異国からの稀人(まれびと)
立海大 スポーツ科学部
「ん〜〜〜〜、終わった終わった」
「お疲れ、桜乃」
その日、夏も間近の爽やかな日光が降り注ぐ教室で、大学生の桜乃は大きなのびをしていた。
夏休みも近いこの時期は、学生みんなが休日の予定を組み始める時期でもあるが、桜乃については特にそれを急いでいる様子は見られない。
「何だか疲れてる?」
「あ、うん、昨日ちょっとおばあちゃんのお買い物に付き合ったんだけど、相変わらず付き合いが広くて…にしてもヒドイのよ? お花屋さんに立ち寄った時に、付き合っている私を放っといて、通りかかった知り合いの人とず〜っと話し込んでたの。まぁ、お花を眺めている分退屈はしなかったんだけど…」
「へぇ、桜乃のおばあちゃんて、元体育教師だよね。そのお知り合いってやっぱ教育関係者…?」
「さぁ、気が付いたら、おばあちゃんもう店の外に出て行っちゃってたから、見てないし」
「相変わらずおばあちゃんの方が元気なんじゃない? 桜乃んトコって…」
「あうう…そうかも」
そんな取りとめもない話をしている時、いきなりがらっと教室の扉が開いて教授が中に慌てた様子で踏み込んできた。
あんなに急ぐとは、何か重要な書類でも忘れてしまったのだろうか…?
「あ、教授…?」
声を出した桜乃に視線を向けた初老の男性は、狼狽も露に彼女に言った。
「あ、あ、良かった、いてくれたか竜崎君! す、すぐに一緒に来たまえ」
「…はい?」
「とにかく、今からすぐに学長室に来てくれたまえ!」
学長室…?
不思議な響きの言葉に桜乃は思わず話していた友人と顔を見合わせた。
そんな場所に呼ばれるような事をした覚えは全くないのだけれど…?
「…はぁ」
しかし、呼ばれた以上、学生である立場の自分は行かなければならないだろうということも理解しており、桜乃は請われるままに頷いた。
それから友人とも別れ、教授に連れられて学長室に向かい、促されるままに一歩を踏み込んだ時…
「…っ」
何とも言えない、緊張感が漂う空間が彼女を包んだ。
学長を始めとする、この大学の主要な立場の大人達がずらりと並び、一斉に彼女へと視線を向けたのだ。
「え…」
「…中へ入りたまえ」
「は……はい」
学長の静かな一言で、はっと我に返った桜乃が絨毯を敷き詰められた部屋へと踏み入り、その足は少し戸惑いがちに学長の前へと向かった。
「…あ、の……」
「名前と、所属を」
「…あ…竜崎桜乃…です。所属は、立海大スポーツ科学部です…」
「…特に研究に力を入れているスポーツは?」
「…テニス、ですが…」
そこまでを聞いたところで、部屋の中にいた要職の者達は、それぞれ顔を見合わせてひそひそと何事かを話し込んでいる。
(な…なに…!? 何が起こっているの…!?)
「竜崎君…君にはこれから暫く、大学の講義を休んでもらう」
「はい!?」
いきなりの通告に桜乃は思わず大声を上げて、そのまま口をあんぐりと開けた。
「あっ、あのっ…私、何かしてしまったんですか…!? てっ、停学!?」
「いや、君には休講の代わりに暫く独自の活動を行ってもらうことになる。無論、その活動に準じている間は出席扱いになる」
「はい…? どういう事ですか?」
まるで話が読めていない桜乃に、白髪が少し混じった、いかにも紳士然としている学長は、優しい瞳をしながら手を組んだ姿で事の説明を行った。
「…実はある人が今この大学を訪れていてね…彼の強い希望で、この大学からヘルプを行う人材を貸して欲しいということなんだ。その彼が、君を指名してきたんだよ」
「ヘルプ…?」
「うむ…こちらとしても、そのヘルプを行うことで、君にも大いに得るものがあるという結論に達した…後は君自身の返答次第なのだが…ああ、彼が来たようだ」
「?」
学長の言葉の終りに重なり、コンコンとノックが響き、かちゃりと扉が開かれる。
「すみません…向こうとの連絡に手間取ってしまって」
静かに…しかしはっきりと響く凛とした声が掛けられ、その場にいる人間達の視線を集めた。
その存在は、視線を向けられながらも、まるで何もないかのようにごく自然に部屋の中へと入ってくる。
おそらく、この堂々とした振る舞いは、桜乃の戸惑いのそれとは雲泥の差だっただろう…
「…!」
「紹介しよう…ウチの学生でもある幸村精市君だ…尤も今は留学中で、英国で殆どを過ごしているが…」
そんな事…言われなくても知っている…
桜乃の頭の中は、今、まさにカオスの真っ只中だった。
幸村精市…!
