北風と太陽


 幸村精市
 立海大附属中学三年生であり、同校の男子テニス部の部長を務める若干十四歳。
 彼は幼少時よりテニスの才に恵まれ、小学生の頃にはもう既に有名な大会で幾つも優勝の座を勝ち取っていた。
 コート内で神の化身の如き強さを誇る彼はしかし、コートの外では非常に温和な性格で、誰に対しても分け隔てない優しさで知られている。
 尤も、優しいばかりではなく、ここぞという時には厳しい一面も見せる事があり、それは彼が『優しさだけでは人は成長しない』という事実を既に知っている事も覗わせた。
 そんな彼のトレードマークは、テニスを始めるに当たって身につける様になったヘアバンドと、常に肩に掛ける姿で纏う上着。
 ヘアバンドはテニス以外の時には専ら外しているが、上着の纏い方はいつも同じで、彼に言わせると、最早『癖』というものらしい。

『こうしていると、落ち着くんだよ』

 つまりそういう事だ。
 肩から何かに覆われているという感触が、もしかしたら『守られている』という心理的な安心感に繋がっているのかもしれないが、詳細は不明。
 しかし元々がほっそりとした体型の彼の身体が上着を肩から掛けると、すっと流れる様なラインがより本人のスタイルの良さを際立たせており、他の人々…特に女子からは好評だった。
 他人からの外見についての批評は気にしない性の彼だったが、その格好が相手を不快にさせることはないという事実と、自身の精神的な安定も兼ねて、中学校に上がる頃には既にあって然りという程に、しっくりと彼に馴染んでいた。
 しかも。
 羽織られたジャージは、試合中でも変わる事なく彼の双肩にかけられたままで、これまで夏の一試合を除いては落とされたという事がないらしい。
 激しい運動を想像させる試合中に信じられない話であるが、それを現実にこなせる技量があるからこそ、彼は『神の子』と呼ばれているのだろう。
 事実、彼の親友達ですらかなりの上級者であるにも関わらず、彼からジャージを落とす事さえ出来ないという事らしいのだから。
 故に、幸村のジャージを剥がす事が出来るのは世界に何人いるのだろうか、そんな別の噂までもが流れる始末だった。


 某日…
「さて…と…午後の練習予定は、と」
 朝、いつも通りに登校した幸村は部室でジャージに着替えた後、その上着を肩から羽織って外に出ていた。
 今日も快晴…絶好のスポーツ日和である。
 冬の寒さもようやく和らぎ、まだたまに風が冷たい日もあるものの、季節は確実に春へと移り変わりつつある。
 その移ろいを心地よく身体で感じながら、その若者は親友で部の参謀の役を果たしていた柳の組んだプログラム内容を紙面で確認しながらコート脇を歩いていった。
 「果たしていた」と過去形なのは、彼を含めた三年生は、建前ではもう下級生達に部を任せ、一線を退いている事になっていたからだ。
 しかし彼らの実力が非常に秀でており、部員達からの信頼も篤かった為、卒業するまでは肩書きの無い形でも、引き続き部員達の面倒を見ているのである。
 何とも部員思いの男達だ。
「成程ね、こっちのグループが今日は練習試合か…ふーん」
 ふむふむ…と読みながら何かを考えていた幸村が、コートの隅の所でぴた、と足を止めたところで、同じく別の方向から歩いてきた柳と居合わせた。
「やぁ蓮二」
「精市、今日の予定は確認してもらえたか?」
「うん。概ね、これでいいと思うけど……ちょっと変更いいかな?」
「何だ?」
「こっちの試合…今日は俺が相手したいんだけど」
「お前が?」
 元部長の申し出に、参謀が軽く首を傾げた。
 普通なら、OBが直々に部員たちの相手をするのは特におかしい事ではない。
 しかし、相手がこの幸村精市という人物なら多少話は変わってくる。
「わざわざお前が出る程の事でもないと思うが…?」
 レギュラーの中でも抜きんでて強い彼が、非レギュラー達の試合の相手をするまでもなく、他にも人材は余る程にいる…この立海では。
 それに、幸村程に実力がある人間だと、そのグループレベルと通して試合をしたとしても、肩慣らしにもならないのではないか…
 そんな親友の胸の内を察してか、元部長である男は穏やかに微笑んだ。
「ずっと上から見ていても分からない事もあるし、皆がどれだけ上達したのか直に確かめてみたくてね。正直言うと、ベンチを温めてばかりもちょっと飽きちゃったんだ。ダメかな?」
「いや、ダメだという事はない。お前が相手をしてくれるとあれば、皆も喜ぶだろう。何しろ生きた伝説にもなっている様な奴と実際に手合わせ出来るんだからな。強者と打ち合う事は何より当人の経験値にも繋がる」
「それはちょっと褒めすぎだなぁ」
 苦笑しながら幸村がそう答えているところに、とことことまた一人、その場に別の人物が歩いて来た。
 彼らと比べたら随分と小柄で、線の細い…女性だ。
 竜崎桜乃という、同部でマネージャーを務める中学一年生で、レギュラーの面々からは妹の様に可愛がられている。
「こんにちは、幸村先輩、柳先輩。今日も宜しくお願いします」
「ああ、竜崎か」
「やぁ、こちらこそ宜しくね、竜崎さん」
 細く柔らかい声をした少女は、長いおさげを揺らしながら二人に丁寧に挨拶をした後で、くるんと彼らの顔を見回した。
「そろそろ全員が揃うと思いますけど、点呼の方は…?」
「ああ、いつも通り始めてくれて構わない。そうだ、丁度良かった、Cグループの練習試合だが少し訂正がある。メンバーの中に精市を編入する。振り分けは俺がすぐに作り直すから、グループメンバーにはそう伝えておいてくれ」
「まぁ」
 大きな瞳を更に丸くして、桜乃は視線を柳から幸村へと移した。
「今日は幸村先輩が試合をするんですか?」
「うん…ちょっと身体を動かしたくなってね。みんなのお手並み拝見ってところかな」
「そうですか、きっと皆さんも喜びます。一度でいいから手合わせしてほしいって、よく言ってましたから」
「そうなの? おかしいな、俺の所には誰も来てないけど…」
「『神の子』に堂々と宣戦布告出来る程の人材なら、非レギュラーで燻ってる訳もなかろう…」
 素で悩んでいる親友にやれやれと柳が説明すると、相手はうーんと空を見上げた。
「また赤也みたいな子が来てくれないかなぁ…ああいうトラブルは大歓迎なんだけど、人材発掘の意味でも…」

『赤也〜〜〜〜〜〜っ!! 何処行った〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!??』

 幸村の言葉を途中で打ち消す程の、真田の怒声が背後から聞こえてきて、暫くその場の三人は無言になった。



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