ごほうびあげる


 三月五日近くになると、決まってその男の周囲は騒がしくなる。
「幸村先輩、良かったら私たちと一緒に帰りませんか?」
「ごめん、今から部活の後輩の面倒を見ないといけないから」
 その日も、男は誘ってくる複数の女子達に申し訳なさそうに断りの返事を返しつつ、足早に廊下を歩いていた。
 颯爽と歩くその姿だけでも様になる。
 それはおそらく、美麗な外見だけの所為という訳ではないだろう。
 女性のみならず、男性ですらも視線を惹き付ける、所謂カリスマと呼ばれるものが彼にはあるのだ。
『おい、テニス部の幸村だ』
『相変わらずモテモテだよなぁ…持ってるオーラが違うっていうかさ』
『あれで彼女いないなんて、よっぽどテニスが好きなんだなぁ』
 讃美と畏敬と羨望の囁きも、聞きなれてしまえば涼風と変わらないというかの如く、若者は彼らに一瞥もやることなく廊下を歩いてゆく。
 声さえかけるのも憚られる雰囲気を持つ彼に、しかし不意に何気ない挨拶を投げかけた者がいた。
「よう幸村。そんなに急いで何処に行くんじゃ?」
「仁王か…」
 銀の髪を揺らし楽しげな笑みを浮かべつつこちらを見ていた同級生に、久し振りに幸村が歩みを止めて対峙する。
 相手も目鼻立ちが整っており、二人が並ぶと更に目の保養度は上がるだろう…当然女性陣の方の。
「…と、聞くまでもなかったか。部室じゃろ」
「まぁね」
 友人の指摘に、幸村はあっさりと頷いた。
 幸村や仁王は現在中学三年生だが、この時期の三年生となると実は部活のスケジュール的にはかなり暇を持て余した状態なのだ。
 何故なら、もうすぐ卒業を控えた身の上である彼らは、それよりも以前に、部活の実権のほぼ全てを下級生に譲渡しているからである。
 譲渡した以上は、もうそれ以降、部内の活動については責任を負う必要はなくなる訳で、強制的に活動に参加する必要もないのだ。
 しかしそれにも関わらず、幸村が引退後もほぼ毎日部室に足を運んでいる事実を、仁王は知っていた。
「お前さんも熱心じゃな。とっくに現役は引退したっちゅうに、まだ面倒を見るとは」
「これも先輩の務めさ、別に苦労だとは思ってないよ。それにこれは俺が個人的にやってることだし、他のメンバーに強制はしてないし、誰にも迷惑は掛けてないと思うけど」
「ふーん…」
 何かを思っているのか、仁王は目だけに笑みを残しつつ暫し沈黙していたが、ぼそっと一言追加した。
「…ま、確かに苦労って訳じゃないじゃろうな…楽しみではあっても」
「言いたい事があるならはっきり言ってくれて構わないよ」
 相手の挑発とも取れる発言を軽く受けつつ返した元部長は、にこりと優しく笑ってそう促したが、対する詐欺師は軽く肩を竦めて「おお怖い」と呟いた。
「やめとくよ。別にお前さんの邪魔をしたい訳じゃないし…それに」
 にっと笑い、仁王はひらりと身を翻しながら意味深な言葉でその場の会話を打ち切った。
「向こうもお前さんのコトを待っちょるんは間違いないからのう、邪魔して馬に蹴られるんはゴメンじゃ」
「…」
 その台詞に何を思ったか、薄い笑みを浮かべたままだった幸村の本心を、仁王は読み取れたのだろうか?
 真実は分からないまま、銀髪の男は廊下の雑踏の向こうへと姿を消し、美麗な若者は暫し止めていた足を再び部室に向けて動かした。


