(…何しに行くんだろう、幸村さん)
石段の様に重力に逆らっての移動ではなくなった分、今度は舗装されていない歩きにくい山道を行くことになり、桜乃の労力はそんなに大きな変化はない。
普通の女子だったらもう諦めているだろう状況だったが、桜乃の頭にはその考えはなかった。
相変わらず、彼に知られないように少々の距離を置きながら、しかし相手の背中を見失わないように先へ先へと向かう。
やがて鬱蒼と茂る木々の葉に加え、暮れゆく太陽の恩恵も少なくなり、辺りが徐々に暗くなっていく。
代わりに雲の少ない空から月光が差し込み始め、それが茂みの隙間から道を照らしてくれる。
始めた当初もそうだったが、今やすっかり冒険気分。
そして、幸村は道の先にあったその行く先を遮る様に渡されていたロープを超えて…更に先へと進んでいった。
「ロープ?…え」
少し遅れてその場に来た桜乃は、そのロープに看板が下げられているのに気付いて、素直に読んでみた。
『立ち入り禁止!! この先危険 立ち入るべからず』
「…………」
立ち入るべからず…って…もうあの人、立ち入ってるんですけど…
暫く看板とあの若者の去って行った道を繰り返し交互に見つめていた桜乃は…覚悟を決めた。
「…よいしょ…っと」
ロープを超えて、自分も立ち入っていく。
こうなったら、殆ど意地である。
とことん追いかけよう…!と思っていたところで、はた、と桜乃の足が止まった。
「あ、あれ…幸村さん」
姿が見えない…自分がロープの前で暫く立ち止まって逡巡していたのが仇になってしまったのか。
立海の男子の制服はシャツを除いたら、暗色系で暗闇ではなかなか目立たない。
一度見失ってしまえば、あの服が保護色となって、更に発見を困難にしてしまう。
慌てて彼女は、彼が辿ったと思われる前の道を追うように走り出した。
(どうしよう…今更だけど、一人になったら何だか恐い…)
暗い道の脇から、何か獣や得体の知れない何かが出てきそうな錯覚に陥りそうになり、桜乃はその恐怖から逃れるように闇雲に走った。
しかし、それがいけなかったのだ。
縋るように天から差し込む月光を見上げているばかりで、暗い足元を疎かにした桜乃は、あっけなくその山の罠に嵌る。
がくん…っ
「え…?」
急に足元がおぼつかなくなったと同時に、視界が急に下へと下がる。
いつの間にか曲がっていた道の形に気付かず、足を踏み外してしまったのだと悟った時には、もう自分ではどうしようもない位に身体が傾いでいた。
このままいけば斜面に横倒しになり、そのまま転がり落ちて行ってしまう。
落下、というものではないが、多分、無事では済まない…
「きゃ…」
悲鳴を上げようにも、喉が恐怖に引きつって声が掠れる。
何も考えられなくなり、頭が真っ白になった時…
『危ないっ!!』
自分以外の誰かの声が聞こえ、自然に伸びていた腕が力強く掴まれた。
落ちようとしていた身体が、その掴まれた腕が命綱となり、何とか危機を免れる。
「…?」
恐怖で閉ざされていた目を桜乃がゆっくりと再び開き、辺りを見た時には、彼女は道の真ん中に戻された状態だった…相変わらず、誰かに腕を掴まれたまま…
「あ…」
見下ろしてきているのは、見慣れた顔…探していた若者だった。
「幸村、さん…」
「驚いた…君だったんだ」
向こうは言葉の通り、多少驚いた表情を顔に刻んでいたが、桜乃が無事だと確認したところでほっと安堵したそれに変わる。
