桜の魔力
「ええと、今度の試合は…と」
「A組とC組のシングルス戦です。メンバーの順番は一番が二年の…」
その日も、立海大附属高校では、放課後のコートで勢い良い男子達の掛け声が響いていた。
ここでは現在、男子テニス部の活動が行われている。
今年入学してきた一年生の進入部員も加わり、コートの至る所では声に負けない元気な若者達の姿があちこちで見られていた。
その中にあって、今日は一際部員達の目を引く若者がいた。
「精が出るな、精市」
「あ、弦一郎…うん」
呼びかけられ、立ち止まって振り返ったのは、見目麗しき一人の若者。
ゆったりとしたウェーブを持つ髪と、肩から羽織ったジャージがトレードマークである幸村精市である。
今年高校に進学し、同時にテニス部に入部した彼は、一年生でありながらその実力は既に三年生達にも到底及ばぬ神業の域に達していた。
入部した時には勿論何の肩書も持たなかった彼だが、その後たった数日で、彼は他の仲間達と揃って先輩達との練習試合で快勝し、その存在感を部全体に知らしめたのだった。
驚いた部員達も勿論いたが、それより何より多かったのは『やはり』という納得の声。
『神の子』である彼が率いていた、去年の中学三年生レギュラー達は、歴代の立海テニス部員達の中でも秀逸な才能を誇っている。
もう数ヶ月もしたら、順調にいけば一年生の彼らがもうレギュラーの座を奪ってしまうのではないかと囁かれている程だ。
そんな化物たちのリーダーとも言える幸村だったが、今日は特に練習に身が入っている様だ。
と、言うよりも、何処か心の焦りを感じさせる。
「今日はいつになく、早いペースで練習メニューをこなしていっている様だな…何かあるのか?」
黒の帽子がトレードマークである親友の真田弦一郎が相手にそう尋ねたが、向こうは何でもないよと微笑みながら首を横に振った。
「特にそんな事はないけど…おかしい?」
「いや、おかしいという程の事ではないが…いつもなら泰然と構えているお前にしては、随分と気が逸っている様に見えてな…」
「ふふ、そう…俺もまだ未熟だね」
気をつけよう…と自身を戒める言葉を彼が呟いた時だった。
「こんにちは」
二人の耳にコートではあまり聞かれない音程の声が届けられた…が、彼らはすぐにその声に対し、馴染んだ様子で振り返りつつ微笑んだ。
「竜崎か」
「お久し振り、竜崎さん。元気にしていたかい?」
「はい!」
にこ、と笑って元気に返事を返したのは、立海のものではない制服を纏った一人の少女。
青学の二年生に進級したばかりの、竜崎桜乃だった。
この高校生専用コートにはまだ馴染みは薄いが、彼女の幸村達との付き合いは去年まで遡る。
青学の一年生の頃より、桜乃は縁あって幸村達立海レギュラー達からは非常に可愛がられていた存在だった。
彼らが高校に進学したからと言ってその絆は薄まることはなく、彼女は相変わらずこうして時間を見つけては、自分達に会いに来てくれる。
尤も、当初から遊びに来る訳ではなく、テニスの見学、指導を受ける為だったのだが、彼らが高校に進学してからはその様相は少々変わっていた。
「すまんな、折角来てくれているのに、見学ばかりで…」
「流石に一年生がサボって、他校の女子にテニス教える訳にはいかないからね」
二人が申し訳なさそうに苦笑したのに対し、桜乃はいえいえと首を横に振って柔らかい笑顔を浮かべた。
「見学させて頂けるだけで、私は十分ですよ。そもそも、他校の生徒がおいそれと来てはいけない気もしますし…」
「いや、邪魔さえしなければ、その程度の自由は許される。そもそも、他校の人間が入ってはいけないという規律はないからな」
「はい…」
かつては『鬼の副部長』と呼ばれた真田ですらも、桜乃に対しては優しい気遣いを見せる。
それはこの一年で感じてきた、相手の遠慮深い人となりを信用してのものなのだろう。
「お邪魔にならないように気をつけます。私が粗相したら、皆さんに迷惑が掛かりますから」
「ふふ…正直、そう言ってくれると安心するよ。君のコトだから、そんな粗相もそうそうしないだろうけど…」
そんな和やかな話をしていたところで、先輩の誰かが幸村の名を呼ぶのが聞こえ、彼はああ、とそちらに向き直った。
