「幸村君、少しいいかな?」
「はい…?」
「新しいメンバーを紹介しようと思ってね…アメリカの…」
こういう場合は、極力部外者である桜乃は外れた場所にいるように気をつけていた。
(わぁ…流石に一大プロジェクト…日本人だけじゃないんだ)
見ると、新たなメンバーの中には金髪の女性も入っている…
相手に幸村が流暢な英語で挨拶し、握手を交わしている姿を見て、あれ?と違和感を覚えて首を傾げた。
(…挨拶のキス、しないんだ…どうしたんだろ)
向こうは今度は私みたいな日本人じゃないのに…それに、あの日以降も時々、自分には頬にキスをしてくる時があるのに…染み付いた癖みたいなものだって割り切るしかないと思っていたけど…
あれあれあれ?と思っている間に挨拶は終了し、幸村は再びテーブルへと戻ってくる。
「あと十分で再開するって…いいかな?」
「はい…えっと…」
「?」
「…日本の習慣が戻ってきたんですか?」
「え?」
「あ、いえ…挨拶のキス、しなかったから…」
「…ああ」
意外な台詞を聞いた様に、若者は軽く目を開いて頷くと、ぽり、と頬を軽く掻いた。
「しまった……うっかり…」
「はい…?」
「…いや、別に…そうだね…気をつけないと…挨拶は基本だからね」
「はぁ…?」
何を言っているのか今ひとつ理解出来ていない桜乃が曖昧な返事を返している間に、幸村は愛用のラケットを手にすると、すっと彼女へと近づいた。
「じゃあ…」
「え?」
幸村の手が頬に触れる…あの優しく大きな手が。
温かなそれに気を取られている隙に、桜乃はまた頬に、相手の口付けを受けてしまっていた。
「あ…」
「君にだけは忘れないようにするよ…これでいいよね」
「え…その…」
満足したように、ラケットを肩に置くと相手はにこりと笑って背を向けた。
「行って来るね、データの確認、宜しく」
「あ…は、い…どうぞ」
今のは…何だったんだろう…何か、話の論点がずれている気がする…それとも、誤魔化された?
(挨拶って…私は日本人だから…キスじゃなくても…?)
そんな生活も更に幾日が過ぎた頃…
「……」
カレンダーを見つめていた桜乃が、ふぅと大きなため息をついた。
(予定では、あと十日ぐらいで…帰っちゃうんだよね…幸村さん)
もうシューズもほぼ完成して、後は現物が出来上がるのを待つばかりだし…それは確かに喜ぶべきことなんだけど…
不謹慎なことだとは分かっていても、思ってしまう…出来上がらなければいいのに…って。
未完成だったら、もっとずっと…この国にあの人がいてくれる…かもしれない、のに…
「悪い子だなぁ…」
自分、こんなに嫌な事を考えてしまう様な人間だったっけ…
自己嫌悪に陥りながらも、桜乃はふるっと首を横に振って、邪な考えを振り払った。
「ダメダメ…そうよね、残った時間、今度こそ幸村さんに有意義なお休みを過ごしてもらおう」
その為にはまず計画を…と鞄の中の手帳を取り出そうとした時だった。
『―――っ、――って言ってる! どうして…!』
(あれ…あの声…幸村さん?)
彼にしては珍しく、声を荒げて何かを言い立てている様な…あんな温和な人が…
思っている間に、やはり、彼がその部屋にドアを開けつつ踏み込んできた。
耳元に携帯電話を押し当てながら。
「確かに完成したけど、まだ猶予は十日はあった筈だよ!? どうしてそんないきなり……そんなの勝手じゃないか…それは分かってる!」
いつもの彼とはまるで違う…押し隠しているけど…何かを酷く怒っているみたいだ。
(ど、どうしたんだろう…)
戸惑っている桜乃の前で、携帯電話に怒りをぶつけていた彼の表情が、怒りから徐々に困惑、苦悩のそれへと変わっていった。
「…ああ……分かった…準備、するよ」
小さな声でそれだけ答えると、彼は携帯の通話を切って、ふぅとため息を吐き出した。
「どうしたんですか? 何かトラブルですか…?」
「……うん…バレちゃった」
「え?」
「お忍びでここに来てたコト…マスコミが嗅ぎ付けちゃったみたいで、早速一社から取材の申し込みがあったんだ。こうなったらもう長居は許されない。さっきスポンサーからもイギリスに戻って来いって」
「っ!!」
「便は明後日の最終便で押さえているからって…残念だけど、シューズは向こうで受け取ることになりそうだ」
「…明後日」
十日の猶予を残念がっていた自分がどんなに贅沢だったかを、その時初めて桜乃は思い知った。
(嘘…もう…帰ってしまうの…? 幸村さん)
やっと…色々な処を案内出来ると思っていたのに…やっと…色々なお話を出来ると思っていたのに…もう、貴方は異国へと、旅立ってしまうの…?
