「ええと、じゃあこっちを置き換えて代入して」
「そうそう…」
 部活終了後、部室は一時、勤勉生徒達の自習室となり、大いに彼らに貢献していた。
 元々誘惑も殆どない部屋なので、確かに自室に篭るよりもより集中力が高まる気がするのだが、桜乃にとってはそれ以上に集中せざるを得ない事情があった。
「凄いね、もうそこの応用問題まで出来るようになったんだ」
「えへ、昨日帰ってからちょっと頑張りました。あまり幸村先輩に甘えすぎてもいけませんし」
 自分が尊敬する先輩に、余計な手間をかけさせる訳にもいかないし、何より自分が無能だと思われる事は絶対に避けたい!
 下らない見栄だという事は重々理解していたが、それでもやはり、気になる人の前で恥ずかしい思いはしたくないというのが女心なのだ。
 それに、今回の試験にはまた別の大きな目的もあるのだが…それはまだ彼には言えない話。
「何だ…ちょっとつまらないなぁ」
「え?」
 そんな桜乃の心遣いに、しかし幸村は少々不満げに唇を尖らせた。
「折角なんだから、もっと甘えてくれていいのに…期待してたんだけどな?」
「そ、そ、そ…」
 大胆な先輩の発言に、桜乃の頬が見る見る赤くなっていく。
 元々が奥手で内気な少女なので、面と向かってそんな照れ臭い台詞を言われる事には慣れていないのだ。
 尤も、学内で一番美形の男子と名高い男にこんな台詞を言われたら、大抵の女子はくらっときてしまうだろうが。
「そんなからかわないで下さいよう、照れちゃうじゃないですか」
 その台詞通り、てれてれと赤くなったまま頬に手を当てる後輩を、幸村が小さく笑いながら眺めていたが、その陰で、実は彼が必死に自分の中の衝動と戦っていた事を知る者はいなかった。
(参ったな…天然が最強っていうのは本当だったんだ)
 気を抜いたら、思わず相手を抱き締めてしまいそうになってしまう…自分の気持ちを伝える前に。
 少しだけ誘惑に負けそうになっている自分を戒めつつ、心拍数の上がりを自覚した若者は、相手の希望に乗る形で視線を脇へと逸らした。
「ごめんごめん。でも、褒めたい気持ちは本当だよ。努力をすることは尊いことだし」
「は、はぁ…有難うございます」
 相手の視線が逸らされただけでも結構刺激の緩和にはなったのか、ようやく桜乃も少し落ち着いた様子で今度は素直に賛辞を受け取ると、思い出した様に手をぽんと叩いた。
「あ、一段落しましたから、何か飲み物を準備しましょうか? 結構時間経ってるし、喉、渇いてません?」
「そう言えばそうだね…甘いものでほっとしたい感じだ」
「じゃあ、ココアでも…」
 がたんっ!
 早速その準備の為にかたんと椅子から立ち上がった桜乃だが、運悪く座っていたパイプ椅子の脚に自分のそれを引っ掛け、大きくバランスを崩してしまった。
「きゃ…っ」
「おっと」
 そのまま倒れてしまうところだったが幸いそちらに幸村がいたことが幸いし、彼が軽く腰を浮かして、とすんと桜乃の身体を抱きとめた。
「大丈夫? 気をつけて」
「す、すみませんっ!」
 謝りながら慌てて体勢を立て直し、ひょ、と桜乃が幸村の方を見上げる…と、
「…」
「…」
 互いに咄嗟のことだったので、気付かない内に二人の顔が接近していた。
 もし二人が恋人同士だったら、『キスしない訳にはいかないだろう』という義務感すら感じさせる程の密着度。
 一秒後…まだ二人とも事態の把握が今ひとつで呆然。
 二秒後…何となく理解した幸村が無表情を守る一方、同じく理解した桜乃が顔面硬直。
 三秒後…さてどうしよう、と幸村が考えている間に、折角落ち着いた顔面紅潮が更に悪化し、ぼっ!と脳内沸騰。
「ごっ、ごめんなさーいっ!」
 四秒後…幸村が止める間もなく逃走。
「あ…」
 しまった、絶好のチャンスだったのに…と残念に思いつつ、乙女がココアの準備を口実に離れてしまう様子を見つめ、若者は息をついた。
(うーん…)
 どうにも上手くいかないのは…自分に迷いがある訳ではないと思う。
 そして、自分の読みが全く外れているという訳でもないと思う。
 多分…きっと、二人の想いは似ていると思う…
 そこまで感じていても、分かっていても、口に出せないのは…これも恋という病の症状なのか?
