貴女が傍にいるのなら


「今日からいよいよ高校生だなぁ…また中学の時みたいに学級委員するの? 幸村」
「う、ん…別にしたいとは考えてないけど…誰かが立候補したらそれで任せようかな」
「へぇ、お前なら結構上手くみんなを取りまとめられると思うけどなぁ…下手したら教師よりも」
「それは買い被り過ぎだよ」
 高校に進学して初めての始業式の朝、新たな教室で幸村精市は、見知った同級生とそんな会話を交わしながら穏やかな笑みを浮かべていた。
「ところで新しい担任知ってる? 今年赴任してきた女性教師なんだってさ」
「へぇ、そうなんだ」
 全くそういう事に興味がなかった幸村は、当然知らないとばかりにそんな相槌を返すに留まった。
「ったく、相変わらずテニス小僧なんだからさ…ちっとは異性に興味を持つとかしねぇの?」
「テニスの方が楽しいからね」
 即答したところで、他のクラスメートががらっと扉を開けて飛び込んでくる。
「おい! 先生来たぞ!」
 その一声で、教室の生徒達がざわざわと騒ぎながらも自分の席へと戻ってゆく。
 大体が席に着席したところで、かつかつ…と廊下を歩く音がこちらに向かって響いてきて、からりと扉が開かれた。
「!」
 頬杖をついていた幸村の瞳が入室した人物を捉えると、彼の頭が掌から離れ、代わりに視線が相手から離れなくなった。
 そんな彼に気付くこともなく、教師は静かに入室して教壇へと登った。
「お早うございます、皆さん。そして、はじめましてですね」
 柔らかで優しい声が教室に響き、生徒達の視線は幸村と同じ様に相手へと注がれる。
 或る生徒は興味…また或る生徒は驚愕の視線を以って…
「このクラスの担任になりました、竜崎桜乃です。今年から立海に来ましたから、この学校については皆さんの方が先輩ですね…どうぞ宜しくね」
 黒い艶々とした髪を腰まで伸ばした若い女性…星が煌く闇夜を閉じ込めた様な輝く瞳と赤い唇、透き通るような白い肌、ほっそりとしながらも女性らしい滑らかで丸みを帯びたスタイル…
 薔薇の様な派手さはないが、まるで野に咲く白百合の様な清廉な姿の教師に、生徒達は皆、一斉に注目した。
「これから早速始業式の為、講堂に向かいます。戻ってきたら、それぞれの自己紹介と、クラスのみんなの役割を決めましょうね」
「……」
 それから始業式で、校長がどんな訓辞を述べていたのか…クラスメート達にどんな名前でどんな趣味の人がいたのか…まるで覚えていない。
 しかしその日、幸村は自身から立候補し、学級委員長になることが決まった…


「よいしょ…っと」
 教室に持って行く為のプリントの山を抱えて、桜乃は職員室から出て行く。
 立海に赴任して二年を過ぎる月日が経過しても、桜乃は教師としての信念を少しも衰えさせることはなく、生徒達と良い信頼関係を結んで日々を過ごしていた。
 今年は、自分が初めてこの学校に来た時、一年だった生徒達が最年長組になる年…そう思うとやはり感慨深いものがある。
(教師になって早々に担任なんかしてたけど、みんな良い生徒で良かったなぁ…他の学校では色々と大変な問題もあるみたいだけど、ここは本当に平和だもんね…)
 自分みたいなおっちょこちょいでも、周りの人達が助けてくれたから、この数年で少しは自分も成長出来た気がする…助けてもらっているのは今も昔も、だけど…
(ずっと同じクラスで長い付き合いになっている子達も結構いるもんね…中でも特に…)
 ひょいっ…
