お弁当には愛情一杯危険も一杯
「おお…」
その日の夕方、桜乃は何気なく立ち寄った書店で、ある一冊の本を開いて感動の声を漏らしていた。
時は夕方、自分の立つ周囲には他の客の姿は無い。
彼女が立っている場所の書架は、趣味・生活一般、というジャンルに区分けされた本が並んでおり、どうやら桜乃が手にしているのは、料理についてのものらしい。
普段から家事については料理も含めてかなりの腕前である少女だが、そんな彼女をしてもその本の中身は非常に魅力的、且つ興味をそそるものであったらしく、珍しく彼女は長い時間を費やして、その内容について吟味を重ねていた。
「へぇ…こういう盛り付け方もあるんだぁ…目からウロコ」
ふむふむ…と食い入る様に中身を読んでいる少女は、今は周囲の事には一切気が回っていない様子。
元々集中力はそれなりにある子なのだが、自分が好きな分野のものになれば、大体の人間がそうである様に、より一層身が入るというものだ。
ともすれば、この本の中身一冊丸々暗記して帰るつもりなのでは…?と疑う程だった少女の姿だったが、やがて彼女ははた、と顔を上げて現在の時刻を確認した。
「…いけない、もう帰らなきゃ…でもこれ面白いなぁ、試してみたいのが沢山載ってる」
どうしよう…と暫く悩んでいた桜乃は、熟考の末に、遂にレジに並んでその本を買い取ることに決めた。
常日頃から節約を心掛けている娘だったが、今回は衝動買いをしてでもその本が欲しくなったらしい。
(うーん…いいよね。そんなに高価なものじゃないし、ちゃんと読んだらいつかその分実践も出来るし、それまでに腕を磨いておかないといけないもん…)
少々不思議な台詞を心の中で呟きながら、桜乃はレジにその本を提出し、代金を払い、包装されたそれをほくほく顔で抱えて家へと帰って行った。
同日夜…
桜乃が、お茶を飲もうと久し振りに自室から出てリビングの扉を開くと、先に見えたソファーに兄である幸村精市の姿があった。
「あれ? お兄ちゃん」
「桜乃? まだ寝てなかったのかい?」
兄は、その時丁度くつろぎながらテレビを見ていた様子で、もたれていた身体を起こしながら桜乃と向き合う。
幸村は、桜乃と同じ立海附属中学に通う三年生で、男子テニス部では部長という大任をこなしているかなりの美男子である。
姿形だけではなく、性格も温和で優しく、勉強もスポーツも難なくこなす優良児であることから、当然女性ファンも非常に多い。
所謂、学校内の超人気アイドルと言ってもいいだろう。
しかしテニス部に於いては、優しいばかりではなく、非常に厳しい一面も見せるという噂だったが、妹の桜乃はそんな彼の姿を見た事はこれまで一度もなかった。
「うん、ちょっと本を読んでたら喉が渇いちゃって…」
軽く喉元に手をやるジェスチャーをしながら、桜乃はリビングに入りつつテレビの画面を見た。
緑色が眩しいコートに佇む二人のプレーヤー、周囲には数多くの、西洋人と思しき人間が殆どの観客が見えた。
どうやら、何処か異国で行われているテニスの試合の実況中継の様だ。
根っからテニスが好きな兄らしい番組選択である…と言うよりも、これを見たいが為に今も起きているのだろう。
「もう遅いよ、休まないと身体に悪い」
「お兄ちゃんも、それって結構遅くまでやってるんじゃない? 録画しておけばいいのに」
妹を気遣う兄は、彼女から軽く返されて苦笑いを浮かべた。
「うーん…こういうのはリアルタイムで見たいんだよね、やっぱり」
「あー、オリンピックみたいなもの?」
なるほどなるほど…と納得しながら、桜乃は電気ポットの傍まで歩くと、早速目的のお茶を煎れ始めた。
こういう時には自分の分だけではなく、相手の分も煎れるのが彼女にとっての常識である。
「はい、お兄ちゃんの分」
