同日の夜…
(はぁ…何とかヘマはせずに済んだ…)
夕食も無事に好評のまま終わり、桜乃は今は食器の片づけを終えて一段落したところだった。
(ん〜〜、やっぱりまだもうちょっと調節が必要かなぁ…)
石を積み上げて作った簡易オーブンを覗き込みながら、そんな事を考えていた桜乃が不意に顔を上げると、その先に、砂浜へと向かう一人の若者の姿が見えた。
「あら? 幸村さん……また海に行くのかな」
この夏の季節、文明の利器が無い無人島では涼を取るのも難しい。
故に、海側で活動をしているメンバー達の中には、せめて水場で涼もうとする者も多かった。
それに日が沈み、遮るもののない砂浜なら、海を渡った風も心地良い…あまり当たりすぎると潮で身体がべたついてしまうという欠点もあるのだが、それでもじっとりとする熱気よりは遥かにましなのだ。
幸村も例に漏れず食後にはよく海へと向かう事は、桜乃も知っていた。
(…夜は幾分涼しくなるけど、まだちょっと暑いよね…)
全然へばった素振りを見せない若者でも、きっと感じている暑さは同じ筈。
(……そだ、ちょっと差し入れしよう)
今日の事を思い出すとまた恥ずかしくなってくるが、あれもまた彼が自分を励まそうとしてくれた優しさには変わりない…なら、少しでもそれに対してお礼をしたい。
思い立って、桜乃はそそくさと急いで準備をすると、差し入れを携えて幸村の後を追いかけて行った。
「えーと…あ、いたいた」
昼間は砂浜に佇んでいた彼だが、今は、砂浜に流れ着いた流木を自然のベンチ代わりにして、そこに腰を下ろして目を閉じていた。
(あ…もしかして、イメージトレーニング中なのかな…)
以前本人より、幸村のリハビリの一環であるイメージトレーニングについて聞かされていた桜乃は、呼びかけようとした口を噤んでしまった。
彼のイメージトレーニングはかなり本格的なもので、それだけ相手の全神経を集中し、総動員する形で行われている。
差し入れには来たものの、もし彼が訓練を行っていたとすると、悪戯に声を掛けてしまうことによって邪魔をしてしまうことになるのだ。
(ど、どうしようかな…)
ここは回れ右をして一度出直した方がいいかも、と思い、そうしようとした時だった。
「竜崎」
「? あ、跡部さん?」
呼びかけられて振り返ると、海側の責任者である跡部景吾が自分の方へと歩み寄って来ていた。
「今、少しいいか?」
「はい、何でしょう?」
「現時点で残っている食材について確認しておきたくてな…会えて丁度良かった、お前、覚えているか?」
相手の質問に怯む事無く、桜乃はぽんと自身の胸を叩いた。
「勿論! ここでの私は歩く農林水産省ですから、そのぐらいの質問ならどんとこいです」
「これは頼もしいな、よし、じゃあ…」
それからの相手の質問にも、桜乃は淀みなくすらすらと答え、彼を十分に満足させた。
「…上出来だ、言うだけあるな。手塚の教育の賜物か?」
「えへへ…」
珍しく褒められた桜乃が照れて笑うのを見下ろしていた跡部が、不意にその視線を逸らし、何かに注目した後、意味深に笑った。
「さて、それじゃ俺はそろそろ行くぜ。テニスならともかく、こういう争いには興味ないんでな」
「争い…?」
何の話だろう、と思った桜乃が首を傾げると同時に、その肩にふっと誰かの手が乗せられた。