(…俺って、厄介な病ばかり抱えるんだな)
 でも入院するよりはマシだけど…いや、入院して解決出来るなら楽なものか。
 そう考えていた幸村だったが、やがて一人、自嘲気味に笑う。
(でもいい加減、何とかしないといけないよね…タイムリミットが迫ってる)
 もう自分には…時間が残されていないのだから。
 だから、急がなければならない。
(とは言っても、どうしよう…)
 こういうのって、独りよがりで行動しても、あまり良い結果にはならないだろうな…
 うーむと結構真剣に悩んでいる間に時間はあっという間に過ぎ去り…手際よくココアを作った桜乃がトレーにそれを入れたカップを載せて運んで来た。
 まだ顔が赤みを残している様に見えるのは、気のせいではないだろう。
「あのう…ココア…」
「ああ、有難う、さっきは驚かせてゴメンね」
 先に謝ることで向こうの緊張を解しつつ、幸村がカップを受け取り、その後に桜乃が再び椅子に腰を下ろした。
 そして、そこから流れる沈黙を埋めようとばかりに、桜乃がある事を幸村に尋ねた。
「幸村先輩って…」
「うん?」
「…三月五日が誕生日でしたよね?」
「そうだよ? 知ってたんだ」
「そりゃあ…マネージャーですから…あの、何か欲しいものはありますか? 誕生日プレゼントに」
「誕生日プレゼントか…」
 ふむ、と軽く考えた後で、幸村が何か閃いたようにああ!と頷いた。
「じゃあ、一ついいかな?」
「あ。何ですか?」
 もしかしたら遠慮して答えてくれないかも、と危惧していた少女が、答えが得られそうだとわくわくした表情で相手を見上げた。
 そしていよいよ若者が答えを告げる…
「今度の期末試験の結果、楽しみにしてるからね」
「うわぁーんっ!!!! いきなり超メガトン級のがきたぁ〜〜っ!!!」
 試験結果の上位、プライスレス。
 お金で買えない価値のものの中でもかなり難易度が高い希望を出されてしまい、思わず桜乃は大声を上げて嘆いてしまった。
 そんな彼女のパニックを引き起こした元凶の美上丈夫はくすくすと笑いながらも自分の希望を撤回する様子はない…どうやら冗談ではなく本気の様だ。
「そんな大袈裟な…一位とか条件はつけないから頑張ってごらん。良い結果が出たらごほうびあげる」
「う〜…ごほうび?」
「そう、ごほうび。何かはまだ内緒だけどね…だから頑張って」
 ご褒美を貰える事は嬉しいが、そもそも最初は自分が相手にプレゼントを贈る話だった筈…
「う…何か腑に落ちないけど、頑張りますぅ…」
 その時、桜乃はそう答えるのがやっとだった……


 決して第一の目的は幸村からのご褒美目的ではなく、あくまでも彼がそれを望んだという事実を励みに、桜乃はそれからも熱心に試験勉強に打ち込んだ。
 正直、これほど頑張った事はないのではないかと思う程に頑張ったのだ。
 毎日毎日復習と、そこからまた新たに得た知識を携えて、彼女はいよいよ試験に臨み…そして結果発表の日…

「やったぁ!!」
 奇しくもその日は、あの若者の誕生日当日…三月五日だった。
 帰宅前のホームルーム終了後、職員室前に張り出された学年毎の成績上位者を記した張り紙を前に、桜乃は飛び上がって手を叩いた。
 入っている!!
 一位ではなかったが、十位以内に名を連ねるというかつてない大快挙を果たしたのだ。
(よ、良かったぁぁ〜〜〜! これなら幸村先輩にも胸を張って報告出来る!)
 ご褒美を貰えるレベルかどうかはまだ分からないけど、貰えなくても構わない、兎に角早く知らせたい…!