対し、桜乃は助かったと思う反面、ばれてしまった事に動揺していた。
「すっ、すみません、有難うございます! え、ええと…きっ、奇遇ですね!」
「……うん」
「………」
「………」
「………スミマセン、尾けてました」
「うん、だろうね」
下手に問い詰められるよりも痛い沈黙で、桜乃は降参の白旗を振り、彼女の懺悔を聞いた若者は面白そうに笑った。
そこには、尾けられたことに対する怒りや侮蔑の色はない。
「いけない子だね…こっそりついてくるなんて」
一応、叱るべきところだと判断したのか、幸村はそう言いながらこつん、と軽く桜乃の額を拳骨で叩いた。
とは言え、痛みなどまず感じないだろう力加減で、かなり甘い制裁だったが。
「ごめんなさい…どうしても気になって」
しょぼん、と肩を落として素直に謝る桜乃は、思っていたよりも気落ちしてしまった様子で、慌てて幸村が声を掛けた。
「ああ、大丈夫、怒ってないよ…秘密にしていた俺にも責任はあるし」
そして、元気付けるように少女の両肩に手を乗せた若者は、きょろっと辺りを見回して、何かを判断するとこくんと頷いた。
「…ここまで来てしまったなら、一緒に行こうか…君なら歓迎出来るし」
「え…?」
「もう少し頑張って歩いてくれる? 本当にもう少しだから」
「は、はい…」
今更ここまで来て、何も知らずに引き返すこともないだろう。
それにまた一人でこの暗い山道を引き返す気力も無く、桜乃は相手の問いに素直に頷いた。
「うん、じゃあ行こう…また何かあったら大変だからね、さぁ、俺の手を握って」
「え…?」
差し伸べられる手を見て、桜乃は思わず相手を見上げた。
月光に照らされる若者は、いつもよりも一層艶が増して美しく見える。
見つめるだけで恥ずかしくなり、桜乃は慌てて視線を下に落としつつ、誤魔化すように手を相手のそれへと乗せた。
そして、彼は乗せられた自分のものより随分と小さなそれを優しく握り…歩調を合わせて二人、歩き出した。
「……恐い?」
問われた言葉に、桜乃はぷるぷるっと首を横に振った。
嘘ではない。
先程までこの若者を追って行き、見えなくなった時には大きな恐怖を覚えていたが、彼がこうして隣にいて手まで握ってくれていると、そんな恐怖などたちまちのうちに霧散してしまっていた。
その代わりに、大きな安心感が桜乃の心を満たしていた。
「…幸村さんが、一緒ですから」
「…そう」
本当は、こういう状況こそが一番恐いものなんだけどね…と幸村は心で呟いた。
まだまだ子供なのか…それとも信用してくれているのか…
(どっちにしろ、手出し出来ないな…)
まぁ、今のところはそれでもいいか…と思いつつ、幸村は桜乃の手の感触を楽しみながら、ゆっくりと山道を歩いて行った。
「うわぁ…」
「綺麗だろう?」
二人が行き着いた先に待っていたのは、一本の桜の巨木だった。
今が丁度満開、月光の下で見事に咲き誇り、その雄大な姿を晒している。
普段は獣達だけが見る事が出来る荘厳な景観に、暫し桜乃は言葉も忘れてただただその様を見つめていた。
白い…微かに淡く色づいた花弁が、風が吹く度に美しく舞い上がり、散ってゆく。
誰に見られることがなくても、この花は、己を最も美しく見せる術を知っているのだと、思わずにいられない。
