恋叶い 恋破れ


「…何、コレ…」
 朝起きたら、少し世界が変わってた……

 RRRRR…RRRRR…
「はい…?」
『もしもし? 弦一郎?…俺だけど、分かる?』
「! 精市?」
 その日の放課後、立海大附属中学の三年生、真田弦一郎は、親友である幸村精市から奇妙な連絡を受けていた。
「どうした、今日は風邪で休むとあったから、心配していたが…何かあったのか?」
 朝練から姿を見せなかった男子テニス部部長は、律儀に今日は休むという旨の連絡を入れてくれていた。
 体調には特に気を遣う男が一体どうしたのか、もしやまたあの病の影響が、と不安に思い、今日の部活が終わったら見舞いに行こうかと思っていたのだが、丁度良く本人から連絡をくれるとは……
「部活が終われば、お前の家に見舞いに行こうと思っていたところだ…授業のプリントも渡したいしな、他に要り様のものがあれば買っていくぞ?」
『う…ん…欲しいものは特に無いんだけど…ねぇ弦一郎』
「ん?」
 向こうから聞こえる部長の声は紛れも無く本人のものであり、幸いにというか、風邪による掠れや変声の影響は感じられない…多少普段のそれより若い印象は受けるが、おそらくは機器を通してのものだからだろう。
 その声を紡ぐ若者が、真田に奇妙な提案を持ちかけてきた。
『ちょっと…俺の家じゃなくて、外で会いたいんだけど…いいかな?』
「何? 外で…? 風邪の身体には障るのではないか?」
 風邪ならば、布団の中で身体を暖め、精のつく食事を摂り、何より睡眠を大事にしなければ、と真田は一度は渋ったのだが…
『いいんだ、俺の身体の事は心配しないで…どうしても、これは外で話したい事なんだよ』
「?」
 向こうの声が、やけに真剣そのもので、断る雰囲気ではない…
 これは、風邪よりもっとややこしい事が起こったな、と直感で真田は感じた。
 自分の親友であり、テニス部部長の幸村は、非常に心根が強い若者だ。
 見た目は華奢ではあるが、あの精神力は正直自分でも及ばないのではないかと思う時すらある。
 普段の柔らかな表情に隠されてはいるが…この男は確かに強い。
 だから…個人的な問題の場合、大抵の厄介事は彼自身で何とかしてしまう。
 部活に関わる問題でも、一応副部長の自分と参謀の柳蓮二に意見を求めるが、既にその時には彼の意見はまとめられており、その是非について確認を取られることが殆どだ。
 では、そんな彼がわざわざ自分に連絡を取ってくる程の問題とはどのようなものなのか…?
「…何かあったな、精市」
 何があったのかは後で聞くとしよう、どうせ今は面と向かって話せる状態ではないし、電話で終えられるような問題でもないのだろう…と真田は取り敢えず端的に確認だけ取った。
 果たして答えは…
『…残念ながらね』
 予感的中…だった。
 もしかしたら、風邪、と言って彼が学校を休んでしまったのも、その問題に関わる事なのかもしれないな…
「そうか、分かった。では何処で会おうか?」
『俺の家の近くに喫茶店があったの、覚えてる? クラブから帰る時に時々寄っただろう? クリームソーダが美味しかった』
「ああ…あそこか、分かった。部活が終わればすぐに向かう…しかし、残念だったな」
『え?』
「今日は竜崎も見学に来ていた。お前が休みと聞いて、酷く心配していたぞ…風邪ということで、通していいんだな?」
『……ああ』
 僅かな沈黙を挟み、幸村が答える。
 そこに微かながら落胆の色を感じた真田だったが、それには触れなかった。
 親友だからこそ知りえたのか、それともこれは周知の事実なのか…
 幸村が、あのおさげの少女に恋慕の念を抱いているのを知ったのはいつだったか…
 部活の見学に来ていた少女…竜崎桜乃を、彼は常に視界の中に入れていた。
 流れ球などで、部外者に下手な怪我を負わせる訳にはいかないという配慮かと思っていたが、どうやらそれだけではなかった様だ。
 彼女への優しさは、立海の他の女子とは明らかに異なっており、彼女の傍に自分以外の男性を寄せる事を頑なに拒んでいる様にすら見えた。
 傍で見ていたからこそ、最早間違いようがない。
 自分もあの娘は気に入っている、しかしそれはあくまでも妹の様な存在として、だった。
 それで良かったと思う、こちらまで同じ感情を抱き、親友と彼女を巡って感情を乱し合うなど、本意ではない。
『心配しないでと伝えておいて…それだけでいい』
 向こうからの幸村の言葉に、真田が苦笑する。
「気弱なことだな。明日、明後日にでも出てくると言えば…」
『そこまでは保証出来ないよ』
「なに?」
 不思議な言葉を紡いだ相手に聞き返した真田だったが、その時には既に回線は切られ、無機質な音が届けられるのみだった。
(何だ? 今の言葉の意味は…)
 保証出来ない…?
