「さむーいっ!」
雨は小降りになったとは言え、それが気温の上昇に繋がるとは限らない。
しかも、季節はもうすぐ冬になろうかという時期…暑い筈が無いのだ。
小雨を身に受けつつ、桜乃は必死に走ってコートに着くと、そのまま打ち捨てられたラケットとボールを拾いに向かう。
御丁寧に、ボールは一個ではなく、複数持ち出されていた為、その分、探して拾う時間も余計に掛かった。
(うう、さむぅい〜〜! こ、これで全部拾ったかな…?)
コート端のネットの下とか、ボール残ったりしていないかな…?
雨でしっとりと湿った制服と髪の毛を微かに揺らしつつ、桜乃はその方向へと向いて拾い残しがないかを確認する。
はぁ…と吐き出す吐息が見る見る内に白くなり、視覚的に『寒さ』を感じてしまった桜乃は、思わず身体をぶるっと震わせてしまった。
(うわ…震えが止まらない)
どうせ短い時間だから…って、思っていたのが仇だったかな、と思った時、
『竜崎さん!?』
と、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「え…?」
誰だろうと思って振り向くと、もうすぐ傍まで一人の若者が傘をさしつつこちらに来ていた。
「…幸村部長…?」
「傘も差さないでこんな所で何をしているんだ! 濡れちゃうじゃないか」
幸村が傘を持ち、別の手には鞄を提げた姿で立っている。
どうやら、丁度学校に来たばかりの様だ。
おそらく校舎内に入る手前の道で、桜乃を見かけてコートへと方向転換して来たのだろう。
驚いた様子の相手に、桜乃もまた、いきなりこんな場所で会った事で驚いていた。
「あ、あれ…? どうしてここに…? あ! 病院の検査…っ」
「検査は問題なかった。登校してきたら君が見えて…ああもう、今はそんな事はどうでもいいから、おいで!」
「はい…?」
濡れた本人より、幸村の方が慌てた様子で桜乃の腕を掴み、引っ張ってゆく。
為されるがままに、ラケットなどを抱えたままに歩み出した桜乃は、彼の足の向く先が部室であると容易に察した。
「手が冷たい…」
「あ…雨の所為、ですよ」
憂いを帯びた男の声に、桜乃は上擦った声で返す。
(幸村部長の手…あったかいな)
きっとそれは自分の手が冷えている所為もあるのだろう。
それでもこうして大きな手に包まれていると、何故か心が安堵する。
ぽーっと頬に赤みが差した少女に、幸村がしっかりと念を押してきた。
「ちゃんと傘の中に入って…まだ降っているんだから」
確かに、桜乃は遠慮する余りに傘の中からかなり外れた位置で歩いていた。
しかし、そう指摘を受けても、桜乃はなかなかそれを実行に移すことが出来ない。
もしそれを実践してしまったら、彼の服と肌にも冷たさが直に伝わってしまうからだ。
「で、でも、あまり入るとくっついちゃいますから…」
「だからそうしてって言ってるんだよ」
「え…」
「ほら」
促し、若者はぐいと腕を引いて少女の身体を一気に引き寄せ、自身のそれと密着させると、そのままの姿勢を維持する様に腕の力を込めたまま歩き続けた。
「わわ…」
「そう、そのまま」
ぴっとりとくっついてしまった相手の身体の大きさと、温もりに、更に桜乃の顔が赤くなる。
物凄く恥ずかしい…けど、これは断るより、もう少しでも早く部室に入った方が早いかもしれない…
実はちょっぴり嬉しいし、こうしていたいけど、これ以上くっついたままだと彼の身体まで自分が冷やしてしまう事になる。
自分が風邪を引いたとしてもそれは自業自得だけど、相手までそれに倣う道理はない。
そう心で判断してからは、桜乃はじっと大人しく幸村の傍に寄り添い、部室に向かって歩いて行った。
「さぁ、着いたよ。入って」
「はい」
部室の扉は既に開かれており、幸村は先ず桜乃を先に入れて自分が後に続くと、そのまま壁の空調スイッチを入れた。
今はまだ寒いが、程なく暖房が入って温度も上がってくる筈だ。
拾ったラケットとボールを取り敢えずテーブルに置いている桜乃の脇で、幸村は実に淀みなく動いた。
