びっくりしたと言われている幸村も、びっくりしている真っ最中だった。
 初めて、惜しみの無い賛辞と共に桜乃の笑顔を見せられて…
(…この子)
 自分が思っていたより、ずっと可愛い…
 伏目がちに恥らい、俯いている時も可愛いとは思っていたけど…こうして笑っていると、まるで艶やかな花が綻んでいる様だ。
「…役に立てて、良かったよ」
 上辺の挨拶ではなく、心底そう思った。
 この笑顔を咲かせたのは自分…そう思うと、やけに嬉しい、誇らしい気持ちになってくる。
「…凄いですね、立海って……部長の幸村さんっていう人も、きっと物凄く強いんだろうなぁ」
「…!」
 不意に出て来た自分の名前に僅かに動揺した幸村だったが、そこは黙って相手の言葉を静かに聞き、頷いた。
「…立海の部長の名前を知っているんだ?」
「おばあちゃんから聞きました。『神の子』って呼ばれるぐらいに強い人だって」
「…ふぅん」
 軽く頷きつつ、ラケットのガットを指で引っ張る幸村の前で、桜乃は実に楽しそうに話した。
「それできっと背が二メートルを越していて、物凄い大声で、ボールを手品みたいに操って、暴走したら変身するんじゃないかって…」
「………」
 俺ってもしかして青学ではそんなイメージなんだろうか…?
 首を傾げつつ沈黙し、名乗り出ようか出まいか真剣に悩んでいたところに、再び桜乃が声を掛けた。
「あのあの…」
「ん…え?」
「…部長の幸村さんに伝えてくれませんか? 頑張って下さいって」
「…え?」
「決勝戦…頑張って下さいって、伝えてほしいんです」
 そう言われて、思わず幸村は改めて少女の制服を見直してしまった。
 しかし、何度確認しても、確かに彼女は対抗する青学の女子だ…間違いはない。
「君は…青学だよね」
 念の為に、確認する。
「はい」
「青学なのに…立海の応援をするの?」
「……うーん、立海の応援と言うよりは…幸村さんの応援かな」
「…知らないのに?」
「少しだけ、おばあちゃんから聞いたんです…御病気のこととか」
「…ああ……」
 過去の辛い記憶を呼び覚まされたのか、少しだけ幸村の表情が翳り、その笑みに苦味が加えられる。
 何だ…そういう意味の応援か…
「…幸村部長は、そういう同情の気持ちは喜ばないと思うよ」
「私もテニス、するんですよ」
「…?」
 やんわりと拒絶しようとした相手に優しく微笑まれ、男の唇と目線が止まる。
「…全然、初心者ですけど」
「…君が、テニス?」
「はい…だから、テニスが楽しいって気持ちは少しは分かっているつもりです…それが出来なくなった辛さというのも、ほんの少しだけでしょうけど…分かります。だから、幸村さんが、立海の部長さんが、病気を治してまたテニス出来るようになったのは、凄く嬉しいんですよ」
「……」
 同情ではない…もっと大きくて、重くて、尊い気持ちをこの子は『幸村部長』に抱いている。
 まだ知らない自分に、抱いている。
(この子……一体…)
 見ず知らずの相手に、ここまで心を向けることが出来るこの子は、何者なんだ…?
