神の子が愛でし者
立海大附属中学校…
今年、無事に同校の三年生に進級を果たした真田弦一郎は、いつもと同じ様に早朝から所属している男子テニス部の朝練に参加するべく、部室を訪れていた。
「お早う」
挨拶をしながら中に一歩踏み入ると、先に来ていた親友の姿が見えた。
「ああ、精市、早い…」
『な』という言葉を、思わず呑み込み、真田はじっと相手を凝視した。
「…せ、精市…?」
そこに立っていたのは、紛れも無く自分の親友であり、テニスに関しては切磋琢磨しあう好敵手でもある、テニス部部長の幸村精市だった。
しかし今、目の前にいる彼はいつもの柔和で穏やかな雰囲気とは程遠く、何処か神経を張り詰めさせながらも、げっそりと激しく体力を消耗させている様子がありありと見てとれた。
「…え?」
二度呼びかけられて、ようやく真田の存在に気がついたらしい相手が、ゆっくりとこちらへと振り向く。
その姿はまるで、三日三晩徹夜状態の苦学生。
勿論、この春に進級を果たした身の上の彼らに、そこまで切羽詰った状況がある筈が無い。
「ど、どうした? お前らしくもない…気分でも…」
普段なら『たるんどる!』と一喝するべきところなのだろうが、そんな言葉が最も似合わない相手だけに、困惑ばかりが先に立つ。
真田に遠慮がちに尋ねられた若者は、しかし相手のそんな態度に気付いて苦笑しながら首を横に振った。
「嫌だな、何でもないよ……じゃあ、俺、先に行くから」
「あ、ああ…」
何でもないなら、そのよれよれでふらふらな歩き方は何なんだ…?
(…聞いていいものかどうか憚られるな…)
むう、と小さく唸りながら、真田は一時、着替えも忘れて顎に手をやり考え込んだ。
あいつがあそこまで憔悴するとは、一体何があったのだろうか…
親友としても副部長という立場からも気に掛けるべきだろうが、下手にしつこく追求しても相手にとっては負担になってしまうだろう。
(…仕方ない、部活中でもああいう状態なら、改めて尋ねるとしようか…)
取り敢えずそう自分の中で決着をつけると、真田はようやく着替えに移り、そのままコートへと向かっていった。
二人がコートに向かってから間もなく、他のレギュラーや非レギュラー達も続々とコートに集まり、いよいよ本格的に朝練が開始されたのだが、意外と言うべきかやはりと言うべきか、そこに於いての幸村は、普段と全く変わらない姿だった。
「そこの二年、ちょっとこっちに」
部員達の素振りを見ていた彼が、その内の一人を呼びつける。
「君、さっきからフォームがおかしい…右足首、傷めているね?」
「あ…は、はい、実は出掛けにちょっと挫いて…」
「下手に力を掛けたら悪化するから、今日は練習には出たら駄目だ。気持ちは分かるけど一度専門医に診てもらった方がいい。柳に午後の部活は休むって報告して、放課後に受診しておいで」
「す、すみません。分かりました」
軽く見ただけで相手の不具合を看破し、的確な指示を与える姿は正にカリスマである。
「相変わらずすげーよな、幸村は」
「まぁ、柳でも出来る事だろうけど…逆に言うとあいつと同レベルの観察眼を持っているってことだからなぁ」
しかもそれに加えてあの誰の追随も許さないテニスの技術…
凄い凄いと素直に賞賛しているジャッカルや丸井には、真田も同感だった。
(ふむ…流石にコートに出ると見違える様だな…先程の俺の心配は杞憂だったか…)
一度はそう思い、あれはやはり一時の疲れか気の緩みによるものだったのだろうと安心した副部長だったが…残念ながら、朝練が終了して再び部室内へと皆が戻った時、彼の心配は再び鎌首をもたげる事になる。
しかも今度は彼だけではない…他のレギュラー達もその現場を見てしまったのだった。
「……はぁ」
『……………』
本人は軽い溜息を一つついただけの認識なのかもしれないが、閉じたロッカーを前に、まるで幽霊の様に妖気を漂わせて佇む姿は、到底『神の子』という異名を持つ若者とは思えない。
(ど、どーしたんッスか、副部長! 部長がゾンビっすよ!)
(殆どお通夜の空気じゃぞ、ありゃあ…)
どうしたどうした…と皆がこそこそと囁き合う中で唯一冷静沈着だったのは、立海が誇る歩く生き字引、柳だった。
「…精市が自分の体調に関わりなく、あそこまで無防備且つ衰弱した姿を見せる原因として考えられるのは…ふむ、ほぼ間違いないだろう…」
自分で納得した様に頷き、彼は全員が注目する中ですたすたと相手に近づくと、幸村に呼びかけた。
「精市、妹御に何かあったか?」
「え…」
呼びかけられた幸村が相手に振り向き、そしてそれを聞いた真田は自分が大いなる事実を失念していた事を思い知った。
(そうだった―――――――――っ!!)
