隠した傷跡
『あ、皆さんいらっしゃいましたか? お早うございます』
「お早う竜崎さん、いつも早いね」
その日の立海大附属中学、男子テニス部部室にはいつもとほんの少しだけ異なる光景が広がっていた。
朝練の為に早朝から部室に集まってくるレギュラーを始めとする部員達と、彼らよりより早く部室を訪れて準備に取り掛かっている女子マネージャーが和気あいあいと朝の挨拶を交わしている。
「おー、あったけー! 毎朝おさげちゃんがちゃんと早く暖房入れてくれてるから助かる〜」
「今年はまだそんなに寒さは厳しくないとは言え、朝はやっぱりな」
部室に入ってきた部員達は、その部屋の暖かさに例外なく表情を緩ませる。
無意識ではあっても、外の冷気は自然と彼らの身体の緊張を高めてしまっているのだ。
女子マネージャーである竜崎桜乃がいなかった時期も、部室は当番制で誰かが早めに開錠し、空調も入れられていた。
しかし今の彼女ほど早めに来る人間はそういなかったらしく、他の部員が来た時もまだ暖房による調節が不十分な時もあったらしい。
彼女が来てからは、先ず間違いなく部室がパラダイスになっているという事実を学んでいるレギュラー達にとっては、ここでの朝練前の準備時間も楽しいひと時になっているのだった。
しかし、今日のこの時間、桜乃の声を聞く事は出来ても彼らはその姿を見る事は出来なかった。
「…声はすれども姿は見えず、じゃのう…どうした?」
「何か問題でもありましたか?」
丸井達より早めに来ていた幸村や仁王、柳生達も、まだ彼女の姿を見てはいないらしく、その意識は徐々に一つのドアの前に集まって行く。
そこは部室の中に元々あった小部屋を桜乃に提供している場所。
同じテニス部とは言え、やはり相手は女子。
身支度や何か個人的に作業出来る場所は欲しいだろうということで、桜乃が入部した際、幸村が部長権限で備品置き場だったその部屋を彼女に与える事を決定したのだった。
とは言え、その決定に異を唱える人物は最初から誰もいなかったが。
それ以来、鍵も付いているその小さな密室は桜乃専用の小部屋となったのだが、今日の様に長いこと彼女がそこに閉じこもる事は滅多になかった。
いつもなら、部員達が来る時には既に部屋から出てぱたぱたと忙しなく走り回っている彼女だったのに…
「竜崎? もしかして身体の具合でも悪いのか?」
考えられた可能性を、少しばかり不安げな口調でドアの外から投げかけた副部長に対し、すぐに否定の声が返ってきた。
『い、いえいえ、大丈夫です。もう準備出来ましたから。すみません、部室の掃除を先にしちゃったから、こっちが後回しになっちゃって…』
「…?」
後回し? 何の事だろう?
幸村が軽く眉をひそめて周囲のレギュラー達と目を合わせたが、全員が同じ様に不思議そうな表情をしている。
そうこうしている内に、かちゃっという音と共に施錠が解かれ、ドアが開いて桜乃が出て来た。
「すみません、お早うございます皆さん」
「ああ良かった、おはよ…」
挨拶を言いかけた幸村の口が途中で止まる。
しかしそれを咎める者は誰もおらず、レギュラー全員が真っ直ぐに桜乃の方へと目を向けていた。
沈黙が流れ、時が止まったかの様な数秒間だったが…
「うわーっ!! ギリギリセーフだお早うございまーっすっ!!!」
大声を上げながら、二年生の切原赤也が、その沈黙の世界をけたたましく打ち破りながら飛び込んできた。
そして飛びこんだ先で目にした光景に、彼は再び大声を上げた。
「うおおお!?!?!? 竜崎何だよそれーっ!!」
「え…」
戸惑う桜乃に構わず、今度は声を抑えた調子で切原がぼそりと一言。
「ひ、膝上ニーソ…?」
その通り。
普段は見たことのない、膝上の黒のニーソを身に付けた姿の桜乃に、男性陣は一様に目を奪われていたのだ。
たかが靴下と侮るなかれ。
黒のニーソで強調された足首から膝までの滑らかなライン。
そこから更に上に伸びる黒の世界が、ある境界線からいきなり艶めかしい生足へと変貌を遂げ、そしてその領域はすぐにスカートへ隠された部分へと続いてゆく。
ほんの少しだけ見せる生の素肌…人はそれを『絶対領域』と呼ぶらしい。
