『有難うございましたっ!!』
 終了を告げる部員達の掛け声がコートに響き、全員が解散…したところで、何気なく切原が部室に向かおうとしていた幸村を呼び止めた。
「あ、すんません部長、ちょっと聞きたい事が…」
「…」
 呼ばれた幸村が相手に振り向いた…瞬間、
「いいい…っ!!」
 びくうっと切原の身体が戦慄いたと同時に彼の顔色が真っ青になり、どっと脂汗が吹き出してくるのが目に見えた。
 残念(?)なことに、他のメンバーからは切原に相対している幸村の背中しか見えず、相手がどんな表情であるかを見る事は出来ない。
 勿論、興味半分でそれを覗こうとする雰囲気でないのは明らかだ。
「…なに?」
 問い掛ける幸村の声が、いつもと同じでありながら異常に恐ろしく感じられてしまう。
 その恐怖を一番感じているであろう切原は、自分が呼びかけたにも関わらず、ぶんぶんと首を横に振って断った。
「い、い、いいですっ、代わりに副部長に訊くんで!! 呼び止めてすんませんっ!!」
「…そうしてくれる?」
 あっさりとした答えで見事に止めを刺してから、幸村はすたすたすたと急ぎ足で部室に向かっていった。

(ど、どんな顔だったんだろう…)

 他のメンバーがそんな共通の疑問を持ったが、今の腰を抜かさんばかりの状態の後輩に聞くのは酷というものだろう。
「…災難だったな、赤也」
 ぽん、と柳が相手の肩に手を置いたところでようやく相手の金縛りが解けたらしく、切原はへちゃ…とその場に座り込んだ。
「ぶっ…部長が、人間じゃなかったッス!」
「気にするな、俺達も通ってきた道だ」
 参謀と副部長が揃ってこの二年生エースを労う光景は珍しい…が、さっきの真田の発言が真実ならば…

(あの二人も、幸村大魔神のご尊顔を拝見したってコトか…)

 見たいような見たくないような…と皆が思っている合間に、部室からはもう着替えを済ませた部長がすったかたったったー!と一路家に向かって急いでいる姿があった……



「ただいま!」
 ばたんといつもより大きな音をたてて玄関のドアを開き、幸村は家へと駆け込んでいた。
 当然、すぐに妹の部屋を見舞う予定だった彼だが、先ずはキッチンに向かい、冷凍庫に買ってきたシャーベット達を仕舞いこむ。
「あら、精市、何?」
「シャーベット、お母さん達の分もあるから後で食べてよ」
「まぁ、有難う」
 キッチンで夕食の準備をしている母親と話し、これは夕食の時にでも桜乃にあげようと考えつつ、いざ相手の許に向かおうとしたところで…
「…わっ」
 リビングに戻って驚いた。
 桜乃の部屋に向かうにはここを通らなければいけないのだが、キッチンからそこに向かってみると、既に桜乃本人が来ていたのだ。
 先程まで部屋で寝ていたのだろう少女は、ソファーに座った格好で見慣れたパジャマを纏い、髪はいつもの二つ編みではなくゆったりとした一つ編みでまとめられている。
 今もまだ熱は続いているのか、若干顔が赤い感じが見受けられた。
「桜乃、どうしたんだ、部屋で寝てなきゃ!」
「お帰りなさい、精市お兄ちゃん!」
 注意をした兄に妹は笑っていつもの様に相手の帰宅を迎えたのだが、やはり普段よりも表情に力がない。
 無理をしているのだろう事を察して、幸村は少女の額に手をやり、優しく触れてやりながら答えた。
「ただいま…ちゃんと横になって早く治さないと駄目だよ、桜乃」
「だって退屈なんだもん…ずーっと部屋で一人っきりだと寂しいし…」
「相変わらず甘えん坊だね」
 しょうがないなと苦笑しながら、彼は掌に伝わってくる相手の熱から、朝と比較するとやや改善している事を察して一安心する。
「うん、ちょっとは下がったかな…でもまだ顔が赤い。夕食までもう少し部屋で横になってなよ桜乃、出来たら届けるから」
「ええ〜?…ここにいちゃダメ?」
 えへ、と上目遣いでおねだり攻撃を仕掛けたものの、流石に敵もさるもので。
「ダメ」
 幸村は即答で相手の要求を撥ねつけた。
 可愛かったが、それとこれとは全くの別物。
「うう、お兄ちゃんの意地悪〜…」
「ふーん…桜乃がそういう悪い子なら」
 拗ねる妹に、幸村は少しだけ意地悪な笑顔を浮かべて答えた。
「仕方ないね…桜乃には買ってきたシャーベットは無し、と…」
「寝ます寝ます今すぐ寝ます〜〜〜っ!!」
 ぱたた〜っと大慌てで自分の部屋に戻っていく桜乃をくすくすと笑いながら見送り、幸村はデザートを買ってきたのは正解だったな、と思った。
 まぁ、こういうコトもあるかと思っていたが…予感的中。
 そして自分も一度部屋に戻って私服に着替えると、鞄から教科書とノートを取り出して机の前に座り、早速勉強を開始した。
 いつもは一息つく時間だが、今日は臨時スケジュールで動くコトにしているらしい。
「ええと…よし」
 今日の分の宿題の内容を確認したら、後はひたすらに鉛筆を動かすのみ。
 こういう時の集中力の維持にも、テニスは一役買っているのかもしれない。
 三年生ともなるといよいよ高校受験が間近に迫っている事を実感するものだが、幸村の予定ではそのまま立海の高校に進むつもりなので、ある程度の学力があれば問題ない。
 そして今の時点での彼の学力は、逆立ちしても落ちる事は難しいだろうというレベルを維持していた。
 当然、課された宿題を解く程度など、彼にとっては容易いことである。
「…………」
 ひたすらに無言を守り、ノートの上で鉛筆を走らせながら、幸村は勉強に集中する。
 ばりばりばりばり…
 そんな効果音が聞こえてきそうな程に熱心に勉強に取り組んでいる内に、時計の針も確実に進んでいった。
 そして…
『ごはんよー、精市』
 リビングの方から母親の声が掛かったのとほぼ同時に、彼もまた、全ての宿題をやり終えてしまっていた。