心中で真田が叫んでいる間に、幸村は柳の質問にあっさりと首を縦に振った。
「うん、そうなんだ…ちょっと風邪を引いたみたいでね、今日は学校を休むことになったんだよ」
「そうか、大変だな」
淡々と相手を労っている柳とは裏腹に、背後で聞き耳を立てていた他のメンバー達は一様に驚いていた。
(ちょ…妹さんって!?)
(あー、確かにおると耳にはしとったが…)
(しかし風邪程度なら、無理せず家で安静にしているのであれば、そんなに心配は要らないのでは…?)
切原や仁王達がそんな事を話していると、何処か諦めの境地に達した表情の真田が話に割り入ってきた。
『…精市には桜乃という二歳下の妹がいてな。あいつの妹に対する気遣いは、少々度を越したところがあるのだ…』
「へぇー」
そうなんだ、と単純に丸井が納得して頷いている脇で、幸村は更に柳との会話を進めている。
「元々食も細いから身体が弱くて……あ、ちょっと携帯いい?」
「ああ」
柳に断りを入れた幸村は、その場で携帯を弄ると、そのまま機体を耳元に当てた。
どうやら何処かに電話を掛けたらしい。
程なく向こうと繋がったらしく、彼はすぐに喋り始めた。
「あ、お母さん? 精市だけど…桜乃はちゃんと寝てる?…そう、食事は食べた?…うん、うん……」
(すっげぇ過保護っぷりだ――――――っ!!!)
どわっと汗が吹き出したメンバー達が部長の背中を見つめている一方で、柳と真田は何処か淡々としている。
やはり長い付き合いであるだけ、幸村のこういう一面はこの二人は熟知していたらしい。
『…そう言えば、暫くこういう事が無かったからすっかり忘れていたな』
『気にするな、弦一郎…妹御が元気になればまた元の彼に戻るだろう…』
そうしている内に通話を終えた幸村が携帯を仕舞いこみながらこちらを振り返る。
明らかに懸念を表した表情は、見えないからこそ病の床にある妹の事を案じているのだろうと今は想像出来る。
「だ、大丈夫ッスか? 部長」
「うん、大丈夫、俺がしっかりしないとね」
薄く微笑みながら、彼は部室のドアを開け、最初に外に出た。
勿論、朝練が終わったら、後は学生の本来の目的である授業を受ける為に各自の教室に向かうのだ。
「で、妹君の様子は?」
全員が揃って歩き出す中で、そう真田から問われた幸村は己の懸念を吐露した。
「お粥は少しだけ食べたみたいなんだけど、熱がなかなか下がらないらしくて……俺みたいに鍛えている身体じゃないから正直心配だよ………」
力なくふらふらふら…と歩いていた幸村は、語りながら校舎の方ではなく、正門の方へと無意識に足を向けていた。
しっかりしないと、と言いながら、明らかに意識はしっかりしていない。
おそらく自覚しないまま家へと戻るつもりなのだろう…妹が心配で。
「精市! 精市――――――――っ!!」
「違うッス!! そっち逆ッスよーっ!!」
あわわわわっ!!と真田と切原がぶんぶんと手を振って相手を引きとめているのを、他のメンバーはげんなりして見つめていた。
「…神の子に意外な弱点が…」
「度を越すにしても、限度ってもんがあるだろい」
ジャッカル達が呟く向こうでは、何とか襟首を掴んで引き止めた幸村を、ずるずると苦労症の副部長が引きずっていた…
授業中…
「では幸村君、この問題を前に出て解いてみなさい」
(…前の数式をX、後の数式をYと置き換えて……よってaとbは…)
数学の授業で当てられた幸村は、がたんと席を立つ間に黒板に板書されていた問題のおおよその解法を頭の中で組み立てていた。
黒板の前に歩いていくまでにはその答えも導き出し、彼はすらすらすらっとチョークで一通りの解法の式とその答えを書くと、教師の方へと向き直る。
「…これで宜しいでしょうか、先生」
「はい、結構。文句なしのパーフェクトな解法です」
おおっと教室に感嘆のどよめきが走る。
『凄い、あの難関学校の問題を…』
『スポーツも万能で頭もこれだけ良いなんて、憧れない訳ないわよね』
『見て、あの憂い顔…何を考えてるのかしら』
幸村は女性にも特に人気があり、授業中の今もまた彼女たちの視線を一身に受けていたが、本人は全くそれに気付くことなく、ぼうっと窓の外を見つめていた。
「………」
普段のクラスは違えど、今受けている特Aクラスの講義を共に受けていた柳が、微妙な面持ちでそんな相手を見ている。
おそらく、ここにいる他のテニス部の仲間達も同じ表情を浮かべているだろう。
(あれはおそらく……妹御を心配しているのだろうな)
大当たり。
正に今、幸村の脳裏には数学の公式ではなく、家で寝ている妹の姿が浮かんでいた。
(桜乃、大丈夫かな…昨日からかなり調子悪そうだったから…)