 学校に戻ることが? 何故?
 身体については心配いらないと言いながら、何故そんな台詞を…
「…?」
「真田さん?」
「む? 竜崎?」
「珍しいですね? 真田さんが練習中に携帯を触るなんて…」
 その珍しい光景に引き付けられて来たのだろうか、先程話の中にも登っていた桜乃が、興味も露に彼へと近づいてきていた。
 鬼の副部長と名高く、普段から厳格な性格で有名な真田に、ここまで自然体で近づける女子も珍しい。
「何か、緊急の連絡でも?」
「いや、精市からだ」
「幸村さん!?」
 その男の名前を聞いた瞬間、少女の顔が驚きと、不安の色に彩られた。
 明らかに、心の中で彼の事を気にかけていた事実が伺えた…実に素直な反応だ。
「…」
「あ…」
 真田に見つめられ、それを見透かされた事に気付いた桜乃が顔を伏せたが、相手は仕方ないなという感じで苦笑した。
 余程の誤りが生じない限りは、自分の親友が失恋を経験するという事はなさそうだな…少なくともこの恋に関しては。
「…心配するな、元気そうだった」
「そう、ですか、良かった…じゃあ、また来た時には会えますね」
「…そうだな」
 その少女の台詞を聞いた時、あの幸村の奇妙な言葉が脳裏に過ぎったが、真田はそれについては語らず、当たり障りの無い言葉で返すに留めた。
「もしかして、真田さん、幸村さんに会いに行くんですか?」
「ん? ああ…そのつもりだが…」
「…私もご一緒しては、いけませんか?」
「お前が?」
「はい」
「……」
 どうしようか、と男は逡巡する。
 彼女の気持ちを考えたら、幸村の見舞いをしたいという気持ちは十分に理解出来る…一目でも姿を見たら安心は出来るだろう。
 しかし、だ。
(…どうにも気になるな、あの最後の言葉が)
 幸村が自分を呼び出す程の問題…何かが彼の身に起こったのではないかという拭いきれぬ懸念…そして何より、あの男の心情。
 この少女に、今の姿を見られたいと彼が考えているとは思えない…会いたいとは思っているかもしれないが、見られることで彼女に不安を与える事は望まないだろう。
 強く優しい男だから。
「すまんが、今回は堪えてくれんか、竜崎。呼ばれているのは俺だけだ、何か相談事があるらしいし、詳細が分からん以上は俺が連れて行く事は控えたが良かろう。お前に風邪を移す事をあいつも望んではいない筈だ」
「そう、ですか…」
「…すまんな、元気になった精市に、また会いに来てくれ」
 親友を心から心配してくれている少女に詫び、真田は部活動を終えると、足早に幸村と待ち合わせた喫茶店へと向かって行った。


 その時間は、それ程喫茶店の中は混んでいなかったが、最初、真田は幸村の姿を見つける事は出来なかった。
「弦一郎」
「!?…精市?」
 見つける事が出来たのは、向こうがこちらを呼んでくれたから、しかし、呼んだ相手を見た真田は、一瞬、戸惑わずにはいられなかった。
「…どう、したんだ。本当に身体は大丈夫なのか?」
 尋ねながら、彼の座る席へと歩いて行く…喫茶店の一番奥、人目につきにくい間取りにある席へと。
 その視線の先には幸村がいる、上半身をパーカーですっぽりと覆い、更にはパーカーについていたフードで頭部を完全に隠した姿で。
 付き合いの長い真田でも見た事が無い姿だった。
「御免よ、弦一郎…家族には絶対に見られる訳にはいかなかったんだ。だから、君に会う為には外に出る必要があった」
「? どういうコトだ?」
「すぐに分かると思う…予め言っておく、驚くのは自由だ。けど、大声を出すのは我慢してくれ、目立ちたくない」
「…? 尚更分からんな」
「……」
 眉をひそめる親友に、幸村は無言になると、ぐい、とフードに手をかけ、それをゆっくりと外していった。
 下に現れたのは、確かに幸村の姿だった、但し……
「な…っ!!」
 忠告を受けながら声を上げそうになり、真田は慌てて自身の口を手で押さえそれを耐えた。
 何だ、その姿はっ!!
