無名なる人
「決勝戦には、『神の子』が来るからね」
全国大会決勝戦当日、試合会場に向かう車の中で、竜崎桜乃はそんな一言を祖母から聞いた。
青学に入学し、そこで出会った生意気盛りの一年生男子の影響を受けて始めたテニス…
祖母が男子テニス部の顧問を任されていたという環境もあったのだろうが、彼女はこれまで何度も彼らの公式戦に応援に駆けつけていた。
しかしおそらく、今日ほどの緊張感を以って臨む試合の応援は無かっただろう。
青学が悲願の全国制覇を成し遂げられるか否か…それが今日、決まる。
まるで選手のように朝から緊張しっぱなしの桜乃は、車の中の祖母の一言に不思議な単語が混じっているのを聞き取って彼女に尋ねた。
他の選手は各自で会場に集合するので、車の中には祖母と自分二人だけだ。
だから、選手達に対する気兼ねや遠慮はいらなかった。
「神の子…って?」
「立海の部長だよ。幸村精市…間違いなく、今日の大会で最大の敵になるだろうね。敵ながら恐ろしい子供さ」
「恐ろしい…子供」
自分なりの恐ろしいというイメージを膨らませて、これまで会った立海のテニス部員のイメージとそれを当て嵌めてみると…
先ず、あの真田という副部長の上に立つ人だから、彼以上の長身…となると二メートルぐらいは越えているかも。
しかも真田を下に据えるくらいなら、物凄い大声の持ち主だったり。
赤髪の人のボールコントロール以上なら、部長という彼は最早手品や魔術の域で。
そして更にあの赤目の二年生以上に、暴走したらとんでもない変身をしてしまったりするのでは!
(こ…恐いよ〜〜…!)
最早桜乃の頭の中では、街の中を派手に暴れ回る怪獣並のイメージである。
勝手にここまでイメージを増幅されては立海の部長もいい迷惑であるが、残念ながら彼女の頭の中だけの話なので、誰もこの暴挙を止める事は出来なかった。
「…病み上がりだけど、気を抜いたらすぐに牙をつき立てられるだろうね…まぁ、決勝戦でそんな生温い試合だとは誰も思っちゃいないだろうけどね」
「……完治したんじゃないの?」
会った事はない…からここまで勝手なイメージを膨らませているのだが、桜乃は立海の部長の情報について多少の事は知っていた。
確か、既に一年生の時から物凄くテニスが上手で部長の座に収まりながら、世界でも稀な病に侵され、それからはずっと入院生活を余儀なくされていたという。
関東大会で立海の他のレギュラー達がコートに立っていた時、彼は手術室という戦場で独り戦っていたという事も聞いた。
そして、たった独りで戦って勝利して…その余韻に浸る暇も無く、今度は病で衰えた身体に鞭打って凄まじいリハビリをこなしていたと…
テニスを同じく嗜む自分がこんな事を言っていいものか分からないが、よくぞそこまで、と思う。
もし自分なら…たった一人でそこまで出来るだろうか?
そこまでテニスに…こだわり続けることが出来るだろうか…?
それは最早好きとか、得意とか、そういう次元ではない。
執念…そう、執念だ。
きっとその幸村という部長も、自分が知る青学のテニス部レギュラー達と同じ様に、テニスの魔力に取り憑かれてしまったのだろう。
テニスは相手が一人か二人だけのゲームだが、それは見た目だけの話。
本当の敵は、向こうのコートに立つ敵の、そのまた向こうに見えるもう一人の自分だ。
テニスを始めてまだ日が浅い自分でも、そのぐらいは分かるようになってきた。
そしてそうであるならば…『神の子』と呼ばれた幸村は、これまで何度自分自身に挑んで勝ち続けてきたのだろう?