「え…」
振り返ると、さっきまで流木に座っていた筈の幸村が、いつの間にか自分のすぐ隣に佇み、真っ直ぐに跡部の方を見つめていた。
桜乃は初めて見る、冷徹なまでの冷えた瞳で…
「幸村さん…?」
「やぁ、跡部。楽しそうだね…俺も入れてくれるかい」
桜乃に呼ばれても視線を外す様子のない男に、跡部は実に愉快そうに唇を歪めて笑ってみせた。
「ああ、勝手に入ればいい、だが俺は抜けるぜ。じゃあな竜崎、あんまり無防備な素振りしてると、余計なヤキモチ妬かれるぜ?」
「それこそ余計なお世話だね」
当人には口を挟ませず、結局幸村が問答を全て受ける形のまま、跡部はその場を離れていった。
「…?」
一人おいてきぼりになってしまった桜乃はいまだに状況が分かっていない様子だったが、肩に置かれていた手に少しだけ力が込められた事で、改めて幸村を見上げた。
「? 幸村さん?」
「何をしてたの? もう暗いのにこんな所で…危ないじゃないか」
相手の表情がいつもより厳しい印象を受けたが、月光程度の光源でははっきりとは分からない…しかし、その声にも確かに微かな苛立ちが含まれていた。
桜乃はそれを相手が純粋に自分の身を心配してくれたのだと思いつつ、本来の目的も思い出して、手にしていた水入りのペットボトルを差し出した。
「すみません、幸村さんが海に行くのが見えましたから、まだ暑いと思って差し入れを持って来たんです」
「!」
きょとん、とする幸村にボトルを渡して、少女は屈託なく笑う。
「まだ冷えてるでしょう? お昼に励ましてくれたお礼です」
「……跡部は…?」
跡部と一緒じゃなかったのか、と戸惑う相手に、桜乃はきょとんと首を傾げる。
「跡部さん? さっき、食材の量を聞かれましたけど…あ、明日の夕食は、幸村さんの好物の焼き魚になりそうですよ、食材調達班の活躍次第ですけど」
「…そう」
何処か、ほっとした様に軽く息をついた幸村は、薄く笑って頷いた。
もう、いつもの彼の笑顔と、朗らかな声に戻っていた。
「あ、やっぱり嬉しいですか? 好きなメニューだとわくわくしますよね」
「うん…まぁ、ね……」
本当はそういう理由じゃないんだけどな…まぁ、いいか。
苦笑する幸村を見て、ん?と首を傾げた桜乃だったが、先程の幸村の言葉と態度を思い出し、慌てて広場へと戻ろうとした。
「じゃ、じゃあ私は戻りますね。心配かけてごめんなさい」
「あ…待って」
「え?」
ぎゅっと手首を掴まれ、動きを封じられてしまった少女に、その犯人の若者は微笑を浮かべながら申し出た。
「…もし、急ぐ用事がないなら…俺にも付き合ってくれないか?」
「え? で、でも…危ないんじゃ…」
「酷いな」
「…………きゃーっ! 違います違います!! そういう意味じゃなくって〜〜〜!」
わたわたと両手を振り回して否定する桜乃に思わず声を出して笑いながら、幸村はもう一度掴んだ相手の手を、くい、と自分の方へと引っ張った。
「冗談冗談…やっと風も涼しくなってきたところだし、星も綺麗だよ。俺と一緒なら大丈夫だって…信じてくれない?」
ぶんぶんぶんと首を激しく横に振ってくれた桜乃にまた笑うと、幸村は彼女の手を引いてあの流木へと誘い、座らせ、自分は隣に腰を下ろした。