早々に自分の鞄をその場に置くと、真っ直ぐに自分のロッカーへ向かい、その奥から白いタオルを取り出す。
そして再び桜乃に歩み寄り、ぽんと彼女の頭の上にそれを被せると、優しく相手の湿った頭を拭き始めた。
「はぷ…」
「はい、ちゃんと拭いて」
こしこしとあまり力を入れないように拭いていた幸村が、手を徐々に下へと下ろして行くと、すぽんとタオルを抜けた形で少女が顔を出した。
「ぷは…っ」
「っ!」
まるで拾われたばかりの子猫が顔を覗かせた様な可愛らしさに、それを目の前で見てしまった幸村は声を失う。
更に愛らしさに加えて、雨に湿った前髪が乱れて肌に張り付いている様が、幼い筈の少女を艶かしく見せており、男は眩い光を直視した様に数回の瞬きを繰り返した。
「…? どうしました?」
「いや…制服もちゃんと拭くんだよ?」
先輩の忠告に、後輩は素直に頷きつつも申し訳なさそうに詫びた。
「すみません…タオル、使ってしまって」
「いいんだよ、俺はいつも余分に置いてるから…でも、何があったの?」
机に置かれたラケットなどを見遣って尋ねた部長に、桜乃は制服の水分をタオルで拭き取りつつ昼休みにあった出来事を話した。
聞いていた幸村の顔が訝し気なものに変わり、彼は首を傾げる。
「部外者が備品を…? 確かに変だな、ちゃんと部室の鍵は閉める様に徹底しているけど」
「私もそう思ったんですけど…」
部長は扉へと近づいて、かちゃ…とノブを暫く弄っていたが、鍵を何度か弄り回したところで何度か納得した様に頷いた。
「あ…鍵が壊れてる」
「え!?」
「鍵を掛けても、ノブの回し具合で外れてしまうみたいだ…うーん、これはちょっと修理が必要だな」
何度か試してみたが、結果が芳しくないものだったのか、幸村は手を離してそう判断した。
「全然気付きませんでした…」
「仕方ないよ…鍵当番も鍵が回れば掛かったと考えるのが普通だし、いつからそうだったのかは分からないしね…後で貼り紙をして注意を促しておこう」
確かに、鍵が掛からないとなれば暫くここに貴重品を置く事は避けたほうがいい。
まぁ、財布などをここに置きっぱなしにしている人はそうそういないだろうから、あまり実質的な被害は考えられないが、用心するに越したことはない。
「…でも、竜崎さん、今回は褒めるだけって訳にはいかないよ。傘も差さずに雨の中出るなんて…小雨でもこの時期、十分に身体は冷えるんだからね」
「はい…すみません」
苦言を呈する部長の言い分は尤もで、こちらには全く返す言葉もない。
しょぼん…と素直に謝りつつ気落ちする少女の素直過ぎる反応に、幸村は苦笑しながら再び近づいていった。
もう、いつの間にか部屋の中は暖房が効いて暖まっている。
桜乃の服もぐっしょりという程には濡れてなかった為、暫くしたら乾くだろう。
「今度からはちゃんと自分の身体の事も気をつけるんだよ…少しはあったまった?」
「は、はい、もうあったかくなりましたから…」
ひと…っ
「っ!?」
幸村の差し出した両手が、優しく少女の両頬に触れ、じんとした熱が伝わってくる。
驚き、瞳を大きく見開く桜乃の前で、若者は眉をひそめて呟いた。
「ああもう…ほっぺたもまだこんなに冷たい…」
さすさすさす……
「〜〜〜!!」
若者の掌が、労わるように桜乃の頬を撫で、その摩擦で熱を生み与えてくる。
おまけに、気遣うように覗き込んでくる相手の美麗な顔を間近で見てしまい、桜乃は嬉しいやら気恥ずかしいやらで、一層顔を赤くしてしまった。
図らずも、二次効果で一気に熱が戻ってきた様だ。
「あああ…有難うございますっ! あの、でもっ…もうすっかりあったかくなりましたからっ」
「そう…? でも、ここはまだ冷たそうだよ」
「え…?」
桜乃の顔の一部分をじっと見つめていた幸村は、そう言って、きょとんとする少女に徐に顔を寄せた。
ちゅっ…
「!!」
唇に幸村のそれがそっと優しく重ねられ、男の熱が唇越しに伝わる。
一瞬のことだったので桜乃は瞳を閉じる暇もなく、ぱちくりと数回瞬きをしている間に、相手は唇をもう離していた。
「え…ええと!…幸村部長…今の、その…!」
今のは一体……何?
