余りにも必死で、思わず幸村は笑ってしまった。
「気持ちは分かるけど……食べたりしないよ」
そう言いながら、ゆっくりと若者は顔を寄せて…
「…『今は』、ね…」
「!!」
思わせ振りな言葉を聞かせた直後、優しく少女の唇を奪った。
「ん…」
微かな声を漏らしながら、桜乃は初めてのキスを奪った若者の腕にきつく縋りつく。
優しいのか意地悪なのか、本当に分からない…でも、この人が自分を大切に想ってくれていることだけは分かる…自分が彼を想うのと同じ様に…
だからこんなに…泣きそうになるぐらい、嬉しいと思える…
長いのか短いのかも分からないキスの後、離れた男の唇はそのまま少女の耳元に寄せられた。
「大好きだよ…俺だけの、可愛い桜乃…」
「〜〜っ!!」
甘い囁きに、意識が彼方に持っていかれそうになるのを必死に堪えながら、桜乃はそれでも相手の腕からは手を離そうとはしなかった。
それから彼女の足元がしっかりとするまで二人で佇み、ゆっくりと駅に向かって歩き出したところで、少女が視線を逸らしながらぽつんと言った。
「……明日も」
「ん…?」
「…明日も…来ます、から」
「!!」
本心からの行為ではあったものの、今日は随分と我侭を通してしまったから、てっきりまたお預けを喰らう事を覚悟していた幸村は、意外そうに瞳を見開いて相手を見た。
「だ、だって……幸村さん、会わない方が何してるか凄く心配ですから…」
向こうはまだ照れているのか、視線を合わせてはくれない…が、その表情に怒りなどは微塵もなく、寧ろ恋という彩を与えられ、艶やかさを増している。
「……」
注意はしているけど、そんな可愛い顔でほっぺた真っ赤にして…それって…君も俺に会いたいって思ってくれてるって、コトだよね?
「…じゃあ、可愛い恋人にイイトコ見せなきゃ」
「〜〜〜〜〜」
最早、完全に若者のペースである。
二人はそのまま並んで、互いの手を繋いで、駅へと歩いて行った。
『ところで、今度から俺のことも『精市』って呼んでくれる?』
『きっ…今日の最後のお願いは終わりましたっ…』
『じゃあ明日からでいいや』
『〜〜〜〜〜〜!!』
微笑ましく、甘い会話はそれからも続いていた…
大会当日、怒涛の快進撃を続けた『神の子』を、一人の可憐な少女が何と呼んでいたかは、推して知るべし……
了
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