自分の二歳年下になる妹の桜乃は、小さい頃から面倒見のいい幸村に可愛がられて育ってきたが、彼と同等に丈夫という訳にはいかなかったらしい。
産まれてきた時にも問題があった訳ではなく、別に何らかの病を抱えている訳ではない。
ただ同年の子供達よりやや虚弱であり、環境の変化などでも簡単に熱を出して寝込んでしまう様な子だった。
小さい時には自我の確立と共に反抗期なども迎えるものだが、自分の身体が弱く無理が出来ない事を幼心に学んでいたらしい妹は、親や兄の自分にも我侭も言わず、静かに部屋で絵本を読んで一日を過ごすような、大人しい子に育った。
外に出る機会が少ない分、読書をする事が多かった妹に、一つ一つ文字や漢字を教えてやったのも今は良い思い出である。
当然、親よりも家にいる事が多かった幸村は、小さい頃から殆ど付きっ切りで桜乃の面倒を見てやっていた。
スポーツが好きでいつの間にかテニスに夢中になり、瞬く間にその才能を開花させた少年も、家に戻ればラケットではなく妹の傍にいる優しい兄だった。
『せいいちお兄ちゃん、これ、ほんものもこんなにきれいなお花なのかなぁ、見てみたいねぇ』
『ん?』
或る日、お気に入りの植物図鑑で示された花の絵を見た幸村は、次の日に早速花屋でその花を買い求めようとしたものの、そこにはまだ蕾の状態の苗しかなかった。
仕方なくお小遣いをはたいてそれを購入し、家に持ち帰った彼は、まだおぼつかない手つきで植木鉢にそれを植え替えて桜乃に見せた。
『もうすぐ咲くからね、桜乃』
『ほんと!?』
それから花が咲くまで、幸村はテニスよりも大きな緊張感をもって妹と苗の世話をし、無事に彼女に本物の花を見せることに成功したのだ。
それで終わる筈が、この経験が切っ掛けで幸村はガーデニングの楽しさに触れ、以降テニス同様にこちらにも夢中になったのである。
人生、何が切っ掛けで変わるか分からない。
『三つ子の魂百まで』と言うが、二人ともその性格は確かに今も変わらない。
小さい頃から可愛がってもらった為、桜乃は幸村を兄として非常に慕っており、幸村もまた懐いてくれる妹の彼女をとても大事にしている。
中学生ともなれば、肉親であろうとその距離は多少は離れるものだが、この二人に限って言えば、そういう兆しは一向に見受けられなかった。
(…帰りに何か買っていってあげようかな…熱があるならシャーベットとかいいかも…)
まだ食欲あるか分からないけど、少しでも口にした方がいいし、冷たくて甘いものなら喜んで食べてくれるかもしれないし…と、幸村は妹の見舞いの品の選別に余念がない。
授業中に考える内容としては聊か不謹慎ではあるものの、その憂い顔からだけでは、普通の人間は思考を見抜く事は不可能であった。
そして、仮に惚けているのかと疑ったところで…
「幸村君、問七の問題の答えは」
「はい、aは2、bは2/3です」
「む…結構」
悉く返り討ちに遭ってしまうので、指摘も出来ないのであった。
『なんか、やけに幸村当てられてないか?』
『何かやったのかな…?』
よく分かっていないらしい他の生徒達の囁きを耳にしながら、柳は冷静に分析を行って、教師には勝算がないと踏んでいた。
(…そもそも場数が違う…精市が何を考えているのかは容易に想像は出来るが、それを向こうが暴くのはほぼ不可能だな)
そんな親友の分析の一方で、結局幸村は授業の最後まで窓の外を眺めてぼうっとしていた…
全ての授業を似たような態度で過ごした幸村は、午後の部活動にはしっかりと参加していた。
兄妹二人だけの家庭ならば、妹の世話もあるので、という理由が効くだろうが、ちゃんと他の家族が彼女を看てくれているのなら、それは通じないのが道理である。
また、幸村もそれと部活動に関しては別だという自覚はしっかりと持っていた。
「じゃあ、次の練習に移ろう。もう分かっているとは思うけど、自分の所属する組が分からなかったらあそこに掲示している紙で確認してくれ」
『はいっ!!』
迅速に指揮を取る部長の様子に、丸井達が半ば信じられないといった目を向けた。
「…あれがさっきまで部室で瀕死の状態だったヤツと同一人物だなんて、誰も分からないだろうな〜」
「ま、けじめつけてくれてるのは有難いが…あれだけ落差があると逆に気になるな」
ジャッカルが答えているその向こうでは、同じ様に詐欺師と紳士の二人がやはり不安げに幸村の方を眺めていた。
「…神経の糸が切れんとええんじゃがのう」
「妹君の早目の回復を願うしかありませんね…」
そんな彼らの心配を他所に、幸村はその日も普段と全く遜色なく部長としての役をこなし、部活動そのものも特に問題なく終了した。
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