「…彼は確かに完治はしたが…正直長く病床に伏していた人間が完全に元の身体に戻るには、どうしても時間という要素は欠かせないんだよ…幸村には、残念と言うべきか、それが欠けている……青学にとっては、運が良かったというべきなのかね…不本意だけど」
「……おばあちゃん、もし」
桜乃は、隣でハンドルを握る祖母に純粋な疑問をぶつけてみた。
「もし、完全に元の身体に戻った幸村さんだったら…青学は、それでも勝てる?」
「……ウチのレギュラー達には口が裂けても言えないけど、病み上がりの状態ですら凄い脅威なんだよ…もし一ヶ月先の大会だったら…無理、だったろうね」
「……」
青学にとっては物凄いラッキーな筈なのに…全然嬉しくなかった。
(それで勝っても…何となく納得いかないよね…)
正々堂々と戦おうって言っても…何だか、違う。
きっと、幸村さんという人はそれを一番分かっている筈、だって自分の身体のことなんだから。
それでも彼は挑んでくるのか…こちらの選手の向こうに、また、同じ自分の影を見つめながら…
「…?」
一人の若者が立ち止まる。
年に一度…そして彼にとっては最後の宴の舞台となる会場の外での事だった。
入り口から入ろうと思っていた時、視界の陰に何か動くものが見えたのだ。
何気なく…本当に大きな意味もなく、そちらへと視線を動かすと、ゆらゆらと揺れる黒いおさげが見えた。
腰まである長い黒髪のおさげをした一人の少女が、会場の周囲に植樹されていた木々の内、一本の木の下で上を見上げながら身体を揺らしている。
(へぇ…長いおさげだな)
あんなに長いおさげは初めて見る…と、若者は暫し足を止めて相手を眺めた。
(あ……困ってる?)
自分より明らかに幼い少女は、角度を変えて表情を伺うと、明らかに何かに困惑している様子だった。
何に対して困っているのかは分からないが、彼女は先程から自分が見ている前で、木の下で上を見上げては辺りをきょろきょろして見回したりと、非常にせわしない動きを繰り返していた…飽きもせずに。
ただの通りすがりであれば、奇妙だとは思いながらも、さして注意を払うこともなく、そのまま放っておいただろう。
しかし…何故か若者はそうしなかった。
ちらりと自分の腕時計を見て、彼にとっての『タイムリミット』までもう少しの猶予があることを確認すると、男はふいっと爪先の向く先を会場からその少女へと変えた。
肩にテニスバッグを背負って、しかし軽々とした足取りで彼女の背後に移動すると、彼もまた少女に倣って上を見上げる。
まだ朝とも言える時間…夏の日差しは既に強く、木漏れ日とは言うもののそれは若者の瞳を強く刺激した。
しかし、それさえも自分にとっては心地よいというかの如く、若者は口元にうっすらと笑みすら浮かべていた。
「……どうしたの?」
「っ!?」
いきなり背後から声を掛けられた少女は、バネ仕掛けの機械人形の様に勢い良く振り返り、相手の姿を確認する。
少女は、少し前にここに車で到着した、竜崎桜乃だった。
無論、彼女の事を若者は全く知らないし、桜乃もまた、男とは完全な初対面。
ただ、互いの着ている服が、互いの属する学校だけを示してくれた。
(あ…この人、立海の服、着てる…)
(青学の…制服だな…)
二人がそれを認識するまでは約二秒…そしてそれから三秒は、沈黙の時間だった。
「あ…あのう…」
「ごめんね、いきなり声を掛けて、驚かせちゃったかな」
伏目がちに、小さな声を出した少女に、若者は先に優しい声で詫びた。
若者の黒髪は肩に付くか付かないかという長さでゆったりとしたウェーブを描いており、その身体は長身痩躯…しかし、無駄に痩せている訳ではなく、よく見ると引き締まった筋肉が、露になっている腕に見て取れた。
すらりとした見た目もそうだが、身体の各部のバランスも、まるで著名な彫刻家が削りだした名作がそのまま現実世界に命を吹き込まれたような…そこまで言ったら言い過ぎだろうか、しかし…
(うわぁ…凄く綺麗な人…)
身体だけではなくその美麗な顔立ちも、まるで人が理想とする一つの形を顕している様で、桜乃はすっかり彼の微笑みに目を惹き付けられてしまった。
「あの…すみません、私こそ、失礼しちゃって…」
先程、相手に対して驚くあまりに、勢い良く身体を避けてしまったことを言っているのだろう。
どうしたら詫びることが出来るだろうと思い悩んでいる表情に、相手の男は苦笑して首を振った。
「気にしないで、びっくりさせたのはこっちだから」
そう言いながら、若者は一歩だけ踏み出して、桜乃に近づいた。
(小さいな…一年生かな…?)