ウチの在校生ではあるが、既にその名は日本中…いや、世界中に知れ渡っている!
大学に進学後、間もなくイギリスにテニス留学、それからは日本のみならず世界中の選手権、カップの大会の優勝を総なめにし、あれよあれよと言う間に世界ランクを駆け上がり、東洋の奇跡と呼ばれて久しいテニス界の申し子…しかも…確か…今年のウィンブルドンの…
(ゆっ……優勝者が何でこの時期にこの国に〜〜〜〜!?)
その実力は最早、神の域に達しており、グランドスラムも可能という今をときめく時代の寵児。
しかもそのルックスは下手なモデルなど比べ物にならない程に美々しく、世間の女性誌は彼のグラビアが載るだけで売り上げが五割アップしているという実しやかな噂まで流れている。
ただの大学生に過ぎない自分には正に雲の上のような存在でもある若者が…今! 自分の目の前に立っている…!!
(たっ…確かに格好いい…! 写真なんかより、全然…っ)
すらりとした長身を白のスーツに包んだ線の細い若者は、ゆるりとウェーブを描いた黒髪を艶やかに輝かせ、その漆黒に負けない澄んだ瞳が酷く印象的だった。
きっとそれは同じ日本人という黄色人種でありながら、透けるように白い肌の所為もあるのだろう。
彼に見つめられて心穏やかでいられる女性など、この世にどれだけいるのだろうか…
「幸村君、今丁度彼女に説明をしていたところだよ」
学長の言葉に、呼ばれた若者は薄く微笑んで深く頭を下げた。
「…この度は、身勝手な我侭を申し上げて、すみませんでした」
「いや…で、彼女で間違いはないかね。一応本人の名前と所属は確認済みだが」
「はい」
頭を上げた幸村は、す、と身体を桜乃へと向け、そして視線も向けて、一秒見ない内にはっきりと首を縦に振った。
「彼女に間違いありません…是非、力をお借りしたいのですが」
「ふむ……では後は本人の意向次第だね」
「あっ…あの…確かめて頂いて何なんですが…私は、幸村さんとは一度も、その…お会いしたことがなくて…そもそも私、ヘルプって、何をしたらいいのか…」
「君の書いた論文が目に留まってね…ヘルプというのは俺が日本滞在中にそのサポートをする事と、コートに同行すること」
「同行…?」
幸村は、桜乃の疑問に丁寧に答えてくれた。
本来は自分の先輩に当たる人物なのであるが、最早向こうの肩書きが大きすぎて、先輩と思うことすら憚られてしまう。
「この時期にここに来たのは、日本の全スポーツメーカーの技術の粋を結集して作成されるシューズ、それを完成させる為なんだ。その最終段階モデルの試着とデータ確認が目的なんだけど…これは君の研究にとっても、役に立つんじゃないかな」
「…!!」
そんな…部外者はおろか、かなり重要なポストの人物じゃないと見られない様なプロの生の動きやデータを…直に見ることが出来る…!?
これって…本当に一生に一度、あるかないかの…好機だけど…
(あれ…そんな凄い人が、私みたいな一介の大学生の論文…何処で読んだんだろ…それに、私の顔なんて、何処で…?)
まぁ、母校を訪ねて後輩がどんな勉強をしているのか興味を抱くのはおかしくはないけど…全員分のものを見るのはまず不可能だろうし、そんな中途半端な選別で重要な場所に連れて行くって…いいのかな…?
大学側としては、確かにこの「時の人」の希望なら、優先的に受けておいた方が後々メリットは多そうだけど…
少し疑問に思いつつ、ちらっと幸村へと視線を向けると、丁度彼とのそれが合い、にこりと微笑まれてしまった。
どきん…っ!
全国の女性が夢中になる訳だ…あの笑顔は最早彼の武器になってしまっている…相手の反論を封じ、自分の要求を叶える為の免罪符の様に…
「あの…わ、私なんかでそんな大役が務まるかどうか…分かりませんけれど…私で良ければ…」
「…受諾ということでいいかね」
学長の最終確認に、一呼吸おいて、桜乃は頷いた。
「…はい」
「…では、そういう事で決定としよう。詳しい話は、幸村君本人から聞いてくれたまえ」
「は、はい…」
しかし、聞くと言っても、こんな凄い人にどうやって声を掛ければいいものか…と桜乃は俯いて躊躇い、もじ…と身体を小さく揺らす。
「…顔がよく見えないな、ちゃんと見せて」
「え…」
離れていた幸村が、いきなりこちらへとつかつかと歩み寄ったかと思うと、手を伸ばし、桜乃の頬にそっと触れて上向かせる。
「…!」
プロの世界でテニスをしているとは思えない優しい手…そして、細く華奢な身体を持つ若者は、穏やかで優しい瞳を向けると、照れて頬を染めた桜乃に微笑んだ。
「これから宜しくね…竜崎さん」
「は、はい…」
よろしく…と返そうとした桜乃の口の動きが止まる。
(え…っ?)