「え?」
 いきなり抱えていたプリントを目の前の誰かに取り上げられ、空になった両手を遊ばせながら桜乃は顔を上へと向けた。
「あ、幸村君…」
 丁度思い出していた相手が目の前に現れ、少し驚いたものの桜乃はすぐに笑顔を浮かべた。
「クラスの配布用のプリントですね…俺が持って行きます」
 自分より年下でも、自分より遥かに長身の若者がそこにいた。
 緩やかなウェーブを持つ黒髪と、穏やかな瞳、女性を思わせる美麗な面を持つのは、立海のテニス部で多大な活躍をしている若者、幸村精市だった。
 スポーツ万能で勉学にも秀で、そして人当たりの良い優しい性格ともなれば、モテない方がおかしい。
 現在の立海大附属高校で、最もモテているだろう人物がこの男…の筈なのだが、彼はこれまでただの一度も恋人を持ったことも、女子と付き合ったことも無いという噂だった。
 小さい頃からテニスに夢中で、暇さえあればラケットを握っているという噂もあり、おそらく今はテニスが恋人…というところなのだろう。
 そして、そのテニスに培われた体力は、彼のみでなく自分にも多大な恩恵を与えてくれていた。
「いつもごめんね? 雑用ばかりさせて…」
「いえ…学級委員長ですし、これもトレーニングです」
「熱心だね、偉い偉い」
「ふふ…」
 何故なら、彼は優秀なテニスプレーヤーであると同時に、優秀な学級委員長でもあるからだ。
 荷重が一気に減って足が軽くなった桜乃に遅れることもなく、すたすたと幸村は廊下を並んで歩いてゆく。
 そんな二人の様を、通り過ぎる生徒達が見つめている。
 幸村もそうだが、実は桜乃本人も十分にモテる要素は持っていた。
 若く美しくそして生徒達に優しい…優しいだけでなく、時には厳しく指導する心の強さも持っている。
 面と向かって言われた事がないから知らないのかもしれないが、彼女は立海の男子生徒達の中では最も好感度が高い、所謂マドンナなのだ。
 見目麗しい二人が並んで歩いている光景は、それだけで結構目の保養になる。
 しかし、桜乃もまた、これまで彼氏という存在を持った経験はなかった…
「幸村君とも長いお付き合いだね、結局これで三年間、同じクラス…しかも連続で学級委員長だもの」
「ですね…みんなの役に立てれば、嬉しいです」
「大丈夫、立ってるよ。幸村君は優しいし、クラスのみんなのこともしっかり考えてくれるもの…私もこうやってしょっちゅう助けてもらってるし…感謝してる」
「ふふふ…どういたしまして。三年間、先生と一緒のクラスになれて嬉しいですよ」
「あはは、そう言ってもらえると、教師冥利に尽きるなぁ」
 この二年の間、学級委員長という立場の彼は、他の生徒達より遥かに長い時間自分の傍にいた。
 こうした雑用の手伝いの他、今は採点の手伝いとかホームルームの議題の検討とか、殆どの教師としての作業の補佐に関わってきているのだ。
 そしてそれはどうやら、三年目の今年も変わらない様だ。
「今日は他に何か手伝うことはありますか?」
「ううん、後は教師が書かないといけない書類のまとめぐらいだから大丈夫。気にしないで、テニス頑張ってらっしゃい。応援してるからね?」
「…はい」
 こちらを見下ろし、微笑みながら返事をする教え子に、思わずどきりとする。
(うわ…だめだめ…やっぱ綺麗な顔してる〜)
 この二年もの間、何度この麗しい笑顔にドキドキさせられたことか…そして三年目は、何回同じ経験をすることになるのだろうか?