小さいだけでなく、とても細くて色が白い…自分も長い病院生活で肌はすっかり色が薄くなってしまったが、彼女はその上をいくだろう。
さりげなく観察している若者の前で、桜乃は困惑しているのか、恥ずかしがっているのか、小さな身体を更に小さくして、僅かに俯いている。
(…ふぅん)
心の中で小さく唸る。
(人見知りする子なのかな……可愛いのに勿体無い)
無論、初対面の子にそんな軟派な事を言うつもりはさらさらない男は、心の中での感想に留めて、代わりの質問を投げかけた。
「…さっきから、上を見ていたみたいだけど…どうしたの?」
「あ…」
そんなに目立っていたんだ…と改めて桜乃は恥らったが、すぅと木の上を指差しながら相手に答えた。
「あの…ハンカチが風に飛ばされてしまって…多分、この木の枝の何処かに引っ掛かってしまったと思うんですけど…なかなか見つからなくて」
「ハンカチ?」
「はい…」
成る程、だからあんなに上ばかりを見ていたのか…困っていた表情の理由もそれで分かった。
「…エノキだね」
「え…?」
「ああいや…この木だよ。榎って言うんだ…夏の木って書くんだよ」
男性には珍しく、樹木の名前をすらすらと言いながら、若者はバッグを肩から下ろして桜乃に倣って上を見上げ始めた。
「あの…?」
「…少し時間があるから、見つけるの、手伝ってあげるよ」
「え! でも、悪いです…応援にいらっしゃったんでしょう?」
「……ふふ、まぁね」
まさか、立海の主将が自分だとは思っていないらしい少女に、若者は…幸村は笑った。
確かに、戦いの時までもう少し…しかし、今はこの娘の探し物に付き合いたい気分だった。
決勝の試合のことばかり考えていた今の自分は、やけに身体が固くなっている…危険だ。
過度の緊張は寧ろ動きを鈍らせる素因にもなりかねず、幸村はどうしたものかと考えていたのだが、丁度そこにこの娘が現れた。
立海テニス部と深い関係もなく、自分の事を知らず…テニス会場で、テニスに関係しない事でこうして呑気に話せる。
こんな場所にあって、こんな人物はそういない。
少しはこれで気が紛れるかもしれない、幸いこの子は、自分が苦手とするような女性ではないようだし…
「でも、それを知ってしまった以上、多分、試合が始まっても君のハンカチが気になってしまうだろうからね…少し付き合ってもいいかな」
「あ…はい、それは構いませんけど…あの、ごめんなさい」
ぺこりと小さな頭を深く下げて、桜乃は詫びた。
「どなたかも知らない方に、気に掛けて頂いて…」
「…!」
今時珍しい程に奥ゆかしい娘を見て、幸村は軽く目を見開き、ふ、と優しく微笑んだ。
「いいんだよ、俺が好きでやるだけだから」
付き合いづらい人間であれば更に神経はささくれ立つだろうが…この子で良かった。
彼は張り詰めていた心が、ゆっくりと心地よく緩んでゆくのを感じていた…
「あ、あそこにあるの、そうじゃないかな」
「え!」
四つの目を駆使してハンカチを探していた結果、最初にそれを発見したのは後から参加した幸村だった。
彼が指差した先…数多にある葉が視界を邪魔していたが、その指の指し示す向こうに、確かに細い枝に引っ掛かって揺れている白い布地が見える。
「あ…多分、あれです…けど…」
見つかったものの、ハンカチは木のかなり高い場所にあり、しかもあの枝の細さでは、登って取る事も難しいと思われた。
