魔法使いと灰被り娘 第三節


 最初の舞踏会が終了してから三日目のこと…
『おーい、精市、朝だぞーい』
「ん…」
 ブン太の声で起こされた精市は、ゆっくりと、寝心地のいい毛皮の上で寝返りを打ち、目を開けました。
「…もう朝?」
『お前さぁ、昨日も遅くまで論文とかいうの書いてただろい? ちょっとは休めよい』
「気を紛らわせたいんだ。退屈だし」
 起き出した精市は、薄暗い洞穴の様な場所でうーんと一つ大きな伸びをしました。
 そんな彼の傍に、にゅ、と白い毛むくじゃらの怪物の顔が迫ります。
 怪物の頭は精市の身長程に大きなものでしたが、精市はそんな怪物に怯える様子もなく、寧ろさわ、とその毛並みを撫でて挨拶までしました。
「お早う、ブン太」
『ん、桜乃はもうとっくに起きてるよい。今日も朝から掃除を言いつけられててさ』
「そう…」
 何と、その大きな怪物はブン太でした。
 と言っても、ネズミの彼が大きくなった訳ではなく、精市が自身を魔法で小さくしていただけの事だったのです。
 今彼がいるのは、桜乃の家にこっそり作られていたネズミ達の穴倉でした。
 確かにここなら、家人達には決して見つかることはないでしょう。
 流石に女性の部屋に間借りする事は憚られたので、精市は夜は身体を小さくして、ネズミ達の穴倉で眠りに就いていたのです。
 客人に対して酷い無礼だと桜乃は必死に止めたのですが、精市本人は意外とネズミ達の話す内容が面白かったのか、そういう暮らしを思い切り楽しんでいる様です。
『じゃ、出るか。起きたら台所に来いって桜乃が言ってたんだー。乗れよい、精市』
「うん」
 促されるままに精市がブン太の背中に乗り上がると、そのネズミは一気に穴倉から通じる秘密の抜け道を走り抜け、一気に台所へと向かいました。
 階段などを使ったらたっぷり一分以上は掛かるところが、抜け道を使えば数十秒です。
『ほい到着っと』
「有難う」
 そして、台所に到着したところでそこに誰も居ない事を確認すると、精市はその日初めて元の大きさに戻りました。
「ふぅ…あ、サンドイッチが置いてある…こっちは君達のだね」
 台所のテーブルに置かれていたサンドイッチには、桜乃から精市の朝食である事を示すメッセージカードも添えられていました。
 隣に置かれていた野菜と肉が山盛りのボウルはどうやらブン太達の食事分の様で、精市はそれを床に置いて彼らの望むままにさせてやりました。
 程なく、彼らが起きたことを聞きつけたのか、そこに他のネズミ達がやって来ます。
 弦一郎と蓮二は、どうやら今は家の中を見回っている様です。
「お早う、みんな」
『ああ、お早う精市…昨日も、桜乃の部屋を魔法で暖かくしてくれて有難う。お陰で彼女も、随分と身体の調子はいいらしいんだ』
「あれぐらいなら初歩の初歩だからね」
 何より居候しているし、と言ったところで、台所から離れた廊下から声が聞こえてきました。
『ちょっと桜乃! さっさと片付けなさいよ、このノロマ!!』
『す、すみません! お義姉様! 今すぐに…!』
「……」
 ふ、とそれまでの笑顔を打ち消した精市が、そちらの方へ顔を向けながら無言でぱちんと指を鳴らします。
 するとそのすぐ後に再び向こうから、すってーんっと何かが激しく転ぶ音と、ぎゃっという女性のあまり美しくない悲鳴が聞こえてきました。
「…不幸な事故ってあるんだよねぇ」
 ふっと微笑む精市の向こうでは、この見習いが何をしたのか敏感に察知した獣達が無言を守っていましたが、相手はその空気にも気付かない様子で更に呟きました。
「ああ…こんな事なら、専攻に黒魔術でも選んでおくんだった…世の中にこんなに悪意溢れる人間がいるなんて知らなかったよ…せめてあの子は守らないと」

(で、誰彼構わず呪い殺す訳ですかい)

 思わず心の中で突っ込んだ獣達でしたが、特に声に乗せる事はありませんでした。
 それから暫くして、精市がサンドイッチを食べ終えた頃に桜乃が戻って来ました。
