それから昼休みが過ぎ、午後の授業も終わり、約束の放課後になった。
 約束を守り、幸村は程なく職員室を訪れて、桜乃と小テストの採点作業を始めていた。
 これまでも、こういう作業は幾度となく行ってきた、別に珍しいコトでも何でもない。
 しかし、今日の作業は普段のそれとは明らかに様相が異なっていた。
「……」
「……」
 いつもならまだ数人の教師が残っている筈の時間なのだが、今日はみんな用事があったのか、桜乃と幸村の二人だけが職員室に残っていた。
 それは、別に大きな問題ではない。
(…な、何だかいつもより全然静か…気まずいよぉ…)
 問題となっているのは、作業を始めてから今までの、この沈黙。
 普段は幸村と桜乃と、取りとめのない会話を楽しみながらの作業が常であり、そのお陰で単調な仕事でも割と楽しく行えていた。
 なのに、今日は…全くと言って良い程に会話がない。
 こちらから何度となく幸村へと話しかけてはいるのだが、いつもと違って、『はい』とか、『そうですね』といった受身の答えばかりが返ってきて、会話のキャッチボールが成り立っていない。
(うう…やっぱり失望されたのかな…呆れられた?)
 自分の責任ではないのだけれど…言い訳するのもおかしいし…
(…やっぱり、努力して挽回するしかないよねぇ)
 その為には、先ず目の前の仕事をばりばりこなしていかないと!
 腕捲りをして本格的に作業に集中し始めた桜乃に、幸村がちらりと視線を送ったが、彼自身は何も言わず、桜乃本人も気付かず、また暫くの沈黙の時が流れる。
 作業に集中しているお陰か、プリントは次々採点が終わり、積み重ねられていく。
 もうすぐ全ての採点が終わりそうだというところで時計を見ると、もう七時近かった。
「あ、もうこんな時間なんだ…幸村君もお腹空いているだろうから、採点が終わったらもう今日は終わりに…」
 担任の提案を、しかし学級委員長は途中で撥ね付けた。
「議題についてもう少し詰めておきましょう。俺は大丈夫ですから」
「? 幸村君?」
 何故、今日に限って彼はこんなに熱心に…仕事にこだわるのだろう?
 そんなにスケジュールが立て込んでいる訳でもないし…正直自分一人でも出来ることなのに…
(もしかして…私、かなり軽蔑されちゃった…のかな…)
 もう、挽回不可能なところまで…
 ずしっと重い岩が頭の上に乗せられた様なショックを受けていたところに…
 RRRRR…RRRRR…
「あ…」
 机の上に置いていた桜乃の携帯電話が鳴り出した。
 誰かしら、と思いつつそれを取り、通話ボタンを押す…
「もしも…」
『竜崎先生〜? 仕事終わった〜?』
 ボタンを押した途端に、向こうからがやがやと賑やかな場所の雰囲気が届けられ、そしてあの昼休みに合コンに誘った教師の声が聞こえてきた。
 もう始まっているらしい会で、相手は随分とご機嫌の様子だ。
「ち、ちょっと…先生…?」
 こそっと小声になった桜乃の様子で、どんな内容の電話なのか薄々と感じ取った幸村が、再び視線を鋭くして相手の後姿を見つめる。
 普段の朗らかな笑顔とはあまりにも違う、真剣そのものの表情…
 その視線を受けつつも気付くことなく、桜乃は電話の返答に苦慮していた。
「いえ…でもまだ仕事が…はい…いえ、何時まで掛かるかは…」
 言葉を濁しつつ答えていた教師だったのだが、いきなり背後から持っていた携帯電話をあっさりと奪い取られてしまい、言葉そのものも無くしてしまった。
「…え?」
 振り向くと、佇む幸村の姿…右手に奪ったばかりの携帯を持ち、それを己の耳に押し当てて向こうの様子を聞いていた…視線だけはこちらに向けて…
(幸村君…?)
 相手はまだ何かを喋っていたようだったが、結局幸村は一言もそれには答えず、通話ボタンを押して回線を切ってしまう。
「幸村く…」
 更に、電源ボタンを長押しして携帯電話そのものの電源を切ってしまうと、彼はそれを机の上にそっと置いた。
 そして、無言のままにゆっくりと桜乃へと近づき、彼女を自分と机の間に挟みこむ。
「何故、はっきりと断らないんです」
 明らかにいつもと違う相手の様子に、桜乃は戸惑いながら身を机の方へと引き、彼を見上げた。
「あ、あの…ゆきむ…」

 ぐい…!