「テレビ局の取材、一つだけ受けないといけなくなったから今から行くよ。よく分からないけど生放送のインタビューだって……竜崎さん、悪いけど今日は、自宅待機でお願い出来る?」
「あ、はい…あの、幸村さん」
「ん?」
「あの……あ…い、いいです、今はお忙しそうですから…」
「? うん」
急かされたように出て行った男の背中を見送りながら、桜乃は混乱する頭で必死に己を保とうとしていた。
(どうしよう…今からまた元の生活に戻ろうって言われても…想像出来ない…)
充実しすぎていた…彼という存在で…もう後戻り出来ない程に…だって……
(…図々しいよ…あんなに凄い人…好きになってたなんて…)
こんな時になって、気が付くなんて…経験がなかったにしろ鈍感にも程がある。
どうしよう…告白しそうになったけど…言ったとして、受け入れてくれるだろうか…?
いや…
『何言ってるの? 君はただのヘルプじゃないか、勘違いはいけないよ』
きっと、そんな言葉で撥ね付けられるに決まってる…そう思うともう…恐くて言えない…
(…そうだよね…言わないでおこう……でもせめて…)
せめて私を少しでも覚えていてくれるように…彼に喜んでもらえる贈り物をあげよう…
傷心で家に戻った桜乃は、それから何をするにも手につかず、ぼんやりとベッドに横になったまま過ごしていた。
(そう言えば、テレビのインタビューって言ってたよね…)
ふと思い出し、リモコンをごそごそと探り出して電源を入れると、タイミング良くニュース番組のスポーツコーナーが始まったところだった。
『ここで本日は予定を変更し、一時帰国しています幸村精市さんへの独占インタビューをお送り致します』
(あ…この番組だったんだ…)
思っている間に、何処かのホテルの一室を借りた様な場所で、インタビュアーと幸村の並んだショットが映し出された。
『今回は発表なしでのお忍びということでしたが、何の目的での帰国だったんでしょうか?』
『…向こうでの試合も一段落ついたので、空いた時間を利用して祖国に戻ってみたくなったんです。久し振りにのんびりとした時間を過ごせました』
流石にシューズの開発については他言無用ということか、そつのないかわし方をした幸村は穏やかな笑顔で真実を包み込み、覆い隠している。
『―――――……時に、もうすぐまたイギリスに戻られるということですが、何か今回の帰国で印象に残ったものはありましたか?』
『…そうですね』
少しだけ考えると、幸村は数多の女性を夢中にさせる笑顔でにこりと笑った。
『帰国して…とても綺麗な花を立ち寄った店で見つけたので、一緒にイギリスに持って行きたいと思っているんですけど、ね』
『ははぁ…そう言えばご趣味がガーデニングでしたね』
『ええ、イギリスは様々な庭園があって楽しいです…けど、あんな綺麗な花は何処に行っても無いでしょうね』
『何と言う花ですか?』
『…ふふ、それは秘密です…けど、薔薇の様でもあり百合の様でもあり…とても綺麗で鮮やかで…毎日見ていても飽きない程ですから』
『ほう…! ―――――…』
「……」
それからもインタビューは続いていたが、桜乃はじっと画面を凝視して、幸村の言葉を繰り返し反芻していた。
(花…そんなに気に入った花があるんだ…もしそれを贈り物に出来たら、少しは覚えててもらえるのかな…)
その夜…
「美味しかったね」
「はい…ちょっと食べすぎてしまいました〜」
「ふふ…」
インタビューの仕事の後、幸村は桜乃を呼び出して、或るリストランテで夕食を共にしていた。
下手に人目についたらまた騒ぎになる…ということで、急遽一店丸々、貸し切ったのである。
行動が素早かったお陰か、幸いパパラッチの様な輩には見つからずに済んだ。
「よ、良かったんでしょうか…私たち二人だけだったのに…」
「いいよ、正規の料金は払ってあるし…君には本当に色々と世話になったからね」
「……」
そっか…最後のお別れ会って意味だったんだ…
でもその会も終わって…後は家に戻るだけだし、聞く機会は今しかない。
「あの…」
「ねぇ…」
同時に互いが互いに呼びかけ、そして同時に口を閉ざした。
「あ、ど、どうぞ…」
「いや…君からいいよ」
促され、桜乃は少し躊躇ってから口を開いた。
「…今日のインタビューで、幸村さんが仰っていた花って…」
「…!」
「なんて言うお花ですか? 幸村さんがイギリスにお戻りになるまでに、何とか私、準備して…差し上げますから…」
「え…」
「私こそ、幸村さんには色々と親切にして頂いて…どんなにお礼を言っても足りません。ですからせめて、何か記念になるものをって…」
「…記念?……」
復唱した幸村はそれから急に無言になると、今度は視線を逸らして不機嫌の色を滲ませ呟いた。
「…お別れの記念という意味なら…俺はそんなの欲しくない」
「え…」
「けど君が…これからもずっと俺の傍にいてくれるという意味での記念なら…俺は喜んで手を伸ばすよ…この花に」
(…え…?)