「ごちそうさまでした」
「ああ、全部食べたね、偉い偉い」
 自分の夕食を手早く済ませた後は、桜乃の分の特別食を盆に乗せて、幸村が彼女の部屋まで直接デリバリーザービス。
 学校に行っている間は出来なかった看病をとことんまでやってやる、というかの様な徹底振りである。
 夕食前に宿題を済ませていたのも、実は堂々と桜乃を看病する為だったのだ。
 小さい頃から親に対しても『桜乃の面倒は僕が見るから、お父さん達は安心してね』と豪語していた若者であり、その約束はこれまで破られた例がない。
「じゃあはい、ご褒美のデザート」
「わぁい! 有難うお兄ちゃん!」
 お預けにしていたシャーベットのカップをスプーンと一緒に手渡し、幸村は再びベッド脇の椅子に腰掛けた。
「顔色も随分と良くなったし、この調子なら明日は大丈夫かな」
「うん」
 はむ、と早速スプーンで掬ったシャーベットを食べながら、桜乃は兄の問い掛けに前向きな返事を返す。
「ごめんねー、お兄ちゃん。私がこんなに身体が弱いから、いつも心配掛けちゃって…」
「何言ってるんだ、桜乃の所為じゃないよ…そんな事気にしないでいいから」
「うん、有難う…はぁ、明日は登校出来るようにならないと」
「ふふ…」
「……でも、ちょっとだけ安心してもいるの、だって…」
「ん?」
「休んだら、お兄ちゃん宛のラブレターの手渡し、引き受けなくても済むもん」
 妹の言葉に、幸村が申し訳なさそうにかくりと首を項垂れた。
「本当にゴメン…まだ頼む人いるの?」
「うん」
 桜乃が入学し、何処かから彼女が自分の実の妹だという事実が校内に知れ渡ってからというもの、この娘は毎日何人かの女生徒達から、自分宛のラブレターを託されるようになってしまったのである。
 素直で人の頼みを断れない性格であった為『嫌』とも言えず、彼女は日々兄に手紙を配達していたのだった。
 勿論、それを兄が快く思う筈もなく、『妹に託したら、その時点で無効にするからね』ときつめのお達しまで出してもいたのだが…まだ周知徹底には至っていないらしい。
「お兄ちゃんがモテると妹は大変なのです」
「うーん…反省しようにも何をどう反省したらいいのか…」
 困ったね…と本気で首を傾げていると、桜乃がくすくす笑いながら兄を慰めた。
「しょうがないよ、お兄ちゃん格好いいもん…あ、そう言えば、お兄ちゃんのお友達も格好いい人達が揃ってるよね?」
「え?」
 聞き返した兄に、桜乃が彼らの事を思い出してにこーっと嬉しそうに笑いながら主張を繰り返す。
「テニス部レギュラーの人達! 皆さんすっごく格好良くて、ファンクラブも一杯あるんだよ? あんなにストイックに練習に打ち込んで、しかもイケメンばかりなんて…」
 そして頬に手を当てて、ほう、と溜息を一つ。
「ああ…もう少し勇気があったら、私も見学している人達に混ざって応援するんだけどなぁ」
「ダメだよ。踏み潰されるから」
 ぴしっと禁止しながらも、何となく幸村の態度が落ち着かないものになってくる。