「!?」
 答えず、男の両腕は桜乃のそれらを掴むと、半ば力ずくで彼女の身体を机へと押し付け、倒してしまった。
「きゃ…っ!」
「…行かせない」
「え…?」
「あんな場所に行って、他の男に笑顔を見せるなんて許さない…」
「あの…? 一体…」
「先生…」
 戸惑う桜乃の眼前に、幸村が顔を寄せる。
 あと数ミリ前に動けば…キスが出来る程に近く…
「っ!! ちょ…」
「俺は…誰にも貴女を奪われたくない」
「え…?」
「誰にも渡さない…俺だけの貴女だ」
 一秒後、相手の言わんとしている事に気付いた桜乃が、一気に頬を朱に染めて絶句した。
(嘘…!)
 だって…幸村君なのに…
 文武両道で、一番モテてて、今まで恋人の噂なんか一つもなかった彼なのに…
 その彼が…どうして私なんか…?
「ゆゆゆ…幸村君…!? あの、私…」
 取り乱し、相手の腕から逃れようと身体を捩らせるも、しっかりと固定された腕はびくともせず、改めて相手が男だという事実を知らしめた。
「え…あっ…」
「『教師だから』…なんて言い訳は聞かない…俺は『生徒だけど』…貴女が好きだ」
「…っ!」
 キスの距離をすり抜けて、幸村は自身の身体も桜乃の身体に重ねる様に倒し、相手の耳元で囁いた。
「最初は、貴女の傍にいるだけでいいと思っていたのに…今はもう、貴女の目が他の男に向けられると思っただけで気が狂いそうになる…」
 ぎゅっときつく桜乃の身体を抱き締めて、幸村は願った。
「…教師だから、と言うなら、生徒の俺に教えて下さい…この感情は、許されないことですか…?」
「幸村君…」
 熱い…恐くなる程に激しい想いを打ち明けられ、桜乃はただ戸惑い、己の感情を持て余す。
 そんな事を言われたら…私まで、おかしくなる…私まで、隠していた気持ちに気付いて…止められなく、なる…
 私は…私だって、教師だったけど…あなたをずっと見ていて…
「私は…」
 教師なのに、他の生徒達よりずっとずっとあなたの事を沢山考えていて…でも、考えないようにしていたのに…
 それが…恋というものだと…
「…う…っ」
「…っ…竜崎先生…?」
 はらはらと涙を零した桜乃に、は、と驚いた様な表情を浮かべた幸村が顔を離すと、相手は瞳を閉じて告白した。
「分からない…許されないことかもしれない……けど、私もきっと…あなたの事が好き、幸村君…」
「先生…」
「ごめんなさい…こんな気持ち、初めてだからよく分からないの…情けないね、先生なのに」
「…っ」
 俺が…先生にとっての…『初めて』…?
 『初めて』と言われ、幸村の背中にぞくっと震える程の衝撃が走った。
 テニスで強敵に出会った時の高揚感に似ている…しかしそれ以上の溢れ出す感情を、自分は止める術を知らない…
 そう、本当にテニスしか知らなかった…人をこんなに好きだと、愛おしいと想うことなんて、無かった…
 何て大きな感情が、自分の中にあったのだろう…けれど、少しも恐くない。
「貴女が好きだと言ってくれるなら…俺は誰にも許しなんて求めない」
 貴女が全てなのに、そんなもの、必要ない…
「ゆきむらく…」
 今は言葉すらも邪魔だとばかりに、幸村は桜乃の唇を己のそれで塞いだ。
 互いにとって初めての経験だったが、幸村は相手の甘い唇とその感触を自分だけのものと言う様に、何度もそれを塞ぎ、想いを伝える。
「ふ…っ」
 愛しい女の甘やかな吐息に、また、ぞくぞくと男の背中に震えが走る。
 軽く唇を離し、間近で見つめた相手は、瞳を閉じながら上気した顔で震えていた。
 年上の筈なのに…何故、こんなにも可愛いのだろう…?
 激しい衝動を胸に渦巻かせながらも、まるでそれを楽しむように幸村は微笑み、再び顔を相手に寄せる。
「凄く可愛い…先生…」
「あ…あ…っ」
 幸村と同じ様に、桜乃もまた、背中を震わせて甘く危険な麻薬に酔ってゆく。
 うっすらと涙の味がする桜乃の頬に、男の唇が触れ、舌先が触れる。
「このまま、食べてしまいたいくらいに…」
「や…っ」
 ちゅう…っ
 仰け反った白く細い首筋に、男の唇が触れたかと思うと、ちり…と小さな痛みが生じた。
 何をされてしまったのか…何となく理解出来たが、拒む事は出来なかった。
 まるでキスをされた箇所から力を吸い取られてしまった様に、身体が動かない…
 くたりとしたそれは、すっかり甘い毒に浸され、侵されてしまっていた。
 ぼんやりとした頭で、彼女は白い天井を見上げている。
 少し視線を横に移すと、そこは確かに見慣れた職員室…
(こんな所で…生徒とこんなコトしているなんて…)
 禁忌を犯しているにも関わらず、それすらも今は心地よい刺激となってしまっており、桜乃はそんな自分が恐くなって相手に縋りついた。
「幸村君…っ」
 縋られた相手は、そのまま彼女を優しく受け止め、そっと耳元で囁いた。
「…もう、誰の誘いも受けないで…俺の傍にいるんですよ」
「……う、ん…」
 貴女に好きだと言わせる権利も…言う権利も…俺だけのものだから……
 静かな、互いの声しか聞こえない職員室で、二人は密かに恋の約束を交し合った……