「お邪魔」
「あ、幸村先輩!」
 部室のドアを開けながら声をかけた幸村に、すぐに返事を返したのは女性の声だった。
 男子テニス部に於いて唯一女性の部員である、マネージャーの竜崎桜乃だ。
 彼女が転校してきた直後に、幸村を始めとするレギュラー全員が一致団結して少女をマネージャーに据えて早半年程。
 最初は右も左も分からなかった状態の彼女だったが、今はもうその頃の面影は微塵もなく、しっかりとマネージャーの任を果たしている。
 そんな彼女は、幸村がドアを開いた時、机の上に数枚のプリント用紙を載せて熱心にそれと睨めっこをしていたのだが、元部長の声を聞いてすぐに顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべながら挨拶をした。
「こんにちは、幸村先輩」
「やぁ、部活の方は大丈夫?」
「はい、もうすぐ全員集合すると思います。指示の内容は予め確認してますし、切原部長にも了解を貰ってますから」
「相変わらずしっかりしているね。赤也も君のお蔭で随分と助かってるんじゃないかな」
「うーん…そうだといいんですけどねぇ」
 まだまだ自分に自信が持てない様子の桜乃に、幸村が笑ってそうだよ、と頷き、続いて…
「そこまでしてもらっているのに、君が赤点なんて取る訳にはいかないよねぇ…? 赤也?」
「うぐっ…!」
 丁度、自分に続いて部室に入って来た後輩に、顔を向けないまま声だけを投げかけた。
 因みに声の口調は非常に柔らかいものだったのだが、その奥に隠された恐怖を切原は即座に感じ取ったらしく、反射的に入室したばかりの足を半歩引いていた。
『彼女に負担掛けておいて、赤点まで取る様なヘタレミスやらかそうものなら、俺が黙ってないよ…』
 間違いなくそう聞こえた裏の台詞に、普段は好戦的な若者である切原が既に逃げ腰になりながら強張った笑みを浮かべた。
「や、や、やだなぁ、んな訳ないじゃないッスか、幸村先輩」
「そう、ならいいんだ。君ももう立派な立海テニス部の部長なんだから、英語の授業中に居眠りしたり、ゲーセンに寄って必要以上の無駄な時間を費やしたり、夜中までゲームした挙句に遅刻したり…まさかそんなことはやってないと思うけど…」
「……」
 市中引き回しの上に磔、獄門の言渡しを受けた罪人の様に、ざーっと真っ青になっていく切原を救ったのは、やはり同じ部室にいたマネージャーの桜乃だった。
「まさかそんなぁ…切原部長はちゃんと部にも参加してくれていますし、真面目にやってくれてますよ」
 『実は、全部じゃないにしろ未遂っぽいコトはやってます・・』と言える訳もなく、結果切原は良心の呵責という見えないナイフでもざっくりと胸を抉られる事になってしまったが…そのまま幸村の口撃に晒されるのとどちらが幸せだったのだろう?
「ふぅん…まぁ君がそう言うなら」
 この話はここまでで止めておこうか、と幸村が話を切り上げ、代わりに桜乃が覗き込んでいたプリント用紙へと興味を移した。
「ところで何を読んでいたの?」
「あ、これは今度の期末試験の範囲なんですよー。今からもう憂鬱です〜」
「そうか、発表されたんだ、どれどれ?」
 近日中にある期末試験の試験範囲の発表は、生徒達にとっては例外なく興味を持ちたくはないが持たない訳にもいかないという微妙なイベントの一つである。
 もし気分に任せて知らないままだったら、悲惨な点を取る可能性が確実に高くなるからだ。
「へぇ、思っていたよりも範囲は狭いな」
「うう、その分突っ込んだ問題が並びそうです…どんな範囲であっても喜ぶ気分にはなれませんよう」
「あはは、まぁ確かにそうかもね…試験期間は…そうか」
「? どうかしましたか?」
 じっとプリントを眺める先輩に桜乃が声を掛けると、向こうがにこりと笑みを深めながら彼女を見て、或る一つの提案をした。
「もし良ければ、部活の後に試験勉強付き合おうか?」
「え!?」
「どうせ俺達三年生はもう進学も決まっているし…今の時期はそんなに忙しくもないからね。俺も自分の勉強をしながら君の質問に答えていく形にしたら、どちらにとってもモチベーションが上がる良い機会だと思うけど…どうだい?」
「え…で、でもいいんですか? お暇なら尚更、折角のお時間をもっと楽しい事に費やされたら?」
「うーん…」
 桜乃の遠慮がちな勧めに、幸村が首を傾げて頭を掻きながら苦笑い。
「楽しいこと…色々考えたりするんだけど、もうずっとテニスばかりだったからあまりピンと来なくてさ。ここなら勉強しつつ部の様子も見られるし、俺にとっても古巣だから落ち着くんだ。ダメかな?」
「いえ! 幸村先輩がそこまで希望されるなら是非! 私も正直言うと有難いです!」
 にこっと安心した様に微笑んだ桜乃に安心した様な笑みを返しつつ、若者はゆっくりと頷いた。
「良かった、じゃあ明日から早速始めようか。教科には特にこだわらずに俺が分かる限りで教えてあげるよ…そうそう、赤也」
「ぎく…っ」
「君も一緒に混じってもいいよ。但し、遊びじゃないからビシビシいくけどね」
「け、けっこーですっ!! 俺はちゃんとウチに帰ってしますから!!」
「そう、残念」
(ウソだ〜〜〜〜! 絶対邪魔者扱いするクセに〜〜〜っ!)
 俺が参加したら絶対に目ぇ付けられてスパルタ学習させられる羽目になるっ!!と、切原は裏で震えながら、早々に彼らの計画から抜け出す事を選択した。
「じゃあ、明日から宜しくね。一緒に頑張ろう」
「はい! 頑張ります」
 そして幸村と桜乃は、次の日から一緒に勉強会を行う事になった。



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