頼ってくれる?
「柳先輩、ここのデータはどう解釈したら…」
「どれ……ああ、これは今のお前にはまだ難しい。後で、もう少しまとめたものを渡そう」
「有難うございます」
竜崎桜乃…元青学一年生女子がこの立海に転校してきて一月近くが経過していた。
転校後、優しい先輩達の助けもあり、彼女はさして苦労することもなくこの環境に馴染んでいった。
その優しい先輩達というのは、立海の男子テニス部レギュラーの一同。
彼女がここに転校を決意する切っ掛けにもなった若者達である。
男女の恋…と言うにはまだまだ幼い感情を彼らに抱いていた桜乃が、とある留学話を切っ掛けにその話そのものは蹴り、代わりにこの立海への転校を実現させてしまったのだ。
普段は大人しい少女だが、たまにこういう荒業を繰り出す度胸は祖母譲りなのか。
詳細は不明だが、とにかく彼女は立海へと転校を果たし、それを知ったレギュラー達は例外なく喜んだ。
そして喜びついでに、彼女を男子テニス部のマネージャーへ据えたのだ。
外野からは、それに伴う能力があるのかと疑問視する声も、騒音の様に聞こえていたが、レギュラー達はそれについてはさして心配していなかった。
桜乃が青学にいた時期も常にべったりとくっついている訳ではなかったが、彼らの目は友好の念のみで眩まされるほど節穴ではない。
桜乃は体力的には決して恵まれているとは言えないものの、客観的に物事を見る能力には長けている。
マネージャーには確かにある程度の体力は必要とされるが、選手並に鍛えるまでには及ばないし、これについては時間があれば解決も可能だ。
それよりも寧ろ、彼女が持っている長所を伸ばしつつ、部の活躍に役立てるべきだと考えるのが建設的だというのが全員の一致した意見だった。
そして、彼女が転校して約一ヶ月…
徐々にという形ではあるが、桜乃は確実に前進を果たしていた。
「こういう場合には、一度一人を大きく下げて後方の守りを固める…」
「ふむふむ…」
柳について熱心に指導を受けていたところで、他の部員から声が掛かった。
「マネージャー! 道具の準備はどうしますか!?」
「あ! 今行きますねー。柳先輩、行ってきます」
「ああ」
断りをしっかり入れてから、桜乃は呼ばれたコートへと駆け出していく。
その後姿を柳が眺めているところに、隣にゆっくりと歩み寄った人物がいた。
「どうだい、蓮二。彼女は」
「精市か」
肩に掛けているジャージと柔らかな笑みがトレードマークでもある、テニス部部長の幸村精市。
桜乃が立海に来ると決まった時に、彼女をマネージャーとして引き入れた立役者でもある。
桜乃を入部させた責任もあってか、他の意図も隠れているのか、彼もまた他のレギュラーと同様に…いや、他の誰よりも、彼女の様子については気にかけていた。
「まぁ、至極まともな感性の持ち主だ。それはこれまでの付き合いの中でとっくに理解はしていたが…時々俺でも気付かない点を指摘してくる事がある。女性ならではの気配りというものだろうか。女性を入れるなど気の緩みの始まりと思っていた時期もあったが、改めない訳にはいかんな」
「へぇ…まぁ、それは個性にも拠るんだろうけどね」
「当然だ」
彼女でなければ今回の決断には至らなかっただろう、というところは同意して、柳は早速向こうで部員達と一緒に活動を行う桜乃を改めて見遣った。
「俺の指導に熱心になってくれるのは有り難いが、来てくれて間もない今は寧ろ、部員達との交流を図るのが何より優先される。皆との結束がなければ、勝利など望むべくも無いからな。俺との会話の中でも部員に呼ばれたら、基本そちらを優先するように言ってある」
「ふぅん」
頷き、参謀の言葉に納得を示した幸村は、遠くで部員達と笑い合う桜乃の姿を何処か眩しそうに見つめて、ちょっと残念そうに苦笑いを浮かべた。
「でも、俺のところにはあまり来てくれないんだよね…恐がられているのかな?」
「まさか」
相手に対し、今度は柳が苦笑いを浮かべる。
「俺と話している時にも、お前の名前はよく口にしているぞ。無論、良い意味でな。余程、選手としても人としても尊敬しているのだろう。俺もそれについては異論ないが」
「何だか面と向かって言われると照れるな」
更に深まる幸村の苦笑だったが、それは勿論、不快な感情によるものではない。
「お前の許に行かないのは、部長であり多忙であるお前を気遣ってのことだろう。事実、部の活動についてはわざわざお前に聞かずとも、俺や他のレギュラーでも回答は可能だからな」