「有難う」
予想に違わずお茶を煎れてくれた優しい妹に、幸村は礼を述べながらマグカップを受け取った。
小さい頃から甲斐甲斐しく世話をしていることもあり、この少女は兄である幸村に非常によく懐いている。
そして幸村もまた、学校で最もモテる男子でありながら、浮名を流す事など一切ない代わりに自分の実の妹をこよなく可愛がっていた。
幸村家の中で桜乃を一番理解していると言えば、彼女の両親ではなく兄の幸村だろうという程に。
そんな兄の目下の心配事は、最近自分と同じ立海に入学した桜乃に、変な虫がつかないかという事らしい。
あまりに心配して、自分と同じ立海テニス部レギュラーメンバーにすら、入学当初に彼女を紹介しなかったという経緯があるくらいなのだから、その溺愛振りたるや相当なものである。
しかし、流石に彼が部長という立場、且つ桜乃も立派な立海の学生になったということもあって、取り敢えずようやく最近、桜乃はレギュラー達とのお目見えは終えたのだった。
口にこそ出さなかったものの、その時の幸村の背後からの『大事な妹なんだから、変な扱いしたら只じゃおかないからね』という無言の念押し(脅迫)は、全員に通じていただろう。
尤もそういう脅しなどなくても、桜乃は人に故意に不快感を与えるような性格でもなかったので、彼らとの先輩後輩としての交友はすこぶる良好であるらしい。
「随分熱心に読んでいたんだね。何の本?」
「うん、お弁当のレシピとかで凄くいいのがあったから買っちゃって…早く実践したいからつい…」
「そうなんだ…今でも十分に美味しいけどな」
学校が給食制ではないので、立海の生徒達は普段、弁当や購買で昼食を取ることになっているのだが、幸村家の場合は余程の事情がない場合は桜乃が弁当制作の担当となっていた。
家事が好きな桜乃にとってはスキル上達の機会であり、幸村にとっては妹の手作り弁当を毎日食べられる好機。
「ありがとー、でも最近ちょっとマンネリ気味だから、新しいメニューとか見栄えを開拓したいの! 良いお嫁さんになるには、家事もしっかり出来ないと!」
「別にまだまだいいと思うけどね…」
さりげなく牽制をかけながら、幸村がふーんとテレビへと視線を戻す。
いつかは良い伴侶の許に送り出さなければならないのだと分かってはいても、今はまだまだ子供だから自分の保護下に置きたい、という複雑な兄心。
「………」
それからもじっとテレビ画面を見つめる幸村を、桜乃もまたじーっと見つめていたが…徐に何の脈絡もなく切り出した。
「お兄ちゃんって、恋人いないの?」
ぶっ
丁度含んでいたお茶を吹き出しかけた幸村だったが、何とかそれはカップの中に留められた。
「……何? いきなり」
「ん、別に只の興味なんだけど〜…」
訝しさに満ちた兄の視線にもたじろぐ様子もなく、桜乃は少し考え込みながら答えた。
「お兄ちゃんって凄くモテるのに、全然そういう雰囲気ないし…恋人さんからお弁当作ってもらったりしないのかなーって。中身とかちょっと後学の為に見たいと言うか」
「そういう後学はしないように」
やれやれ、という表情を浮かべながら幸村はむにっと相手のほっぺたを摘み上げる。
「それと、実の兄の恋愛事情まで心配しなくて結構だよ…早くお・や・す・み」
「うう〜〜〜〜っ! ほやふみなはい〜〜〜」
言葉を一字ずつ切りながら、それに合わせてぷにぷにぷにと頬を摘まれ、桜乃は早々に自室へと追いやられてしまったのだった…
翌日…
「ちーっす、幸村―!」
「やぁ、ブン太」
その日も幸村は変わりなく通学し、テニス部の朝練に参加してから午前の授業を受け、恙無く平和な昼休みを迎えていた。
授業で使用していた筆記用具や教科書を机の下にしまい込んでいると、教室の中に元気な声を上げながら一人の学生が飛び込んでくる。