 小躍りしそうな程に歓喜していた桜乃が、急いで部室に向かおうとその場から離れるべく方向転換したところで、先に立っていた人物に視線がいった。
「あ…」
 幸村が、少し離れた場所を丁度通り過ぎる形で歩いていた。
 自分にはまだ気付いていない様だったが、向かう先はどうやら部室らしい。
(そうか…三年と一・二年は発表の日が違うから、ご存知ないんだ…)
 もし知っていたら、彼もおそらく興味を持って見に来てくれる筈だ。
 桜乃は彼に早速報告をするべく早足で近づきながら声を掛けた。
「あの…ゆきむ…」
 呼びかけた途中で、桜乃の口が不意に閉じた。
「…」
「?…やぁ、竜崎さん?」
 桜乃の声に反応して幸村が振り向いた後でも、桜乃の視線は彼ではなく、先程からずっと若者の手にしていたバッグの中身へと向けられていた。
 数多くの、色とりどりの花々のブーケや、綺麗にラッピングが施された様々な大きさの箱…所謂プレゼントの典型的な形をした物が数多くそのバッグの中に山と詰められている。
 それが、数多くの生徒から幸村への誕生日プレゼントであることは疑いようがない。
 誕生日当日なら、有り得ない光景ではない。
 分かっている。
 いや、分かっている筈だった、しかし…
 ここで初めて桜乃は、自分の贈り物と他の見知らぬ生徒達の贈り物との相違に気がついたのだ。
(あれ…私…)
 何、今になって気がついてしまったんだろう…幸村先輩が私に望んだプレゼントって…どう考えても先輩が気を遣って言ってくれた気休めじゃない。
 赤の他人の良い成績が欲しいだなんて、そんな人の良すぎる希望、少し考えたらすぐに分かりそうなものだったのに、私、何を浮かれて本気にしてしまっていたんだろう?
「…」
 馬鹿だ、私。
 そんな簡単なコトにも気付かないで、結局自分だけの為になることしかしてない。
 私の成績が良くなったって、幸村先輩に一体何の得があるっていうんだろう…
「どうしたの、こんなところで…あれ? あれってもしかして、試験の結果発表かい?」
「あ…はい」
 力なく答える桜乃を前に、幸村が右手を顔の上に翳して貼り紙の内容を確認する。
 そしてそこに桜乃の名前を見つけると、彼の顔がああと一気に綻んだ。
「凄いじゃないか、あんなに上位になるなんて、頑張ったね」
「……」
「…竜崎さん?」
 てっきり、元気な声で「そうなんですよ!」という一言が返ってくるかと思っていたのに、無言を守るばかりの少女に幸村が不思議そうに顔を向けた。
「どうしたの? 嬉しくない?」
「…幸村先輩は…嬉しいんですか…?」
「え?」
「先輩の言葉に甘えて、贈り物の一つも準備しないで…自分の事ばかり考えていたんです、私…そんな私の成績が上がったって…幸村先輩に良い事なんか一つも…っ」
「竜崎さん…!?」
 微かに少女の言葉が震え、涙すら滲んでいる事を感じ取った幸村が慌てた様子で相手を伺うと、気のせいではなく確かに彼女の目尻に涙が浮かんでいた。
「君…」
「ごめんなさい…でも私…自分が情けない…」
「……」
 まだよく分からない…しかし、間違いなく今、自分自身を責めているのだろう桜乃を見つめていた幸村は、少し戸惑っている様だったが、すぐに気を取り直して桜乃の腕を掴み、引き寄せた。
「?」
「もうホームルームは終わってるんだろう? じゃあ部室においで。君に話があるんだ」
「はな、し…?」
「今日だけは、相手が君でも引き摺ってでも連れて行くよ…俺はまだ、君自身から報告を受けてないんだから」


 いつになく力強く強引な腕で引っ張られ、桜乃は幸村に部室の中へと連れ込まれ、そこで改めて彼に対して試験の結果を報告するよう求められた。
 涙を浮かべる程に傷心だった少女だったが、これまで見た事がない程に強引な相手の姿に気圧されたのが幸いしたのか、全ての報告を終えた時には、逆に涙は失われていた。