「そうか…まぁ嫌われてないなら良かった」
にこりと微笑み、頷いて納得した様子の部長は、ふと何かを思い出した様に相手に改めて向き直った。
「そうだ、言っておかないといけない事があったんだ。蓮二…」
「ん…?」
それから彼は参謀と何かを話しこんでいたが、それも数分で終わり、柳は頷いて今度は副部長の真田の方へと歩いて行った。
そして幸村本人は、ゆっくりとジャージの裾を揺らしつつ、桜乃のいるコートへと向かってゆく。
「竜崎さん?」
「あ、幸村部長。はい、何でしょう?」
にこやかに返事をする桜乃が彼に向き直っている間にも、その場にいた部員達の緊張感が一斉に高まる。
如何に柔和な笑顔で、物腰が柔らかくても、天下の立海テニス部を統べる男。
「優しいから」という事で部員に舐められる様な部長では話にならない。
例え日常では人に優しく情に篤い男であっても、テニスに関しては研ぎ澄まされた牙を持っている事を、部員達は例外なく身をもって教え込まれている。
彼らの緊張を感じているのかいないのか、幸村本人はさして興味も見せずにマネージャーへと身体を向けて話し出した。
「仕事中にごめんね。手が空いたら少しいいかな、連絡しておきたい事があるんだ」
「? はい」
丁度仕事も一段落しようかというところだったので、桜乃はそれ程相手を待たせる事もなく、二人でコートの脇へと移動した。
「何ですか? 練習内容に何か変更が?」
「いや、練習そのものは問題ないよ。明日の俺の予定についてちょっとね…」
「幸村部長の…」
何だろう?と首を傾げる少女の仕草に、相手は微笑みながら言葉を続けた。
「俺、明日は午後から学校に来る事になるから朝練は参加出来ないんだ。病院に行かないといけなくて…」
「え…」
男の台詞に、聞き返すとほぼ同時に、桜乃の手からばさっとノートが落ちた。
「……!!」
見る見る内に少女の顔が真っ青になり、身体が小刻みに震え出す様を見て、幸村は大慌てで付け足した。
「いや! 再発とかじゃないからっ! ただの定期検査だから心配しないで」
「あ…っ…そ、うですか、良かった〜」
胸に手を当てて心からの安堵の溜息を漏らした少女の前で、幸村はしゃがんで彼女が落としたノートを拾い上げる。
「あ! す、すみませんっ!」
「いいよ、驚かせてごめんね」
ぱんぱんとノートに付着した砂を軽く払って、若者は少女に微笑みながらそれを返し、相手は受け取った後に胸に抱いた。
「いいえ…幸村部長に何事もなければ、それだけで…」
小さな声でそう言ってくれた優しい娘は、幸村が軽く瞳を見開いている間に顔を上げて質問をしてきた。
「あのっ…検査って、そんな大袈裟なものじゃないですよ、ね…?」
「うん、ちょっと血液を採るのと、幾つかの検査。詳細な結果を聞くのは先になるけど、おおまかな事は当日に分かる筈だよ。入院じゃなくて午前中で終わるぐらいだから」
「そうですか…」
更に安堵した様子の桜乃に、幸村は思わず笑ってしまう。
「まぁ大した検査じゃないのは確かだけど…注射が痛いのは変わりないよ?」
「! すすす、すみませんっ!」
「ふふふ…」
恐縮して謝っていると、ふわ、と優しく頭を撫でられ、桜乃は顔を上げる。
そこには気分を害している様子もなく、いつもの様に優しい笑顔のままの男がいた。
「ダメだね…君が優しいから、俺もつい甘えてしまう」
わざと困らせてしまう事を言ってしまうなんて…
「え…?」
それだけで女性を夢中にさせてしまうような声色と台詞だったが、ひそりと小さく呟かれるのみだったので、桜乃も聞き取る事は出来なかった。
「いや、何でもない…ねぇ、竜崎さん」
「はい」
「マネージャーの仕事、まだ覚える事は沢山あると思うけど…良かったら俺にも頼ってほしい。蓮二や他のレギュラーも力になっているとは思うけど、俺だって君の力になりたいと思っているんだから、ね?」
「は、はい…有難うございます!」
にこっと嬉しそうに笑うと、再び指示を仰ぐべく、ノートを抱えてぱたぱたと柳の方へと戻っていく少女を見て、幸村はふうと軽く息をついた。
「…俺の目が節穴じゃないなら…」
君の気持ちは、俺がそうあってほしいと願うものと同じ筈なんだけどな……
翌日、部長が告知していた通り、朝練には彼の姿がなかった。
既に理由は知らされていたので、誰もそれについては動揺する事もなく、いつもの朝練の光景が広がっていた。
「精市がいないからと言って気を抜くな! 力の入っていない動作はすぐに分かるぞ」