 もし教師ではなく生徒として彼に出会っていたら、先ず間違いなく自分も数多い彼のファンの一人になっていたことだろう…悲願が成就することはなかっただろうが。
(でも勿体ないなぁ…こんなにハンサムなのに、恋人いないなんて…)
 生徒のプライベートにまで口を挟むのは控えるべきだろう、それが犯罪に結びつかない限りは。
 だから、こんな事を本人に言うつもりは全くないけれど…
(今のご時世、下手なコト言ったらセクハラだもんね…)
 ましてや、教師が生徒にそんな事を言うなど、ありえない話である。
「どうしたんです? 竜崎先生」
「…え?」
 不意に幸村が尋ね、桜乃はそこで我に返った。
「ため息ついて…心配事ですか?」
「え? 私、ため息ついてた?」
「ええ…立派なものを」
「そ、そお? おかしいな…大したことじゃなかったんだけど…」
「俺で良かったら、相談に乗りますよ」
「あはは、気持ちは嬉しいけど、流石に教え子に相談に乗ってもらう訳にはいかないでしょ。本来は逆なんだから…」
「…え?」
 きょとんとする幸村の隣で、桜乃は軽く腕を組んでうーんと唸る。
「幸村君はしっかりしてるし、凄く頼り甲斐があるけど、やっぱり私の可愛い教え子だもん。だから、困った時や寂しい時は、いつでも頼ったり甘えたりしていいからね?」
「……」
 暫しの沈黙の後、幸村は桜乃とは逆の方へと顔を向けて…
「…っ」
と肩を震わせつつ軽く吹き出してしまった。
「うわああぁぁん! どうせ頼りないですよぉ〜〜〜〜〜!!」
 手を振り回して傷ついた教師が嘆き、生徒は謝りながらもまだ笑みを殺せずにいる。
「す、すみません…!」
 そんな微笑ましいやり取りをしながら、二人はそれからも仲良く教室へと並んで歩いて行った……


 そんな或る日の昼休み…
「じゃあ、次のホームルームで、次回の学級研究の内容について意見をまとめましょうか。良い意見が沢山出るといいね」
 職員室で、桜乃はいつもの様に幸村とクラスの議題について話し合っていた。
「はい…クラスのみんなには俺から伝えておきます」
「うん、御願い…後は、小テストの採点だけど、これは特に急がないから明日で良ければ…」
「そうです…」
 『そうですね』と幸村が答えようとした時、その二人の処に、別の女性教師が小走りに近づいてきた。
 桜乃と同じ年に赴任してきた、彼女とも同年の教師だ。
「竜崎先生、竜崎先生!」
「あ…はい?」
 少し興奮気味に近づいてきた相手に桜乃が顔を上げると、向こうはにこにこと楽しそうに笑いながら、彼女に一つの頼みを申し出た。
「今日の合コン、人数が足りなくなっちゃったの〜! だから参加、御願い!」
「ええっ!?」
「……」
 朗らかな表情だった幸村の肩がぴくんと揺れて、その瞳が一瞬鋭いものに変わる。
 彼の前で、桜乃は相手の教師に人差し指を口の前に立てながら注意を促した。
「ち、ちょっと先生…! 生徒の前でそんな事を言ったら駄目ですよ!」
「あ、ごめんごめん! で、今日の予定は? 結構遅い時間までやるから、後から参加しても大丈夫だよ?…」
 どうやら相手の教師は、桜乃よりかなり社交的な性格の様だ。
「竜崎先生」
 横から声がかかり、振り向くと、いつもと同じ様に穏やかな笑顔の幸村が桜乃達を見つめていた。
「先程の小テストの採点ですが、これから学級研究が始まると色々と時間が取られることになると思いますから…やっぱり今日の放課後に済ませてしまいましょう。他にも幾つか話し合いたいことが…」
「あ…そ、そだね…」
「それでは、放課後になったら職員室に来ますから…採点の準備を御願いします」
「うん…分かった」
 大体の計画が決まったところで、幸村は席を立って軽く一礼し、職員室から立ち去った。
「うーん、いつ見ても格好いいわね、彼も。生徒にしとくのが勿体無いわ」
「もう…不謹慎ですよ? 私達は教師なんですから、あまり生徒の前で…」
「大丈夫よ、最近の高校生ならこの程度の話題は慣れてるんだから」
「そうじゃなくて…」
 そうじゃなくて…最近の生徒じゃなくて、相手はあの幸村精市なのだ。
 普段から品行方正で浮いた話には一瞥も向けない彼にとって、先程の様な話題は尤も縁遠い、下らないものだろう。
 そんな話題に教師が盛り上がっていたら、相手の教師に対する信頼がどれだけ傷つくことか…私に対して、どれだけ失望することか…
「竜崎先生もたまにはそういう集まりにも顔を出さないと、付き合い悪いって言われちゃうわよ? 別に無理やり付き合う必要はないんだし、顔を見せるぐらいはいいんじゃない?」
「う…」
 それは確かにその通りなんだけど…
(…変だな…やたらと幸村君のコトが気になる…こんな教師だって、嫌われてないといいんだけど…)



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