 幸村は、明らかに相手に対して興味を覚え始めている自分に気が付いた。
「私は青学で…幸村さんは立海ですけど…同じテニスをしていたら、あまり関係ないと思います。流石に今日は、そうは言えないかもしれませんけど…少なくとも私は応援者ですから、青学も立海も、皆さんが良いプレーを出来るように、応援するだけですよ」
「君は…」
「それに…」
 誰、と尋ねようとした幸村の小さな声に気付かず、桜乃はにこりと笑って締め括った。
「…こんなに優しい部員さんを指導されている方ですもん…幸村さんって、絶対に良い人です!」
「!!」
 疑念の欠片も無くそう言い切った少女に、幸村が身体を硬直させてしまった時、それと同じくして会場からアナウンスが聞こえてきた。
「あ、いけない…私もう行かないと…!」
 はっと我に返った桜乃は、慌てて幸村に深々とお辞儀をした。
「あのっ! ハンカチ本当に有難うございました!! お互い、応援頑張りましょうね!」
「あ…」
 最後まで、眩しい笑顔で……
 その小さな身体を軽やかに翻して、少女は会場へと走り去ってしまった。
「……」
 残った幸村は、ラケットを下ろした状態で暫くその場に佇んだまま…動けなかった。
 何だろう、とても大きな形容しがたい感情がぐるぐると頭の中を渦巻いて…回路と身体とのバランスが上手くとれないロボットみたいだ。
 張り詰めていた神経は緩んだけれど…それより大きな問題が生じてしまった…今度は身体ではなく心に。
「……どうしよう」
 胸を押さえ、苦しそうに呟いた。
 今から試合なのに…分かっているのに…彼女のことが気になって心が乱される…
 名前さえ聞けなかった…知りたかった筈なのに、彼女の笑顔に見蕩れていた所為で……
 学校も違い、名前さえ分からない…ならもう、会えないのだろうか…
「…ダメ、だよ、精市…集中しないと」
 心の苦しみを必死に押し殺し、彼は自身に言い聞かせた。
「…彼女は、俺の事も、応援してくれるんだから」


 そして、決勝戦がいよいよ始まろうとしていた。
「精市、大丈夫か?」
「ああ、弦一郎…ようやくここまで来られたね。俺達の悲願までもう少しだ、頑張ろう」
「…精市?」
 ベンチに座り、静かに試合の開始を待つ部長に、参謀の柳が不思議そうな視線を向けた。
「…何となく、いつものお前より随分と気が張っている印象を受ける…本当に大丈夫なのか?」
「決勝戦だからね…気を張るのは当然さ」
 問題は無い、と参謀の意見を一蹴して、幸村は目の前に広がるコートを、それだけを見ている。
 それしか、考えないようにしていた。
 ふと我に返れば、あのおさげの少女を思い出してしまいそうだった。
(俺は…勝たなきゃ…)
「……」
 そんな部長の様子をちらりと見た銀髪の男、仁王は、何も言わずに席を立ち、ベンチの裏へと足を向ける。
「仁王? 何処に行く」
「もう少し時間はあるじゃろうが…狭い場所に長くおったら息が詰まりそうじゃよ。少し外の空気を吸いにのう」
 真田の注意をひらりとかわして、仁王はさっさと裏から関係者通路へと逃げてしまった。
「あー、やっとれんわ。何じゃ、あの異様に張った空気は……痛々しくて見ちゃおれん」
 しかも原因が分からないとなると流石の自分でもお手上げだ。
(昨日までは全然そんな素振りは無かったのにのう…)
 どうにも気に食わん…とすっきりしない思考を巡らせたまま、当て所も無くただ前へと歩いていた時だった。
『ここから先は、立海選手しか入れないんだよ、悪いけど…』
『そうですか…困りました』
「ん?」
 誰かと誰かの話し声が聞こえ、すぐに彼はその正体を知った。
「おい、何しとるんじゃ?」
「あ…」
 通路の入り口に立っていた部員の一人が、部外者の侵入を阻んでいるところだったのだ。