燃える様な赤い髪を持ち、きょろっとした大きな瞳が幼げな雰囲気を醸しだしているが、れっきとした同級生だ。
同じくテニス部レギュラーである、丸井ブン太だった。
「どうしたの? 何か忘れ物かい?」
「一緒に昼ご飯食べよっ、他のレギュラーにも声掛けてんだー」
幸村の質問には肯定も否定も返さず、即座に丸井は自分の目的を口にした。
しかし彼は別に幸村の言葉を故意に無視している訳ではなく、これが普段の若者のペースなのだ。
常に明るく前向きな彼も、幸村に負けず劣らず他のレギュラーの仲間達が大好きで、彼らの中でも良いムードメーカーになっている…某メンバーにとってはトラブルメーカーにもなっているらしい。
一年の頃からそれをよく知っている幸村は、それ故に何も気にする事もなく笑った。
「うん、いいよ…何処に集まるの?」
「外の芝生のトコなんかどう? 天気もいいしさ、ピクニックみたいじゃん」
「分かった、行こうか」
特に反対する理由もなかったので、幸村は鞄から青いナプキンに包まれた弁当箱を取り出すと、それを片手に持って友人に同行した。
廊下を歩いて外へと出ると心地良い風が頬を撫で、心を開放的にしてくれる。
立海の敷地内には緑が多くあるが、中でも彼らが向かっている中庭は、他の施設と比較しても一際花々の種類が多く、ガーデニング好きの幸村にとってもお気に入りの場所となっていた。
「マリーゴールドが綺麗に咲いたね…うん、周りの花壇と色合いも合ってて映えてる。ウチでも参考にしようかな」
「食えんの?」
「ふふ、ブン太はそればっかりだね…あまりお勧め出来ないよ、まぁ虫除けにはよく使われる花だけどね。根から出る成分が虫を殺すんだ」
「うっ…それを聞くとちょっとチャレンジ精神が…」
「いや、チャレンジしなくていいから」
見た目は華やかでも裏では辛辣な一面があるなんて、幸村に似てる…とは思ったものの、余計なトラブルは回避するのが一番だと判断した丸井は、それ以上の発言を止めた。
レギュラー陣の中でも子供っぽい印象を持たれる男だが、人生には表と裏があるのだという事ぐらいはもう知っている。
そんな事を話している二人の視界の向こうで、ぶんぶんと元気に手を振って存在をアピールしている人間が見えた。
二年生の中で唯一レギュラーの座にある切原赤也だ。
『部長―っ! 丸井先輩―っ! コッチっすよ〜〜〜〜!!』
「あ、あっちだね」
「おっ、もう全員揃ってんじゃん。さっさと集まって食おうぜい。俺もう腹へってさ!」
「ふふふ」
わーいっと喜び勇みつつ、向こうに集まっていた一団の方へとダッシュしてゆく丸井を微笑みながら見つめ、幸村は慌てることもなくのんびりと後を追う。
そして、丸井が向こうへと到着した十秒後ぐらいに幸村も同じく彼らと合流した。
「やぁみんな、お呼ばれしたよ」
「精市か…これで全員揃ったな」
ぐるりと首を巡らせて、レギュラー八人が揃ったことを副部長である真田弦一郎が確認すると、その彼に肯定の頷きを返しながら柳蓮二が答えた。
「そうだな」
「俺達が最後だったんだ? 待たせてすまない」
謝る幸村に、銀髪の詐欺師、仁王雅治がひらっと手を軽く振って笑う。
「気にせんでもええぜよ。幸村、前の授業は英語だったんじゃろ? あの先生、結構授業が長引くんで有名じゃからの」
「昼休みも始まったばかりですし、お気になさらず」
傍の相棒である柳生比呂士もさり気なくフォローし、幸村に座るように手を出して促す。
それに応じて幸村が腰を落としている間、褐色の肌を持つジャッカル桑原が、全員を軽く見渡しながらそれにしても、と言葉を漏らした。
「何か、俺達って他の部活の奴らと比べて、昼に集まることが多いよなぁ…まぁ今更な話だが」