「いけない、呼ばれちゃった。じゃあね竜崎さん、また後で話そう」
「はい」
素直に頷いた少女に笑みを返し、幸村は一時その場から離れて、呼ばれた方へとすたすたと歩いて行く。
そんな相手の姿を暫く見つめていた桜乃が、きょろっとそこに留まっていた真田へと視線を向けた。
「……今日、幸村さん、何かご用事でも?」
「む? いや…そんな話は聞いてはいないが…」
いきなりの少女からの質問に、真田が不審に思うのは当然で、彼は逆に相手に聞き返してみた。
「何故だ?」
「あ、いえ……何となくなんですけど」
言いながら、桜乃は幸村の後姿を見つめながら首を傾げた。
「いつもよりちょっと焦ってらっしゃるみたいで…部活の後で何か所用でもあるのかと」
「!」
純粋に真田は驚いた。
確かに自分もそう思えた相手の異変だが、そこまであからさまなものとなって見えている訳ではなかったからだ。
普通に接している普通の付き合い程度なら、間違いなく見逃している。
正直、自分が相手の変化を見抜けたのも、自分が彼の親友であるという事実と日頃の鍛錬からなる集中力の賜物だと思っていたぐらいだ。
その程度のささやかな変化を、こんな幼い少女が見抜くとは…
「……ああ」
驚き、暫し相手を見つめていた真田だったが、やがてそれは一つの結論へと至り、それは若者を苦笑させた。
そうだったな、彼女は…
「…真田さん?」
いきなり苦笑いを零した相手に桜乃が声を掛けると、相手は帽子のつばに手をやり、それを被り直しつつこちらを見た…薄く微笑みながら。
「……流石に、お前はヤツの事をよく見ているな」
「え…」
一瞬、何を言われたのか分からなかった桜乃だったが、相手の意味するところを察して、ぽっと頬を赤らめた。
「あう…そ、それはそのう…」
しどろもどろに弁解しようとしている行為そのものが、『そうです』という何よりの意思表示。
「俺に弁解しても何にもならんだろう…聞かされたところで、俺も困る」
「うう…」
それは確かにそうかも…と、結局言葉を封じられた桜乃が顔を赤くしたまま俯くと、真田は再び苦笑しながらぽん、と少女の頭を優しく叩きつつ、自分もそこを離れていった。
「注意力散漫だと、飛んで来たボールにやられるぞ。お前に何かあったら、それこそ精市のヤツが大事だからな…気をつけろ」
「は、はい…」
彼の言う『幸村の大事』とは、彼が責任を負わされる事になる、という意味だと受取り、桜乃は素直に受け止め、心して頷いた。
勿論、真田の言った言葉の真意は違う。
彼は、『桜乃が怪我をしたら、幸村がとても心配する事になる』という意味でそう言ったのだった。
しかしその解釈の相違は互いに修正されることはなく、それから桜乃の見学は何事もなく部活終了まで続けられた。
部活終了後…
幸村の異変がまたここでも見られた。
「おつかれー」
「お疲れさん」
部員達の挨拶とも掛け声とも取れる言葉があちこちで響く中、桜乃は幸村達に別れの挨拶をしようと思い、元レギュラー達が来るのを待っていた。
「おっ、おさげちゃん!」
「丸井さん、お疲れ様でした。今日も頑張ってましたね」
「もっちろん! 一日も早くレギュラーになるのが当面の目標だからよい! 俺みたいな天才がいつまでもヒラの部員なんて、人類の大いなる損失だぜい」
「ふふふ、期待してます」
そうしている間に、柳や真田達も次々と着替えを済ませて部室から出てくると、桜乃に挨拶を行った。
「帰りは大丈夫か?」
「はい! もうすっかり慣れたものです。最近は日も長くなりましたし、平気です」
「そうか」
柳がしっかりと帰路の心配をしていた時、ようやく幸村が姿を現したのだが、どうした訳か彼はいつになく急いだ様子で足早に外へと出てきた。
「…何か、随分と急いどるようじゃのう」
「何か用事でもあるんでしょうか」
ここにきてようやく他のメンバーも相手の異変に気付いた様子だったが、向こうはそんな仲間達の視線に気を向けるゆとりもない感じで、すたすたと相変わらず足早に歩いて来る。
「やぁ、みんな。ゴメンよ、今日は少し急ぐんだ、先に行ってもいいかな」
いつもなら元レギュラー達でのんびりと帰り道を行く筈の若者が、今日に限っては一人での帰りを主張した。
勿論、無理に付き合わせる事もないので、皆には否やのあろう筈もない。