 そう尋ねたかったが、今はまだ大声を上げそうな勢いが治まらず、手を離せない。
 幸村だ…間違いない…しかし、今という時間に存在している彼ではない!
「…驚いた、だろう? 俺もそうだった。朝起きて、着ていたパジャマが明らかにおかしくなってて…鏡を見てみたら…」
「縮んで…いる…? いや…若返って、いるのか」
 真田の言う通りだった、幸村の姿が明らかに変わっている…しかしそれは元の姿を縮小コピーにかけたというような単純なものではなく、過去の彼を再びこの現代に再現させたという方が正しい…微妙により童顔になっている顔から、骨格・筋肉がより幼い頃のそれに酷似していること、全てが昔見ていた相手の容姿と合致する。
「自分では、中学一年の頃の身体じゃないかって思うんだけどね。こういう時に保管してた病院の検査データが役立つなんて思わなかった」
 相手の話し口調を聞いていると、特に記憶の欠落などはなく、違和感も無い…どうやら変化したのは相手の肉体のみであり、精神は元の中学三年生のままらしい。
「…何で、そうなった」
 意識を落ち着ける為に配られていた水を一気に呷った後、真田が小声で尋ねた。
 ここには少なくとも幸村の身体の変化に気付く知人はいない、が、やはり普通の声で話す事は憚られてしまった。
「分からない…昨日、部活の後で花屋に立ち寄って、珍しい鉢植えを覗き込んだ時にやけに匂いがきつくて眩暈を起こしかけた花があったんだけど…それぐらいしか思い当たる節がないんだ」
「花?」
「俺でも知らない花だった…今日その店に行ったけど、実物はもう無くて、店員に聞いてもよく分からなかったんだ」
「むう…しかし現実問題として、このまま放っておくわけにもいかんだろう。家族には話した方がいいと思うが…」
 真田の提案に、一年生の時の幸村は苦笑いを浮かべた。
 実年齢であれば生意気な年下の行為だっただろうが、これでも中身は同年なのだからどうにもしっくりこない。
「やっと病から癒えたと思ったら今度はこれだからね…親達に下手な心配掛けたくないと思ってつい言いそびれちゃったんだ。布団被って声の変化は風邪の所為だって言ったから、今のところ上手くは誤魔化しているけど…取り敢えず明日までは秘密にして、それでも治らない様であれば打ち明けるしかないな…ああ、それでね弦一郎」
「何だ?」
「君をここに呼んだのは、頼みがあるからだ。もし俺が明日以降も元に戻らなかったら…俺はまた君に、テニス部を委ねなきゃならない」
 相手の願いに、そんな事か、と真田は軽く笑うだけだった。
「そんな事は、頼みの内にも入らんぞ。俺で良ければ力になる…蓮二や他の奴らも協力は惜しまんだろう、心配するな」
「そうだね…けど、今回ばかりは先が分からない。もしかしたら立海を去ることになるかもしれないし」
「!!」
「常識的に考えて、こんな奇病もないだろう…こういう身体を抱えて、普通の学校生活を送れると思う程、俺も呑気じゃないよ。いよいよ、何処かの研究施設にでも行かないといけないかな」
「馬鹿な! 滅多な事を言うな精市っ!」
「うん…気弱になってる事は分かっている…でも…っ!!」
「?」
 言葉の途中で口を閉ざし、瞳を大きく見開いた幸村の急な反応に、真田が何事かと首を傾げる。
 彼の視線は、自分の背後に固定されていて動かない…何か見たのか?
 相手に倣い、ゆっくりと振り返ると…真田も同じく座ったままに硬直してしまった。



$F<幸村編トップへ
$F=サイトトップヘ
$F>続きへ