相変わらず、部長がいない間は責任感の強い真田が中心となって練習が行われており、桜乃はまたいつもの様にぱたぱたと忙しそうに走り回っていた。
「…元気だな、竜崎」
傍に来た少女に真田が声を掛けると、向こうは顔を上げて力強く頷いた。
「はい。幸村部長がいない分、自分が気を引き締めないと…でも、幸村部長がいるから安心している時点で、まだ甘えているんでしょうね…」
それは確かに真実かもしれなかったが、真田はそれについては桜乃を責めない。
言葉に出すということは理解しているということであり、相手にはそれを克服しようという意志が見て取れる…ならば、今更自分が言う事もないだろう。
「それを分かっているなら大丈夫だな…だが、お前はやや頑張りすぎる節があるから気をつけろ。全く…赤也にも少しは見習ってほしいものだ」
「切原先輩は、あの大らかさも長所だと思いますけど…」
「…お前は甘い」
「そ、そうですか?」
ちょっとだけ呆れた面持ちでそう言った後、真田はコートへ視線を戻す。
「まぁ緩ませる部分も確かに必要だが、俺はそれについては苦手でな…お前が来たのは幸いだ。そっちは任せるとして、これからも俺は締める事に集中出来る」
(切原先輩に謝っておいた方がいいかも…)
複雑な心境のマネージャーは、うーんと心の中で迷いつつ、結局その場では無言を守るのみに留めた……
同日の昼休み
(そろそろ幸村部長、来るかしら…)
朝練はいつもの様に切原が真田に色々と怒鳴られたりしていたが、まぁ大事は起こらずに終了し、桜乃は午前中の授業をこなし終わっていた。
授業が終わり、昼休みの時間を迎えた少女は、お弁当を食べながら今の時間の幸村について思いを馳せていた。
もう、病院での検査は全て終了したのだろうか?
単なる検査だとは分かってはても、どうしても不安は拭えない。
彼が発症した当時の状況は詳しくは分からないし、今更辛い時期のことを誰かに訊いて思い出させるつもりもない。
しかし、おそらくは酷い苦痛だったのだろう、肉体的にも精神的にも。
二度と…二度とそんな思いはしてもらいたくない。
(そうだよね…もう十二分に辛い思いをしてきた幸村部長だもん…私が出来ることなんて殆どないけど…)
出来るだけのことはしよう…少しでも、あの人の助けになれるなら…
気丈にそんな事を考えた少女だったが、ふっと我に返って赤くなる。
(うう…私みたいな新人が言うことじゃないよね…)
そもそもマネージャーは裏方に徹するのが一番なんだから…と思い、お弁当を食べ終えて何気なく廊下に出てみた桜乃は、窓から見えた景色に足を止めた。
「あれ…?」
コートに何人かの生徒が出て、テニスをしていた。
それは何処にでもある様な光景だったが、桜乃はその違和感に首を傾げる。
部室の扉を見ると、鍵が開かれて、大きく開け放たれていたが、桜乃はどう考えても彼らの顔を思い出す事が出来なかったのだ。
コートを一般の生徒が使用するのは特に禁止されていないが、部室の備品を持ち出す事は禁じられている。
それなら、彼らはテニス部の部員でなければならないのだが……?
(おかしいなぁ…私が覚えていない部員さん、まだいたのかな…)
どうしよう、外に出て確認した方がいいかな…?と思っている間に、急に空から雨が降り出した。
確かに曇り空ではあったが、本当に急な事で、最初にぽつぽつと遠慮がちだった雨足はそれから一気に激しさを増し、コートの生徒達に容赦なく降り注ぐ。
向こうもその気候の変化に驚いた様子で、彼らは慌てて校舎へと逃げていく…その場にラケットとボールを投げ捨てたままに。
「あっ! 酷い!」
思わず桜乃の口から非難の声が上がる。
やっぱりあの人達、部員じゃないんだ…勝手に人様の部室に入って勝手に物品を持ち出して…しかも元の場所に戻しもしないなんて!!
「んも〜っ、ちゃんと大事にしないと、すぐに傷んじゃうんだから!」
あんな事をしている相手なので、また雨が止んで戻って来ることなど期待出来ない。
桜乃は即座にそう判断して、慌てるあまりに傘も持たずに下駄箱まで降りていく。
降りたところで、彼女はようやく自分が手ぶらだという事実に気付いてしまった。
「あああ、傘持って来なかった…いいや、行っちゃえ」
今更戻っても時間の無駄だし、雨もさっきよりは小降りになってきたし、と、少女は靴を履いてそのままコートに向かって走って行った。
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