 ここからベンチまでは、基本的に立海の関係者…レギュラーしか入れない。
 しかし、今、部員の向こうに立っているのは…
「お前さん、青学の生徒さんじゃな?」
 小さい、幼い顔立ちの少女だった。
 随分と長いおさげが目につく相手は、銀髪の男に呼びかけられてそちらへと視線を向ける。
「あ、貴方は…ええと…詐欺師さん?」
「……仁王じゃ」
 多分、関東大会にも来ていた生徒だな…と思いつつ、仁王は一応訂正を入れてみた。
「何じゃ? ウチに用かの?」
「あのう…届け物があったんですけど…その、私、相手の方のお名前を聞きそびれてしまってて…」
「届け物?」
 何だろう…けど、少し気を紛らわすことは出来そうだと、詐欺師は相手の話を聞こうとその場に構えた。
「物凄くテニスが上手い人です…高い木の枝にボールを当てずに、風圧だけでハンカチを取って下さった…神業みたいな腕をお持ちの方」
「ほほう…面白いのう」
 本当に面白い…そんな事を成した奴が立海に……まぁレギュラーなら出来そうじゃが。
 思う仁王の前で、少女は続けた。
「でも凄く親切で優しい方でした…失礼かもしれませんけど、まるで女性みたいに綺麗な顔立ちの…」
「……」
 思い当たる節が…有り過ぎる。
「何じゃつまらん…もうシンキングタイム終了か」
「はい…?」
 はぁ…とため息をついた銀髪の男は、ぐっと腰を屈めて少女の目線に自分のそれを合わせると、指で自分の顔の横にウェーブを描いて見せた。
「…ソイツ、黒髪でこーんな感じのくせっ毛じゃなかったかの?」
「あ…あ! そう、そうです!!」
(確定じゃ〜)
 心の中でそう言って、仁王はひょいっと自分の左手を出した。
「成る程のう、なら、分かった…届け物は俺が預かって…」
 言いかけた唇がはた、と止まり、その視線はそのまま青学女子へと固定された。
 待てよ…もしや…いや、可能性は低いが…もしかして、幸村のあの違和感の原因は…?
「……それも…面白いのう」
「?」
 ニヤッと笑った仁王は、ちらりと傍にいた他の非レギュラー達に断った。
「すまん、コイツ俺が連れて行くけ、ここは見逃してやってくれんか?」
「ええ?」
「いいんですか? だって青学の…」
「今更スパイして何しようっちゅうんじゃ…責任は俺が取るんじゃ、ええじゃろ、別に」
「はぁ…まぁ、仁王さんが言うなら俺達は…」
 レギュラーの許可が下りた以上、自分達が口出しをする理由はない、と相手方も納得したところで、仁王はぐいと少女の腕を掴んで引いた。
「細い腕じゃの〜…お前さん、ちょっとこっちに来んしゃい」
「は、はい?」
「特別じゃ、ソイツに会わせちゃる」
「!?」
 試合が始まる前に…と、仁王は急いでベンチへと彼女を連れて行く。
 そして、裏で待たせたところで、幸村の傍へと軽いステップで寄っていった。
「幸村」
「お帰り仁王…気分転換は出来た?」
 尋ねる相手に、仁王はこっそりと耳打ちした。
『お前さん…今日、青学の女子に何ぞ恩を売ったかの…』
 ぴくん…っ
 微かに震えた相手の肩で、詐欺師は確信する。
 間違いない…彼の、この異常とも言える雰囲気の原因はあの娘だ。
『その子が、お前さんに届け物があると言って来とるよ…そこの裏で待っとるが追い返すか? 一応、部外者じゃからの』
「……必要ない」
 静かに言った幸村がベンチから立ち上がった。
「受け取ればそれで済む…俺が行くよ」
「…そうか」
 みんなが不思議そうに見守る中で、幸村はゆっくりと裏へと回った。
 その先にいたのは…
「あ…」
「…こんにちは」
 探し人の姿を見て完全に固まってしまった少女……桜乃の前で、幸村が微笑んだ。
(え…何で立海のレギュラーメンバーがいるベンチから…この人が…?)