何の前触れもなく、断りもなく…幸村は桜乃の右頬に唇を寄せ、ちゅ、とキスをしていた。
辺りの関係者達も目を剥いたが、一番驚いたのは勿論、桜乃本人である。
(ええ〜〜〜〜っ!!!)
驚いている間に、当の幸村は唇を離し…あ、と思い出した様に声を出すと照れ臭そうに笑った。
「いけない、イギリスでの習慣が出ちゃった…ごめんね、ここ、日本だったね」
「あ…あ、そ、そう…ですよね」
びっくりした…けど、そういう事か。
向こうでの生活が長いなら、やはりその地での癖が出てしまうのだろう。
日本ではやらないキスでの挨拶も、向こうではごくごく自然な馴染み深いもの…だからか。
それならば仕方ないことだと、桜乃は気を取り直して相手に挨拶した。
「あの…これから宜しくお願いします、幸村さん」
「うん、こちらこそ…久し振りの日本だから、色々と教えてね」
久し振りの日本ということであれば、是非色々と案内をしてあげよう!…と思い、張り切っていた桜乃だったのだが……
「あうう…全然その隙も暇もないですぅ」
「まぁ、元々がお忍びの強行軍だったからね」
某スポーツメーカー研究所の一室で、桜乃と幸村が椅子に座り、会社から提供されていたお茶を一緒に啜っていた。
あの日からほぼ連日、二人は朝から晩までこの研究所に篭っている。
やっている事と言えば、新作のシューズの機能と内部構造の説明を受けた後、幸村本人がその試作品を履いてひたすらにデータ採取…そして更なる改良の繰り返しだった。
桜乃はそのデータを確認し、研究者から説明を受けるなどして大いに自身の勉強に活かしつつ…所内での幸村の身の回りの世話も積極的に行っていた。
「何だかこっちではいつの間にか有名人みたいだし…変装なんてしてもゆっくりと楽しめそうじゃないなぁ」
「折角久し振りに日本にお戻りになったのに…残念ですね、色々と巡ってみたい場所もあったでしょう?」
「んー…」
くぴ…とお茶を含みつつ、問われた幸村は桜乃を見つめ…
「…別にいいかな」
とにこりと笑う。
「? 欲がありませんねぇ…ずっと研究所やコートに缶詰だと、息抜きしたくなりませんか?」
「君が話し相手になってくれてるじゃないか、それで十分だよ」
「! も、もう…またそんな事仰って」
嬉しくなっちゃうじゃないですか…とは心の中で呟いて、桜乃は紅くなって俯いてしまう。
「……」
照れる桜乃の姿を、幸村は無言のまま、しかし真っ直ぐに視線を逸らすこともなく見つめる。
それは義理や礼儀でそうしている訳ではなく…心の底から彼女を希求しているような、そんな熱意を秘めているようだった。
「君こそ、そろそろ飽きてこないかい?」
「え?」
「幾ら研究の参考になるとは言っても、もう大学では夏休みだろう? 折角の休みなのに、一日中こんな空間に閉じ込められて数字と睨めっこして…普通の女子大生ならいい加減に飽きるんじゃない?」
「全然」
相手の質問に、それこそ桜乃はすっぱりと否定し、首を横に振った。
「とっても楽しいですよ! もうずっとここにいてもいいくらいに…テニスをしている幸村さん、物凄く格好いいんですもの」
「え…?」
「試作品のシューズを履いて、ボールに向かっている幸村さんを見ていると、こっちがデータを取っているなんて忘れてしまいます…観客になってしまうんですよ、いつの間にか」
夢見るように、彼女は続けた。
「味気ない箱の中の筈なのに、見た事がない青空が広がるグラスコートに立っている幸村さんが見えるんです…きっと本物の試合では今以上に格好良いんでしょうねぇ。日本にいる私にはテレビでしか見ることが出来ないんでしょうけど…だから、せめて今だけでも、しっかり目に焼き付けておきたいんです」
「……じゃあ…今だけじゃなくて…」
ぼそりと幸村が密かに呟く。
「…君が望むなら…俺と…」
「え…?」
言いかけたところで、その場にメーカーの研究者達が入室してきた。
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