「…前に偶然見つけて、それから毎年ここでこの桜を見るのが俺の楽しみなんだよ。昼もいいけど、夜の月光の光だけで輝く姿がぞっとする程綺麗で…毎年この季節が来ると、これが見たくて堪らなくなるんだ。ふふ、もう取り憑かれてるのかもね」
「凄いです…」
ゆっくりと歩いて根元まで来たところで、桜乃は改めてぐるりと首を巡らせた。
花、花、花……見上げる全てが桜の花弁…
「こんなに見事な桜初めて……幸村さんの気持ち、分かります」
「うん…有難う。折角来たんだし、落ち着いて見ようか」
「はい」
相手に促されて、桜乃は隣同士そこに腰を下ろした。
下ろしてから初めて、自分が結構疲れていた事に気付く。
(そっか…結構歩いたものね…)
「疲れただろう?」
「え…」
見透かされた様な言葉にどき、とした桜乃の前で、幸村はごそごそと自分のスポーツバッグの中を漁って、そこからステンレス製の保温瓶を取り出した。
その上部を出際良く開けて、内蓋と外蓋を分け、瓶の中身を注ぐ。
ふわりと白い湯気が立ち、内蓋の方を手渡された桜乃は、伝わる温もりにほうと息を吐き出した。
「お茶だよ」
「準備がいいですね〜」
「流石に毎年の事になるとね…それと、これ」
今度取り出したのは、白いレジ袋に入った何か。
「行きつけの店のみたらし団子」
「きゃ〜!」
完璧な花見スタイルに桜乃が歓声を上げ、幸村もそんな相手に嬉しそうに笑う。
「喜んでくれたなら良かった……正直、ここに俺以外の誰かを一緒に誘うのは初めてだったんだ」
意外な言葉に、桜乃はえっと相手に振り向いた。
「勿体無いですね…こんなに綺麗な場所なら、レギュラーの皆さん全員で来ても、きっと喜んでもらえると思いますよ?」
「うーん…」
何故か、片手で頭を軽く掻きながら、幸村は苦笑した。
「……竜崎さんは、俺の後をつけてきたんだよね?」
「は、はい…そうです」
「…じゃあ、ロープがある場所を超えてきたと思うんだけど」
「…はぁ、ありましたねぇ」
「そこには何て書いてあった?」
「……」
『立ち入り禁止!! この先危険 立ち入るべからず』
頭の中に、くっきりとあの看板が浮かび上がった。
つまり、それを超えてきてしまったと言う事は、今更考えてみたら…
「まぁ、もう立派に共犯なんだけどね」
「はうう――――っ!!」
そうでしたーっと慌てる桜乃に、幸村がまぁまぁと落ち着くように宥めた。
「大騒ぎさえしなければ、そうバレる事はないよ……彼らに見せたい気持ちもありはするけど、綺麗な桜があるからって違反行為勧める訳にはいかないからね…」
「うう…納得です」
嘆きながらも食欲には勝てないのか、ぱく、とみたらし団子を口にする桜乃に、若者は逆に嬉しそうな笑顔を見せていた。
「…正直、君が尾けてきてくれて良かったとも思ってるんだ、俺は」
「え…?」
「君には見せたかったんだよね、この桜…ちょっとだけ誘おうかとも思ったんだけど…やっぱり言えなくて」
「!…」
ああ、と桜乃は部活が終わった別れ際の事を思い出していた。
何故、何かを言いたそうな表情をしていたのか…
何故、「気をつけて」という呼びかけに、あんなに楽しそうに笑っていたのか…
全ては、今日この日だけに見られる偶然という奇跡だったのだ。
(……わぁ、女の勘が当たった…ん? でも…)
私には見せたかったって…
それって、もしかして……自惚れていいのなら、私を特別に見てくれているって、事なのかな…?