 彼は食事を食べ終えましたが、ネズミ達はまだしゃぐしゃぐしゃぐしゃぐ…と食事に夢中になっています。
「あ…精市さん」
「お早う桜乃…朝から災難だったね」
「そ、そんなことないですよ」
 ぱたぱたと手を振る桜乃でしたが、その左の頬が赤く腫れているのに精市はすぐに気付き、そっとそこに手を触れさせました。
「っ!」
「…本当に酷い事をする…痛いの痛いのとんでけー…っと」
 すりすり、と頬を数回撫でてやって彼が手を離した時には、彼女の頬の赤みは消え、彼女が感じていた痛みの余韻と痺れも綺麗に消えていました。
「あ…」
「もう大丈夫だよ」
 ぽむぽむと頭を優しく叩かれ、桜乃は一気に顔を赤らめます。
 この見習いの若者と住むようになってから、桜乃は何度も彼の優しさに助けられ、また、慈しまれていたのです。
「あの母娘はまた新しいドレスの生地を見に出かけるんだろう? 行ったら俺の魔法で掃除は出来るから、君はゆっくり休んでおいで」
「……精市さんは」
「ん…?」
 呼びかけられ、振り返ると、桜乃がじっと尊敬の眼差しで自分を見上げています。
「本当に、凄い魔法を幾つも使えるんですね…皆を人間にしたり、服を変えたり…それに家の掃除も出来るし、私の部屋も暖かくしてくれて…何とお礼を申し上げたらいいのか」
「やだな、そんな事言われたら照れ臭いよ…俺は今は只の見習いさ、そうは褒められるけど、実際俺の家はこの家ほど綺麗じゃないし」
 ふふ、と微笑みながら、精市はきょろりと台所を見回します。
「この家に最初に来た時から、凄く綺麗で驚いていたんだ。しかも、掃除は君だけでしてるって言うから感心したよ。確かに俺も家で魔法を使えばもっと片付くんだろうけど、どうにも不精でね」
「まぁ」
 おどける相手に桜乃も思わず笑みを零し、そっと相手に向かって腰を軽く曲げました。
「じゃあ、精市さんに優しくしてもらったお礼に、いつか私が精市さんの家を綺麗にお掃除してあげますね」
「ふふ、そうだね……いや」
 ふと、頷きかけた精市は、しかし至極真面目な顔で相手の申し出を断りました。
「それは駄目だよ…君が行くべきは俺の家じゃない、あの立派なお城じゃないか」
「!」
「舞踏会には連れて行けたけど、君の願いはまだ果たされてないからね…でも、心配しないで」
 ゆっくりと言いながら、精市はそっと桜乃の頭に手を載せて頷きました。
「君は、俺が必ず妃にしてあげるから」
 それが女性の至上の夢だと言うのなら…俺は君の為にそれを叶えてみせよう…
「精市…さん…」
 決意を新たにする若者に、桜乃は何故か悲しみすら覚えさせる憂い顔で彼の名を呼び、何かを言おうとしたのですが、それが果たされる前に台所に弦一郎と蓮二が飛び込んできました。
『精市!』
『来たぞ! 新しい舞踏会の招待状だ!』
 そう言いながら二匹が相手に差し出したのは、この家に直に届けられたらしい一通の招待状でした。
 これを二匹が手に入れているということは…あの母娘は家を早速空けた様です。
 おそらくはこの舞踏会の準備に行ったのだろうと思いながら、精市もまたそれを取り上げました。
「やっと来たね…そうか、明日に…」
『では、明日また…』
 比呂士の言葉に、精市はすぐに頷きます。
「勿論…また君たちの出番だ。宜しく頼むよ」
 獣達が一斉に彼におう!と応える脇では、桜乃が浮かない表情でそんな彼らを見つめていました。
(私が…王子様の妃に…?)
 夢みたいな話だと思っていたのに、今はもうそれが現実味を帯びてきている…でも、今の自分にとっては、それはまだ夢の様な話…
(おかしいな…私、確かに前は舞踏会に行きたいって…王子様にお会いしたいって思っていたのに…)
 まるで自分のものではないような奇妙な感情が溢れ、桜乃は心が激しく乱れました。
(お会いして…確かによくして頂いたけど、今は最初に思っていた程に会いたいと思えない…私は一体、何に憧れていたのかしら…?)