「うわぁ…本当に涼しい風ですね…昼間の暑さが嘘みたい…」
「昼夜の温度差は結構激しい処だからね…涼しいからと言って調子に乗ると風邪を引きかねない…ああ、そうだ」
思い出した様に、幸村は自身が羽織っていたトレードマークとも言えるジャージを脱ぐと、それをふわりと桜乃の肩にかけてやった。
「え、あ…ゆ、幸村さん、いいですよ、幸村さんの身体が冷えちゃいます」
「大丈夫だよ」
「……」
笑ってそう言ってくれた若者だったが、桜乃は少しだけ考えた後、そのジャージを外して再び幸村の肩へと戻す。
「? 竜崎さん?」
「ごめんなさい幸村さん、お気を悪くされるかもしれませんけど…でも、やっぱり、私にとっては幸村さんの身体の方が大事なんです。それに幸村さん、とっても大切な試合が控えているじゃないですか、ここは選手として、私の我侭を聞いてくれませんか?」
「……」
「折角健康な身体に戻れたんでしょう? 立海の皆さんもあんなに喜んでいたじゃないですか。それなのに試合前に風邪なんかひいたりしたら、真田さん、『たるんどる!』だけじゃ済みませんよ」
桜乃が真田の真似をしてみせると、幸村は口元に手を当ててくすくすと笑ってしまった。
「ああ、それは恐いね…うん、嫌だな、それは」
「でしょう?」
きっと恐いですよーと続ける桜乃に、じっと視線を向けた幸村は、何を思ったのかそこでこくんと頷いた。
「そうだね……じゃあ、こうしよう」
「はい?」
そう言うと、幸村は軽々と隣の桜乃の身体を座ったままに抱え上げ、そのまま自身の膝の上に横抱きの形で乗せてしまった。
「きゃ…」
大胆な相手に慌ててしまう桜乃だったが、彼はもう自分の身体をしっかりと捕まえて放すつもりなどなさそうだった。
「ゆ、幸村さん!?」
「これなら、君も風邪をひかずに済むよね…」
「い、い、いえそのあの…お、お構いなく…」
「じっとして」
尚も身体を動かす相手に優しくそう禁じると、若者はそっと耳元で告白した。
「…君がこんな場所で病に苦しむのも…俺にとっては恐いんだ、凄く」
「!」
どき、と動悸を覚えてしまい、桜乃は無言になって俯いてしまった。
そして、その少女の身体を抱いたまま、幸村も俯く相手を見つめている。
二人とも、星など見ていない。
砂浜には波の音だけが繰り返し響いていた。
結構響くはずの音なのに、今は自分の動悸の音で聞こえない…
(うわ……どうしよう…全然治まらないよ、心臓…ああ、でも、どうしてかな、こんなにドキドキしてるのに、ずっとこうしていたいなんて…)
それどころか、この島に、このまま閉じ込められたままでもいいなんて、思ってしまいそうになっている…
(私の馬鹿! そんなの駄目に決まってるじゃない…! ちゃんとおばあちゃん達を探し出して、お家に帰らなきゃ…まだ会えてもいないのに、何て不謹慎な事を考えてしまったんだろう…でも…)
それでも、桜乃の胸の中に生まれた想いは止まらない。
家に帰ったら…?
この島から離れてしまったら…?
この生活も終わりになる…彼との共同生活も終わってしまう…
おばあちゃんを見つけて、この島から脱出できた時…この優しい人と別れてしまう時…私は戻れる喜びだけを感じていられるだろうか…?
笑って、この人に、さよならと手を振れるだろうか…?