「昨日は結局来なかったのね〜、連絡も途中で切れちゃうし…どしたの?」
「あ、うん…ちょっと充電が足りなかったみたい、ごめんなさい。でも、どうせあれからもずっと残業だったし、参加は無理だったと思うから…」
 翌日、桜乃はいつもの様に出勤し、昼休みにまた昨日の教師から話しかけられていた。
 傍には、椅子に腰掛けた学級委員長が、研究題材をまとめたプリントを片手に穏やかな笑みを浮かべている。
「そうなんだ…あ、じゃあ、次は? 今度の日曜にもまた別の会があるんだけど…」
 本当に社交的だが、教師としてはどうなのか…
 そう思いつつ、桜乃は苦笑いしながら首を横に振った。
 その白い首には、彼女のいつものスタイルにしては珍しく、淡い色のスカーフが巻かれている。
 本当の理由を知る人間は、この世に二人しかいない…
「ごめんなさい、私はパス…って言うか、そんな話は職員室では止めないと」
「んもう、本当に付き合い悪いわねぇ…いい男との出会いに興味はないの?」
「ん…私…もう好きな人、いるから…」
「嘘!」
 頬を染めて告白をした桜乃に女性教師が盛り上がっている背後で、幸村は相変わらず微笑を浮かべたままに座っている。
「ほ、ほらほら、生徒達も見てますから…っ」
「や〜ん、先越された〜〜」
 ぼやく相手を何とか遣り過ごし、ほっと桜乃が息をついたところで…
「お、幸村」
「やぁ」
 職員室に同じく訪れていた一人の男子生徒が、彼の姿を見つけて近づきながら声を掛けてきた。
「何か用?」
「相変わらず仕事熱心だなぁ…なぁ、ところで今度の日曜さ、一緒に合コンしない? お前ぐらいのイイ男がいたら、絶対女子も寄って来ると思うんだけど」
「ふぅん…どうしようかな」
 まんざらでもない答えを返す男の隣で、びたっと桜乃の動きが完全に止まった。
(嘘……まさか…)
 書類を書いていた手が止まり、振り返りも出来ないままに、美しい教師はじっと聞き耳をたてた。
 幸村が沈黙した時間…約五秒…
「…やっぱり止めとくよ、もっと大事な用があるから」
「ちぇ、そっか…やっぱりテニスなんだろ? まぁいいや、じゃあな」
「うん」
 向こうの生徒は、分かっている、という様に苦笑しながら、軽く手を振って職員室から出て行った。
「……」
 一気に緊張が抜けた様にほう…と息を吐いた担任を見つめ、幸村はそっと身体を寄せて笑いながら指摘する。
「…手、止まってますよ」
「っ!!」
 きくっと動揺して身体を強張らせた彼女は、それから少しだけ拗ねた顔で振り返った。
「だ…だって…」
 二人の会話は職員室の中で交わされていたが、他の誰も彼らの話の内容には意識を向けていない。
 いつも通り…優秀な委員長とその担任が、意見や雑談を交わしているのだろうという認識しか、そこにはなかった。
「…幸村君が…引き受けるかと思って…」
「……少しは俺の気持ちが分かった?」
「!」
 好きな人が、知らない誰かと知らない場所で会うという不安が…分かった?
 ささやかな相手の意趣返しにうっと言葉を詰まらせていると、彼は笑みを深くして彼女のすぐ隣に立ち、机を覗き込む様な姿勢をとった。
 それは、自然と桜乃に顔を寄せる形にもなる。
「分かったら、ちゃんと俺の傍にいて下さい」
「…もしかして、幸村君って…」
「?」
 桜乃はこっそりと…小さい声で尋ねてみた。
「…凄くしっかり者に見えていたんだけど…実は、かなり甘えん坊…?」
「ふふ…さぁ、どうでしょうね…じゃあ、それも次の日曜に確かめてみますか? 丁度、研究発表に使う用紙も探さないといけないし…ロール紙とかがいいかもしれませんね。俺、品揃えが良い店を知ってます。案内しましょうか」
 傍の机にいた教師や、その場を通り過ぎる教師、生徒…誰もが、幸村の発言を聞き流してゆく。
 疑問になど思わず、怪しむこともなく…
 その発言の中で、彼がさりげなく桜乃の机に置いてあったボールペンを取り上げ、傍にあったメモ帳に何かを書き込む仕草も、日常の光景として見過ごされた。

『デートしましょう』

「!」
 さりげない秘密の誘いに、かぁっと頬を染め、桜乃は慌てて机脇に置いてあったカップから紅茶を飲む仕草でそれを隠した。
「…どう、ですか?」
「う、うん…そだね…」
 生徒の提案に、暖かな紅茶で顔まで赤くした教師は、こくんと頷いた。
「…御願い…しようかな」






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