普通のソックスを履いている時の方が露出度は高いのにも関わらず、ここまでニーソが異性からの人気を誇っているのは、世に言う「チラリズム」の為なのか…
兎に角、元々線が細い桜乃がニーソを纏った姿は、いつにも増して強烈な脚線美を男達の網膜に刻みつけることになったのである。
「え、あの…お、おかしかったですか?」
「いやもうおかしいどころかチップあげるから触らせてくれって感じ…」
集まる視線にうろたえる桜乃に、丸井が際どい台詞を吐きかけたが、すぐに隣の相棒に阻まれる。
「馬鹿!! お前何てコトを…」
「だってジャッカル、モノホンのニーソで絶対領域だぜいっ!! しかもおさげちゃんのっ! ダメ!? ダメなの!? お前生足嫌いっ!?」
「いやいや嫌いどころか好きに決まってるじゃないか!って何どさくさに紛れて言わすんだ! ノリツッコミ大成功!!」
訳が分からなくなっている友人達を、紳士が眼鏡を押さえつつ冷静に観察。
「…程良く壊れてきていますねぇ」
「ほっとけ、どうせ実行に移す度胸はないじゃろ」
同じく仁王が冷静に分析している向こうでは、朝練前から既に心拍数を上げられてしまった三強達が桜乃に仔細を尋ねていた。
「珍しいね、竜崎さんがそんな物を履くなんて…少なくとも俺は初めて見たけど」
「その、ぼ、防寒の為か?」
穏やかな口調に乱れのない部長に対し、副部長の方は明らかに動揺が滲んでいる。
ついでに言うと、視線もまともに桜乃に合わせていられない様子だ。
「あ、これですか? えっと…別にそうじゃなくて…」
どうやら彼らの動揺の原因がニーソにあると察した少女は、少し考え込んだ様子だったが、徐に手を自身の右側のニーソに伸ばすと…
ぬぎっ…
『っ!!』
躊躇うでもなく、それを膝下まで脱いだ。
黒ニーソの生地を伸ばして引き下ろすさりげなくも艶めかしい仕草。
より露わになる白の領域。
それら全ての視覚的刺激が、擦れていない健全な男子中学生に与える影響を考えてみてほしい。
直後、何かが倒れる音が二つ、部室内に響いた…
「む、やはり弦一郎には刺激が強すぎたか…」
「あーあ、鼻血の海じゃのう〜…」
柳と仁王が呟く向こうでは、頭のヒューズが吹っ飛んだらしい真田と切原が見事に昏倒していた。
切原に至っては一気に血圧が上がった弊害か、だくだくと流血ものの騒ぎになっている。
「…違う様で、結構似てるトコあるよなこいつら…」
呟くジャッカルも仁王達に手を貸し、二人の回収に回る。
これは今日の朝練は、内容の変更を迫られるかもしれない…
「あ、あの、お二人が…」
「大丈夫、そんなにヤワじゃないから二人とも…ん」
驚く桜乃にあっさりとそう断った幸村は、冷静な視線で彼女の下ろされたニーソの上に見えた異変をすぐに見抜いた。
「…何だい? その傷」
桜乃の右の太腿…膝のすぐ上に近い部分に、数本の赤い線状の跡が見えた。
それらはまるで漢字の『川』の字を長く引き伸ばしたように、各々が平行になって走っている。
「引っかき傷みたいだな」
丸井の言葉に、桜乃がこくんと頷いた。
「昨日の帰りに野良猫さんに会って…可愛かったから抱き上げて膝の上で撫でていたんですけど、急にそこに来た別の猫さんにびっくりしちゃったみたいで。爪を立てた拍子にばりばりーってやられちゃいました」
「ああ、成程」
確かにこれは猫の引っかき傷と思しきものだ、理由を聞いても納得できる、と仁王が頷き、桜乃が続けた。
「傷そのものは家で消毒して、大したものじゃなかったんですけど…跡が目立っちゃうから、治るまではニーソで隠そうと思ったんです。だから今日の朝来る前にコンビニで買ってきて、さっきまで着替えていたんです」
「そうだったんですか…痛みますか?」
「いえ、痛みはもう殆どありませんから」
「それなら宜しい…目立ちますが、傷そのものは浅い様ですから、これなら痕にもならないでしょう」
「はい」
それから、真田と切原が復活するまで多少の時間は要したものの、男子テニス部の朝練は無事に執り行われることになった…
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