「…成る程」
「……」
 必要最低限の言葉で報告を行った桜乃を観察している間に、幸村もどうやら彼女の悲痛な表情の理由に思い至ったらしく、不審な表情は消えてしまっており、代わりに不思議な笑みを浮かべていた。
 そして彼はその理由になっただろう手持ちのバッグを、不意にばさっと無造作に脇へと放った。
 まるで、壊れたおもちゃを捨てる子供のように。
「!?」
「ごほうびあげる…こっちにおいで」
 驚く桜乃の前で、幸村はゆっくりと両手を広げ、彼女にそこに来る様に促した。
「幸村、せんぱい…?」
「約束だったろう? 試験、頑張ったらあげるって…ほら、おいで」
「……」
 拒む理由はなく、それ以上に拒むことが出来ない魔力を秘めた若者の声と仕草に、桜乃がゆっくりと相手に近づいてゆく。
 そして十分に近づいたところで、幸村の両腕は大きな弧を描きながらその小さな身体を優しく抱き包み、拘束した。
「え…?」
 抱き包まれた桜乃が、何事が起こっているのかと顔を上げるのと、幸村がそれをゆっくりと下ろしてくるのはほぼ同時だった。
「はい、よく出来ました」
 ちゅ…
「え…!?」
 今の感触…額に…今のって…
 まだ現実を受け入れられない様子の桜乃に、唇を離した若者がくすりと悪戯っぽく笑って言葉を継いだ。
「ごぼうびはこれだけじゃないんだ…これからがね、本番」
「本番…って…」
 戸惑うばかりの乙女の前で、幸村が相手を拘束していた右手だけを解き、それをそっと自身の胸の前に置きながら厳かに礼をした。
「『俺の恋人になってほしい…愛しい人』」
「…っ!!??」
 驚くばかりの相手に、告白をした幸村は至極真面目な顔で言った。
「ずっと君を見ていたよ…だからね、他の誰よりも君の事は分かってるんだ……君が、俺のコトが好きだってことも、全部」
「あ…」
「だから…君が俺の言う事をちゃんと守ってくれたら、ごほうびに『愛の告白』をあげようと思ったんだ。そして、君の恋人としての俺も、ね」
「え、だって…何で…!?」
「何でって…? 野暮なコトを言うね、俺も君が好きだからに決まってるじゃないか」
 動揺も激しい桜乃に笑いながら、幸村は再び両手で相手を拘束する。
「俺には、君の成績なんか関係ないと思ってた…? ああいうプレゼントの山の方が価値があるって…?」
 尋ね返す若者に桜乃が答えを迷っていると、相手は唇の端を軽く吊り上げて不敵な笑みを浮かべた。
「ふふ…冗談じゃない…君の成績は俺にとって最も重要なものなんだ。君には常に上位でいてもらわないと困る…俺が待つ高校に間違いなく来てもらう為にも、ね」
「え…」
「ウチの高校ってね、中学の三年を通して成績が優秀だった生徒は試験免除で進学が可能なんだ…どんな小さな可能性でも、俺が待っているのに君が進学出来ないっていう事態は避けたいからね」
「幸村先輩…」
「君をここに残して卒業なんかしたくないんだけど、そういう訳にもいかないからね…早くおいで、桜乃」
 もう今も待ちきれないとばかりに、ぎゅ、と桜乃を抱き締めた幸村が、笑みを含んだ声で桜乃に甘く囁いた。
「まだ信じられない…? そこの贈り物全部、君の目の前で壊したら信じてくれる?」
「そっ、そんな酷いコト…!」
「構わない」
 きっぱりと、幸村が強い瞳の輝きを称えて断言する。
「非道だろうと非情だろうと、君に信じてもらう為なら何でもするよ俺は…君の気持ち以外、欲しくない」
「!!」
「だから、誕生日のプレゼントなら、さっきの返事が欲しい…俺に応えて、桜乃」
「あ…」
「俺の恋人になるって」
 そして、その返事は密やかに幸村の耳元でのみ囁かれ、幸村だけが聞き…幸村だけが、少女に口付ける権利を得たのだった。
 記念すべき、十五の誕生日に…





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