(優しく唇に触れていったのは…え、でも…まさかそんな…信じられない)
何をどう言ったらいいのかも分からなくなり、目で見ていた事すらも現実だったのか曖昧になってくる。
今のは私の…夢?
ぼうっとしている桜乃の頭の奥に、また男の声が優しく響く。
「ほら…やっぱり、冷たい…」
「あ…」
それが自分の耳元で囁かれたのだと認めた時には、もう相手の唇は、再び自分のそれを塞ごうと直前まで迫っていた。
「…っ」
今度は瞳を閉じて相手を受け入れたが、やはり心の動揺は隠せず、無意識の中で半歩引いてしまう。
そんな彼女を決して逃がすまいというかの如く、幸村は半歩踏み出し、相手の身体を机と挟み込む形で追い詰め、手指に自分のそれを絡ませた。
(わ…っ…うそ…)
夢と思うにははあまりにも刺激的で、甘美な時が流れる。
たった数秒の間に、桜乃の幸村に触れられている全ての箇所から、一気に全身に熱が回った。
暖房の所為…? ううん、きっと違う…こんなに、焼き尽くされそうな程熱いのに…
ああ、でも何て気持ち良いんだろう…今は、何も考えたくない…
「っ…ふ…」
ようやく解放されたのは唇のみで、身体はまだ彼の腕の中に捕えられている。
しかしその腕を放されたところで、おそらく少女は自分の足で立つことすらままならなかっただろう。
「…幸村…部長…?」
「精市って呼んでくれる?…ね、桜乃」
「え…」
同じく相手の名を呼びながら、幸村は優しく桜乃を抱き締める。
部屋はもう十分に暖まっていたが、桜乃はそれ以上に汗ばむほどの熱気を感じていた。
「この間言ったよね…部長としても頼ってほしいって…でもテニス以外では、男として頼ってほしいんだ」
「…!」
「…俺じゃ、力不足かな?」
「! そ、んなことないです!…せ…」
思い切り否定し、再び言葉を出そうとするものの、あまりに恥ずかしすぎるのか少女は口元を押さえながら真っ赤になった顔を俯けた。
肩を大きく上下させ、深呼吸をするのが分かる。
そして、すぅっと一際大きく息を吸い込んだ後…それでも出る声は小さかったが、
「……精市、さん…」
と、相手を名で呼んだ。
それは、相手の問いに対する答えでもあった。
「うん…有難う、桜乃」
「〜〜〜」
幸村の言葉にはもう答える余裕もないのか、ぎゅーっと若者のシャツに縋りついて、顔を下に向けて恥ずかしがっている。
その様子を愛おしそうに見つめていた幸村は、ふ、と窓越しに、また雨脚が強くなってきた外を見つめ、桜乃にこそりと囁いた。
「もう少し…ここで雨宿りしていこう」
「!…は、い…」
相手が傘を持っている以上、それがただの口実だという事はすぐに分かったのだが、結局桜乃はそれに素直に頷いていた。
二人を小さな世界に閉じ込める慈悲の雨は、まだ当分止みそうにない……
了
$F<前へ
$F=幸村if編トップへ
$F>幸村編トップヘ
$FEサイトトップへ