頬に手を触れ覗き込んでくる男は、月光の下、その美貌を惜しげもなく桜乃の間近で晒して微笑んだ。
「…ほら…やっぱり綺麗だ…最初にあの店で見た時から、俺はもう夢中だった…花を見ている君の表情が、あまりに優しくて、魅力的で…」
「え…え…?」
「昔、お世話になった竜崎先生のお孫さん…しかも俺の母校に通っていると聞いて、思わず神に感謝した…すぐに大学に連絡を取って、交渉して…理由はどうとでも付けたら良かった。君に会いたかったんだ」
「!?」
おばあちゃん…!?
おばあちゃんの知り合いで…店でって……まさか…!
「まさか…あの時の…」
おばあちゃんの買い物に付き合って…花屋の外で話しこんでいた知り合いって…・!?
「…幸村さん…だったんですか…?」
「…ずっと傍にいて、俺はどんどん君が好きになっていった…一緒にいられるのはあと十日しかない、いや、あと十日あればまだ気持ちを伝える機会はあると思っていたけど……それが明後日になっても、やっぱり諦められないんだ…」
する…
「…っ」
幸村の手が、桜乃の腰に回され、ぐいと相手へと引き寄せられる。
「…俺と一緒に…来てくれないか…?」
「幸村…さん…」
「無茶言ってることは、理解している…けど、俺はどうしても君の手を離したくはないんだ…身勝手な願いというのも重々承知さ…その上で…俺は君に願うよ」
俺と一緒に…海を越えて来てほしい…
「私が…幸村さんと…?」
そんな夢の様な話…これは本当に現実なの…?
「…私…只の、大学生です、よ…?」
「知ってるよ」
「何のとりえもないです…私…何も…」
「俺が大好きになったのは君だけだよ…それじゃ足りない?」
「〜〜〜〜〜」
「…君は…?」
自分ばかり気持ちを打ち明けてしまったけど…君はどう思っているの…俺のこと…
若者の真摯な瞳に見つめられ、嘘も言えなくなり、隠そうと決めていた本心が暴かれてゆく…
「…私、も…」
恥じることではないと分かってはいても、初めての告白に、桜乃は両手で真っ赤な顔を覆ってしまう。
「…す、き…です…幸村さん…」
細くてもはっきりと聞こえた一言に、幸村が更に強く相手を抱き締め、顔を寄せる。
「待ってたよ…その言葉を…」
「あ…っ」
「これでやっと…君の唇にキス出来る」
これまでずっと頬のそれで我慢してきたけど…それももう、終りだ。
「ん…っ!」
待ち焦がれていた、という幸村からのキスは、穏やかな笑顔からは想像も出来ない程に熱く、激しかった。
柔らかな相手の唇の感触だけで、気を失いそうになる…いや、失わないまでも、理性が吹き飛んでしまいそうで…
(ゆ…きむらさんっ…すごい…おかしくなりそう…っ)
びりびりと全身が痺れてしまうような衝撃に、桜乃はただ翻弄されるがままだった。
「ん、あ…っ…」
「……俺だけに…だよ」
そんな、男を狂わせるような顔を見せるのは…俺だけにして……
優しく、しかしはっきりと言い含める男に、桜乃はようやく首を縦に一度振るのが精一杯だった…
明後日…
最終便である飛行機の中で、幸村は桜乃と並んで席に座っていた。
「…少し残念だな」
「え…?」
「…君を連れて行っても、夏休みが終わったら離れないといけない」
「しょうがないですよ…おばあちゃんのお達しですからね」
幸村は当然、周囲が何と言おうとも桜乃を英国に連れて行き、ずっと一緒にいたかったのだが、彼女の保護者であり己の知己でもある竜崎スミレからきつい条件を出されたのだ。
『一度志を決めた以上、それを半ばで諦めるのは竜崎家では認められん! せめて桜乃が大学を卒業することが条件だよ。それまでは幸村はテニス、桜乃は勉学に邁進すべし』
「…あの人には敵わない」
「うふふ…でも、幸村さんとの仲は認めてもらえましたから…『卒業したらいつでも持ってけ』っていうのはあんまりですけど…」
「持っていくさ…すぐにね」
「!〜〜〜〜」
即答した自分に対し言葉を失ってしまった桜乃に、幸村がくすりと笑ってその手を取る。
「日本ではゆっくり出来なかったけど、向こうに行ったら俺が君を案内してあげる…俺の大好きな場所、テニスをする場所…一緒に行こう」
「…はい」
「…君が見てくれている限り、俺は絶対に負けない……楽しみにしてて」
「はい!」
それから夏休みが終わるまで、二人は常に睦まじく共に寄り添い、異国の空の下を歩いていた。
無論、それは後日多くの報道関係者に知られる事となるのだが、『神の子』は、全く気にする素振りも見せなかったという…
了
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