(…今だけ)
時間を止める事も、事象の流れを止める事も叶わないならば、少しだけ夢を見ていたい。
(…ほんの少しだけでも時が止まればいいのに……)
そんな事を思った時、幸村がぎゅ、と桜乃を抱き締めながら言った。
「早く、帰らないとね」
「…っ」
考えていた事と真逆の事を言われて、桜乃が身体を強張らせる間に、幸村は続けた。
「君の御祖母さんも、他の先生たちもみんな、早く探し出してあげないとね…大丈夫、きっと皆無事だよ。こんな所でぐずぐずしていられない、早く全員が揃って、帰らないとね…家には家族だって待っているんだから」
幸村の言葉はあくまでも優しい。
優しくて、正しくて…愚かな自分の想いをさくりと突き刺してくる。
反撃の余地すら残さずに。
「……そうですよ、ね」
震えそうになる言葉を必死に抑えて、桜乃は答えつつ頷いた。
「そして、帰ったら…」
一度、そこで海の彼方を見つめた後、幸村は改めて桜乃を上から見下ろした。
「…君に、会いに行くよ」
「っ!……え…?」
これまで常に落ち着いた態度を見せていた男は、そこで初めて照れ臭そうな笑顔を浮かべてみせた。
「皆が落ち着いた後で、何の心配もなくなった時に、また君に会いに行くよ…東京と神奈川ならすぐ傍さ、少なくとも日本とこの島よりは近い筈だから」
「幸村、さん……」
「…この無人島っていうのも、悪くはないけど…ちょっと野暮なんだよね、人も多すぎるし」
「え?」
「普段は『無人島』でも今はそうじゃないから…俺達を含めて今この島に何人いると思う? どんなに自然が見事でも、これだけ知っている人達ばかりの場所じゃ…落ち着いてデートも出来やしない」
「っ!!!」
直接的な言葉を投げかけられた桜乃が真っ赤になり、その様を月下で見つめた幸村は首を傾げて尋ねた。
「日本に戻って…俺が君にデートを申し込んだら、君は…受けてくれるかい?」
「〜〜〜〜っ」
赤くなったまま相手を見上げ、視線を逸らすことも出来ずに桜乃は暫し沈黙していたが、やがてゆっくりと…しかし、その小さな身体にあるだけ全ての勇気を振り絞る様に…頷いた。
そして頷いた後に、これもまたゆっくりと唇を開いた。
「……はい…」
「良かった…じゃあ尚更、みんな無事に帰らないとね」
にこ、と笑った幸村は、そこで初めて、桜乃から差し入れられたボトルへと目を遣り、それを掲げて見せた。
「ふふ、緊張して喉が渇いちゃった…有難く貰うね」
「は、はい…どうぞ…」
緊張しているって言いながら、全然そんな風には見えないんですけど、と思いつつ、桜乃は蓋を開けて中身を飲む男の姿を見つめていた。
「……ああ、確かによく冷えてて美味しい……はい」
「え?」
蓋を開けたまま自分に渡してきた幸村に、桜乃が疑問の表情を向ける。
「君も喉が乾いただろう、飲むといいよ」
「え…で、でも…」
そのまま口をつけたら…それって…間接キスになっちゃう…
照れと戸惑いでなかなか受け取ろうとしない少女に、しかし幸村は悪戯っぽく笑いながらそっと囁いた。
『『今は』これで我慢して…無事に戻ったら、デートの時にちゃんと…ね?』
「〜〜〜〜〜!!」
私は果たして、無事に生きてここから出られるんだろうか…その前に、この人にショック死させられてしまうかもしれない…
桜乃は、細かく震える手で、男からボトルを受け取った。
今も桜乃を見つめる若者の瞳の輝きが、視覚を通じて彼女を侵す麻薬のようにその心を操って…
彼の唇の感触を知るその場所へ、彼女の唇を誘って…触れる。
冷たい水なのに、飲む程に身体が熱をもってくる…それは男の唇を想ってしまう心と、見下ろす彼の視線が、桜乃を芯から焼き尽くそうとしているからなのか…
「…美味しい?」
「…っ」
言葉では答えられず桜乃はこくんと頷くのみであり、その濡れて月光に輝く艶やかな唇を、幸村は甘い痺れを背筋に感じながら見つめていた。
(参ったな…本当に早く帰らないと、俺の方が我慢出来なくなりそうだ…)
これでも結構、自制心には自信があったんだけどな…
この遭難が、何者かの手によって仕組まれている事は薄々勘付いている。
別にそのまま最後まで付き合っても良かったけど、こうなったら早めに切り上げさせてもらおう……
(まぁでも、『今』はもう少しだけゆっくりさせてもらうよ…この場の全てを忘れないよう心に刻み付ける為に)
ふふ、と小さく笑いながら、幸村は愛しげに桜乃の身体を抱き締めていた……
了
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