「それは構わないが…何か用事が?」
ジャッカルの質問に、幸村は何故か言葉を濁す。
「ん…ちょっとね」
それだけを言った後、幸村は、こちらを見つめてくる桜乃の視線に気付き、足をほんの少しだけ止めた。
「……」
「……?」
何となく…何かを言いたそうにしている幸村に桜乃が、ん?と首を傾げたが、結局相手はそこでは何も言わなかった。
「いや、何でもない…ごめんね、竜崎さん。気をつけて帰るんだよ?」
「は、はい…幸村さんもお気をつけて…」
そんな桜乃の言葉を聞いて…幸村は一瞬、何かを思ったように瞳を軽く見開き…何故かとても楽しそうに笑った。
「ん、うん…ふふ、気をつけるよ」
「???」
何でそんなに楽しそうに笑うのか、まるで分からない…
疑問を質問にのせるべきかどうしようかと悩んでいる間に、幸村は再び足を速めてその場から離れていった。
「じゃ、また明日、みんな」
「おう」
「明日なー」
彼らがそんな挨拶を交わして、そして帰路を辿り始めた中で、桜乃だけは幸村の行き先が気になる様子で、相手の背中をずっと見つめていた。
(何処行くのかなぁ、幸村さん…皆さんにも内緒で…)
気になる…
相手の性格を考えると、別に、何か悪いコトをしようとしている訳ではないのだろうが…異常に気になる。
自分が掛けた言葉にあんなに楽しそうに笑って…そして、さっき自分に何か言いたそうにしていた態度…それは今の彼の行動に何か関係があるのだろうか…?
(…もう明日になったら、分からなくなりそうな気がする…)
別に根拠は無い…これは女の勘。
しかし、こういう時の女の勘はよく当たるのだ。
それに、仮に尋ねてみたところで、相手が答えを明かす可能性は殆どゼロに近い…言いたくないから、ああやって言葉を濁していたのだろうから。
となると…自分がその答えを知る方法はただ一つ!
(……つ、尾けてみよ)
かくして、少女は一人、誰にも内緒で、隠し事をしているだろう若者の後を尾行し始めたのだった…
相手は急いでいたとは言え、全力疾走はせずにあくまでも早足のスピードだったので、桜乃は何とか追い掛ける事は出来ていた。
(うわぁ…幸村さん足速い〜、あんなにすたすた歩いているのに…)
それなのに、自分はちょこちょこと殆ど早歩きから小走りのレベルで何とか同距離を保っていられるレベルである。
それでも桜乃は頑張って相手を見失わないように、後を追い続けていった。
どれだけ歩き、小走りしただろうか…やがて幸村は或る一つの階段の前に到着していた。
階段と言っても、家屋のそれではない…石段だ。
近くの神社の境内へと続くその石段を幸村は颯爽と登り始めた。
明らかな意志を持っている行動に、桜乃は慌てて彼を追いかけ、同じく石段を登り始めた。
石段と簡単に言うが、実はここの段数はかなりの数。
ちょっと頭を上に向けて一番上を見ようにも、見えない程である。
(いや〜ん! 意外なところでトレーニング…ッ!)
向こうは鍛えに鍛えている若者だからそう苦ではないだろうが、こちとらか弱い乙女である。
相手は普段の鍛錬の成果を見せ付ける様にひょいひょいと足を動かしていたが、桜乃は流石にそのペースについていくのにはかなりの根性を要した。
(うむむ〜っ…け、けど私も怠けてばかりじゃないもんっ!)
普段から立海では見学ばかりしている様に見えても、青学ではちゃんと部活で身体も鍛えているんだから、ここは成果の見せ所!
流石に相手ほどに身のこなしは軽くはなかったが、桜乃は持ち前のガッツで必死に彼についていく。
そのまま暫くは秘密の追いかけっこが続き、桜乃はてっきり相手が石段を頂上まで登りきってしまうのかと思いきや…急に幸村が方向転換をした。
(あれ?)
石段を外れ…そこから丁度伸びていた獣道の様な横道へと逸れて、そのまま彼はその道を辿って行ってしまう。
何処にその道が続いているのかは桜乃にも分からないし、石段よりかなり歩きにくくなるのは間違いない。
さて、どうするか…
然程深く悩むこともなく、桜乃は尾行の続行を決定。
こんな謎の行動をされてしまうと、尚更追いかけてみたくなるのが人情というものだ。
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