 確か…レギュラーで自分が知らない人はもう…部長の幸村さん、しか…
 呆然とする桜乃の様子を見て、幸村がちらりとベンチ側へと視線を向ける。
「…仁王は、俺の事、何も言わなかったのかい?」
「は…はい…」
「…そう、相変わらず、だね…」
 そう言って、再び桜乃を見下ろして、彼は初めて少女に名乗った。
「改めてはじめまして…立海大附属中学、男子テニス部部長の、幸村精市だよ」
「え……ええっ!?」
 この人が…・幸村さんっ!?
 じゃあ…じゃあ私…そうとは知らずに幸村さんと一緒にハンカチ探して…本人に伝言頼んでたってコト!?
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 かぁ〜〜〜〜っと真っ赤になってしまった少女の顔を楽しそうに眺めながら、幸村は首を傾げた。
「…二メートルじゃなかったから、がっかりした?」
「い、いえそのっ…! ほ、本物の幸村さんが、まさかあんなに優しくて格好いい人だったなんて…うああ!」
 また本人を目の前にして、とんでもない発言を〜〜!と、慌てて桜乃が口を手で塞ぎ、再び幸村は笑った。
 嬉しかった…彼女が自分をそう評価してくれた以上に…また会えた事が。
「…有難う」
「う……あ、その…私、届け物をしようと…」
 何とか恥ずかしさを堪えながら、桜乃はポケットを探り…一個のテニスボールを差し出した。
「え? これって…」
「あの時、幸村さんが使ってくれたボールです…やっぱり申し訳なくて、捜して来たんです。少し汚れてしまってますけど…」
「……」
 まさか戻ってくるとは思っていなかったボールを受け取り、彼は桜乃を気遣った。
「ハンカチよりも、余程大変だったろうに…」
「大丈夫です。あんな神業は使えませんけど…私、球拾いは得意なんですよ」
 にこりと微笑んで言った桜乃の言葉が、幸村の心に深く染みた。
 本当にこの子…一体……
「……あの…頑張って下さいね、幸村さん…応援してますから」
 伝言で言ったことを、桜乃は恥ずかしそうに繰り返し、敵の主将にエールを送る。
 今度は人伝いではなく…本人にしっかりと。
「…ああ、分かっているよ」
 微笑み、頷いた幸村に安心したように頷きを返した桜乃は、そこでまた深くお辞儀をした。
「…じゃあ、失礼します」
「待って」
 ぱしっと手を掴み、幸村はあの時果たせなかった望みを今度こそ叶えようと少女を捕まえる。
「え…?」
「……君は、誰?」
 俺の心にこんなに深く入り込んできた…君は一体何者…?
「俺の名前だけ知っているのは…フェアじゃないよ」
 拘束された桜乃は、ふわ、と相手に軽やかな動きで身体を向けて、はにかみながら笑った。
「そ、うでした、私、うっかりしてて……私は…竜崎桜乃」
「竜崎…桜乃……もしかして、竜崎先生の…」
「はい…孫です」
「…そうだったんだ」
 意外に、近い縁だったのかな…? けど、そうか…
 それが…君の名前、なんだね…
「…ねぇ、竜崎さん…いきなりこういう事を言うのは何だけど…」
「はい…?」
「…試合がここで終わっても…俺はまた君に会いたい、青学も立海も関係なく」
 君という人に、会いたい……
「?」
 いきなりそう言われて、桜乃は一瞬きょとんとしたが、それからすぐににこやかに笑って頷いた。
「はい、お会いしましょう」
「うん…楽しみにしてる」
 そして彼は、少女を静かに笑って見送った。
(…多分、まだ分かってないんだろうな……俺の言葉の意味)
 自分だって初めてだ…その日に会って……そのまま恋に落ちるなんて経験。
 今日は青学と立海で戦わなければならないけど…君だけは、その柵から離れた場所にいてくれる。
 それが俺を…強くしてくれる。
 まだ病から癒えたばかりのこの身体…何処までついてきてくれるか分からないけれど…
 せめて精一杯戦おう…君の励ましに恥じない戦いを






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