 まさか…ウチのレギュラーの誰かが気になったりしていないだろうな…彼らに桜乃を紹介したことはないんだけど…
 そう思っている傍から、桜乃が更に意外な情報を次々と暴露してゆく。
「真田先輩でしょ、柳先輩でしょ、それから仁王先輩に柳生先輩、桑原先輩、丸井先輩…それと二年生の切原先輩…」
「もうそこまで知ってるの!?」
 この間入学したばかりなのに!と驚く兄に、妹はちっちっち、と人差し指を軽く振った。
「女子の情報網を甘くみたらダメです。お兄ちゃん達、本当に凄い人気なんだから」
(そんなの要らない…っ!)
 自分の知らない世界に幸村が拒否反応を示していると、桜乃が更に暴走発言。
「お兄ちゃんみたいに格好良くて優しい人達なら、一度お会いしたいなぁ…ねぇねぇ、会わせて?」
「ダメ」
 今度こそ、間髪入れずに幸村が即答…何となく目つきが怖くなっている。
「会っても大したことないから」
「お兄ちゃん、それって結構ヒドイ発言…」
 仮にも自分の親友に…と桜乃が突っ込んだ。
 無論、大したことないというのは方便である。
 彼らはテニス云々を超えて、自分にとって大切な仲間達だ…が、だからと言って、可愛い妹と引き合わせるという訳にはいかない。
 兄の自分が言うのも何だが、桜乃は見た目は地味だが気立ては非常に良いのだ。
 それに長年の付き合いである彼らの人となりももう凡そ理解している。
 そんな自分の見立てだと、間違いなく彼女と彼らを引き合わせたら…
(…好意を寄せるに決まってるじゃないか…桜乃に!)
 あの七人が一気に自分の妹に好意を寄せたら、後々でとんでもない騒動が起こりそうな気がする…と言うか、起こる!
 それにいつかは手放さないといけないと分かってはいても、まだもう少し自分が彼女の一番近くにいたいというのも事実だし…兄心としては断固阻止!
「桜乃にはお兄ちゃんがいるから、そういうのはまだいいよ」
「えー?」
「そうだな…もし俺に勝てるヤツがいたら、紹介してもいいけど」
 ふふふ、と何処か不安を呼び起こすような笑みを浮かべる兄に、桜乃がおずおずと尋ねてみた。
「…今まで勝てた人は?」
「いないね」
「やっぱりー!」
 じゃあずーっと無理じゃない!とごねる妹に、聞く耳持たないとばかりに幸村はつーんと無視を決め込むと、ぽんぽんと相手の頭を軽く叩いた。
「いいから…食べたらもう寝る。明日は学校に行くんだろう?」
「うう〜」
 まだ少し不満気味の相手を優しく寝かしつけると、幸村は食べ終えた食器を持って部屋を出て行った。
「…ふぅ」
 廊下に出て溜息をつき、彼の足が一時止まる。
(…彼らも桜乃も、俺は大好きなんだよね…)
 そして、誰にも知られずに、彼は魔性の笑みを浮かべていた。
「…憎ませないでね…みんな」

 それと同時刻、他七名のレギュラー達が各々の家でぶるりと激しく身体を震わせた事実は、誰にも知られることはなかった……






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