強い風が吹いたら吹き飛ばしてくれるかもしれないが、いつまでもここで当てのない風を待つわけにもいかないし、吹いたところで何処に飛ばされるかも分からないし…
「うーん…」
それでも桜乃は、つい無意識に榎の幹をじっと見つめてしまった。
登るだけ登ってみようか、という無謀な考えがちらりと頭を過ぎったが、それはすぐに隣の若者の苦笑で止められてしまう。
「…お嫁にいけなくなっちゃうよ」
「う…っ」
確かに…セーラー服で木登りなんてしてしまった日には、後には後悔しか残らなそうだ。
でも、折角見つけたのに…
うーんと、再び上を見上げて桜乃が熟考していると…
ぽ―――ん、ぽ―――ん、ぽ―――ん……
「?」
聞き慣れた音…
振り返ると、幸村が自分のテニスバッグからラケットを取り出し、手持ちのボールを軽く地面との間で弾いていた。
(なに…?)
もしかして、ボールでハンカチを取るつもりなんだろうか…でも、あんなに枝葉が重なっていて、ピンポイントで狙うのは先ず無理だ。
それに、角度を変えて、今彼がいる場所から打ったとしても、今度はハンカチのある場所なんか殆ど見えていない筈だし…悪戯に枝を打つだけに終わるかも。
しかし…
「…え」
ぽんっと一際強くボールを地面に打ちつけて、それをバウンドさせ…
ゆっくりと落下してくる球体を見据えたまま、幸村は実に自然な動作でラケットを後ろに振ってほんの半瞬静止する。
視線が、ボールと木の上の一点を交互に確認した時、幸村の表情が一変した。
「!?」
柔和な顔立ちが、まるで鋭利な刃物を思わせる冷たさを宿した瞬間を見届けた時には、既に彼はラケットを振り終わっていた。
(…ウソ…スイングが、まるで見えなかった…)
一体、彼は今、何をしたの…?
呆然としている桜乃に、若者の言葉が優しく届けられた。
「あ、ほら、ハンカチ」
「え…」
幸村が、ラケットを握っているのとは反対の手で桜乃の背後を指し示し、そちらに相手が振り向いた時、ひらりとハンカチが宙を舞い降りてくるところだった。
「あ…」
慌てて走り寄り、新たな風でそれをさらわれる前に、彼女はしっかりとそれを自分の手に取り戻した。
しかし、今はハンカチを取り戻した喜びよりも、先程見せた男の技の方が気になって仕方がない。
「あの…」
「ああ…ボールは何処かに行っちゃったね、流石にそこまでは考えてなかった」
「え…」
「まぁいいか…悪戯に木の枝を傷つける訳にはいかなかったし…」
簡単に…実にあっさりとそう言うけれど…
(…この人…本当に凄い人だ!)
本当に、枝葉を傷つけないで…ボールが起こす風圧だけで、ハンカチを枝から外してしまった。
しかもあんなに見えにくい場所から…僅かな誤差すらも許されなかった筈なのに…!
(立海って…)
ぎゅ、とハンカチを握り締め、微動だにしない桜乃に、幸村がどうしたのかとゆっくりと近づいた。
「…どうしたの? ハンカチ、汚れてしまったかい?」
懸念して声を掛けると、ぱっと顔を上げた桜乃が、興奮も露に幸村に言った。
「立海って、ホントに凄いですね!!」
「は…?」
「びっくりしました…! こんなに凄い技をあっさり使える人…青学でもレギュラーの皆さんぐらいです…」
「そ…う?」
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