こんなお気に入りの場所に、連れて来たいと思ってもらえるぐらいに…
「〜〜〜〜〜〜」
急に気恥ずかしくなり、桜乃はぱくんと最後の団子を食べ終え、一気にお茶も飲み干してから、なるべく自然にこつんと背後の桜の幹に身体を凭れさせた。
「ほ、本当に、綺麗ですね…この桜…」
「うん」
さり気なく話を桜へと戻してみたが…果たして気付かれずに済んだのかどうか…
「あの……」
さてどうしよう、と思いつつ言いかけた桜乃が、は、と気付いた。
(わ…幸村さんの指が…っ)
身を凭れさせた拍子に、何気なく置いた自分の手…その小指が、右隣に座っている幸村の左手の小指と、触れ合っていた。
勿論、自分にそんな気は全くなく、先程までは手も繋いでもらっていたのだから大した事ではないはずだったが、意識してしまったらもうどうしようもなかった。
(きゃーっ! きゃーっ! ど、どうしよう…とっ、取り敢えずさり気なく離して〜…)
何気ない動作…しかし、桜乃は一大決心をするように心の中で気合を入れて…
そっ…
僅かに右手を移動させて、相手の指と自分のそれを離した。
失敗する事の方が難しいその動作だったが、上手くいって桜乃がほっと内心安堵の溜息をついた…とほぼ同時に、幸村の口が開く。
「桜の花弁って…凄く綺麗で」
「は、はい…?」
「…それが風で飛んで、離れていこうとしていたら、無性に追い掛けたくならない?」
一瞬、どきりとした桜乃だったが、話を聞いてほっとする。
「そう、ですね…追いかけて、捕まえたくなりますね」
良かった、桜の話に戻って、私が指を離した事にも気付いていないみたい。
(そうよね、よく考えたらその程度の事に気を向けている訳でもないんだし…)
なのに、あんなに緊張しちゃってたなんて…と自嘲した桜乃の耳に、相手の声が続いた。
「ふぅん…その気持ち、分かるんだ」
「ええ…それは…」
言いかけた桜乃に、す、と影が差した。
「?」
月光が遮られ、何かと思って見上げると、隣にいた幸村が身を反転させてこちらへと向き合う形で膝立ちになり、自分を見下ろしている。
丁度、桜の幹と相手に挟まれてしまった形だ。
「え…?」
「その気持ちが分かってて…離したんだ? 指…」
くす…と小さく微笑む幸村の笑顔は、背後の夜桜に負けない程に美しかった。
背筋がぞっとする程に…戦慄を覚える程に……
「無性に…追い掛けたくなるのに?」
「ゆ…幸村、さん…?」
さわ…と頬を撫でてくる相手の優しい指の感触に、ざわりと肌が粟立った。
見下ろしてくる若者の表情は、微笑んだまま。
圧倒され、動けないでいる桜乃の頬を優しく捕え、男はゆっくりと顔を彼女のそれに寄せて、悪戯っぽく囁いた。
「本当に、いけない子だね…君は」
そんなつれないコトをされたら…正気でいられなくなっちゃうじゃないか…
只でさえ、ここは…魔性が潜む木の下なんだから…
「ゆ、きむらさ…」
「ダメ」
小さく断り、幸村は桜乃の唇を優しく奪った。
断るのもダメ、躊躇うのもダメ、誤魔化すのもダメ……
今はただ…君のキスが欲しい…
この桜の様に…いや、それ以上に俺の心を捕らえて放してくれない君に触れたい。
ずっと、隠していたのに…来る道の途中でも隠していたのに…
嗚呼、結局、桜の魔力には敵わなかったんだね、俺は……
「…好きだよ、桜乃」
「ふ…っ」
唇を離された後も、朦朧として自分に必死に縋りついて来る愛しい少女に、幸村は繰り返し、頬や額に優しくキスを落とす。
「大好きなんだ……だから、離れないで」
あの散ってゆく花弁たちの様に…俺の手から離れていこうとしないで…
「俺も、離さない…」
君が望む限り、俺も君の傍にいるよ…ずっと…
「…ゆ、き……せいいち、さん…」
言い直し、初めて名を呼んでくれた少女に、幸村は微笑みながら頷いた。
「君は…俺だけの為に、咲いていてくれるよね」
この綺麗な桜は俺だけのもの。
傍で愛でられるのは自分だけ。
その男の願いに応える様に、桜乃は自分の手に触れていた相手の手を、今度は自分から取って指を絡めた。
可憐な花弁が、風に乗って己から飛び込んでくるように。
「…桜乃」
愛おし気に名を呼び、幸村は桜乃を思い切り抱き締めた。
若い恋人達の愛の誓いは、ただ、その場に佇む一本の桜と、天を照らす月のみが見ていた…
了
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