「そんだけ仲がいいってコトじゃないスか?」
切原がそう振ると、腰を落として落ち着いた幸村が、笑いながら指摘した。
「そりゃあ、ウチには食いしんぼうがいるからね…仲間同士なら、おかずを狙うにしても遠慮は要らないだろうし」
「はっはっは、やだなぁ幸村、俺だって一応遠慮ってもんはあるんだぜい」
「思い切り語るに落ちてるぞ、丸井」
もう少し発言に頭を使え、と柳が突っ込んでいる向こうでは、茶化すでもなく仁王がふむ、と頷いていた。
「まぁ確かにのう…俺達の弁当は量もそうじゃが、質も全員なかなかのもんじゃからの」
「質に関わりなく、作ってもらえるだけでも感謝の気持ちは忘れるべきではないな」
うむ、と真田が彼らしい感想を述べていると、切原がひょっと視線を幸村の方へと向けた。
「でもやっぱ、一番見栄えがいいのは部長のじゃないッスか? アートに例えたら感性が若いっつーか」
「まぁ俺より年下が作ってるからね」
「桜乃さん、ですね。最初はお母様がお作りになっているとばかり思っていましたが」
「うん」
柳生に答えながら、幸村が自分の弁当を前に置いて、ナプキンを外す。
普段と変わらない、彼専用の弁当箱がそこにあった。
箱が変わらない限り外見が変わることもありえない話だが、中身になると当然話は異なり、多少なりともそのメニューは日々変わるものである。
それでも一般家庭ではメニューも無尽蔵にある訳ではないので、幾つかの品を上手くローテーションしたり、時には市販の既製品を使ったりでまかなう事が多々あるのだが、幸村の弁当に限っては多少違った。
確かに一つ一つは高級店などで食べるようなものではないのだが、作り手がメニューとして挙げられる品数が多い分彩があって見栄えも良く、それだけに食欲を大いにそそるのだ。
しかも味付けは完全に幸村の好みを抑えており、正に至れり尽くせりの一品である。
その作り手こそが、前述した通り彼の妹でもある桜乃だった。
小さい頃に病弱だったという過去もあり、彼女は兄の幸村とは異なり外で遊ぶ事は少なく、普段から家で大人しく本を読んでいる様な子だった。
そんな彼女は当然、家で家事をこなす母親の背中を見て育ち、何の疑問もなく彼女を手伝う習慣を身につけたのだ。
勿論それをやると家族全員から褒められることになり、それが更に桜乃のやる気へと繋がった。
そして、或る日の決定打。
母親の監督、指導の許で簡単なお菓子作りをこなし、それを食べたところで彼女の人生観が一気に変わった。
『こんなにおいしいものがじぶんでつくれるなんて!!』
それまではお菓子というと店で売っている既製品でしか知らなかった少女には、自身の手で美味しい食べ物を作り出せるという現実は、非常に魅力的に感じられたのだ。
しかも、必要な道具は殆どキッチンに揃っているし、スポーツの様に過度な体力は要らないし、珍しい物を選ばなければ食材もそれ程に探すのには困らない。
それからの桜乃の愛読書には、世界の童話全集に基本のお菓子レシピが加わった。
流石にプロが撮影しているだけあってそこに写っている品も宝石の様な美しさで、幼い子供の心を鷲づかみにしたのである。
そしてお菓子から惣菜へと、桜乃の興味の世界は徐々に広がりを見せて早十年近く。
好きこそものの上手なれという諺の通り、桜乃は今や母親の腕に迫る程の料理上手となり、彼女が中学入学を果たした時を機会に、母親からお弁当作成の大任を任されるまでに至ったのであった。
勿論、妹の手作り弁当が毎日食べられるという幸運を前にして、幸村がそれを拒否する筈もない。
『大歓迎だよ』の一言で、全ては決まったのだ。
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