 綺麗なお城で、王子様に大事にされて、何不自由ない生活…それは確かに魅惑的に見えていたけれど…私はそこで……
『桜乃!』
「っ…」
 呼びかけられてはっと我に返ると、ブン太がちょろっと彼女の足に纏わりついていました。
『どうしたんだよい桜乃? 不安なのか? 心配すんなって、今度こそ上手くいくさ。俺達がついてるんだから!』
「…ブンちゃん…」
 自分をあの城へ送り出す為に、彼らが一丸となって協力している姿を見ると、桜乃は何も言えなくなってしまいました。
 それに、彼女はまだ自分の気持ちの正体に、気付いていなかったのです。
 そうしている内に、桜乃の家ではいつもの彼らの日常と、騒がしい義母娘達の非日常が過ぎて行ったのです。


 そして二度目の舞踏会当日、桜乃はやはり朝から義母や義姉の準備にてんてこまいでした。
 それでも最初の騒ぎよりは多少は慣れた手つきで彼女達の準備を整えてやると、再び玄関から義母娘の出発を見送ったのです。
 時はもう夕暮れ、城の舞踏会が開かれるのももうすぐです。
「彼女達は行ったみたいだね」
 あの三人がいなくなった事を確認すると、魔法使いの見習いはすぐに獣達と桜乃を呼び集め、台所の裏口から再び外へと彼らを連れ出しました。
「さぁ、時間がないよ。急いで準備をしないとね」
 精市は、再びかぼちゃ畑で整った形のかぼちゃを探し出し、それを持ってあの大通りに行くと、四頭の銅像の前で再び彼らを見事な馬車へと変えました。
 そして、あの時と同じ様に獣達を人間に変えたのです。
 一度目より馬車も従者達も更に豪華な装いにした精市は、満足そうに頷くと、最後に桜乃に振り返りました。
「さぁ、桜乃。こっちに来るんだ」
「あ…は、はい」
 心の中のさざめきが何であるのか分からないまま、桜乃は相手に促されるままに数歩歩み寄ります。
 そんな彼女の姿を愛おしく思いながらも、精市は必死に自身の気持ちを押し隠していました。
 桜乃とは違い、彼はもう自分が彼女に恋してしまっている事を分かっていたのです。
 しかし、分かっていても自分が桜乃に手を伸ばす事は出来ません。
 己の独りよがりで、城に住む王子様と結ばれるという桜乃の夢を壊す事など出来なかったのです。
「不安かい? 大丈夫、今度こそ上手くいくから」
 王子にはなれないけれど、今だけは…
 魔法をかける今だけは、この子は俺の傍にいてくれる……だから、俺は自分の持つ力の全てで応えよう。
「ほら…」
 馬車や従者達が見守る前で、精市は優しく桜乃の手を取りました。
 まるで、城の王子が彼女をダンスに誘った時の様に…いや、その時よりもずっと優しく、想いを込めて…
「っ!」
 弾かれる様に顔を上げた桜乃の瞳に、優しく微笑む精市の姿が映ります。
 それは、王子と目通りを果たした時より、彼と踊っていた時より、ずっと甘美で、切なくて、張り裂けそうな心の熱をもたらしたのです。
(あ…!)
 何ということでしょう。
 この時になって初めて、桜乃は自分が王子様ではなく精市の方を愛していることに気がついたのでした。
 自分の気持ちに気付いてしまった桜乃は、激しくうろたえてしまいました。
 気付いてしまえば、もう城に行きたいという思いもなく、ただこの若者の傍にいたいという願いだけが溢れてきます。
「あの…」
 しかし、桜乃が想いを打ち明ける前に、精市は彼女に前回より一層煌びやかなドレスを魔法によって着せてしまったのでした。
 今回は蒼い色でなく、太陽の様に明るい色のドレスで、リボンや花飾りがあしらわれています。
 そして、続けて彼は右手を振って、桜乃の前に一足のガラスの靴を出してみせました。
「俺の魔法はまだ未熟だから、いずれは姿を消してしまうんだけど…何とかこれだけは間に合わせたよ。君の小さな足に良く似合うだろう」
 確かに、桜乃がそれに足を差し入れると、するりと誂えた様に綺麗に入りました。
 これで、全ての準備が整いました。
「ほら、みんなが待っている。行くんだ、君の幸せの為に」
 そう言って桜乃を馬車籠の中に乗せると、彼は再度窓から覗き込み、忠告をしました。
「前にも言ったけど、忘れてはいけないよ。魔法は今日という日が終われば夢と消えるんだ…時計台の鐘が明日を告げる前には、戻っておいで」
「精市さん…」
「…楽しんでおいで」
 にこ、と笑い、魔法使いの見習いは城に向かって走る馬車を見送りました。
「……」
 馬車が視界から消えた時、彼の顔からはもう笑顔は失われていました。
 可愛い顔であどけなく笑っていたかと思えば、あんなに物憂げで切なそうな顔をする少女。
(どんな強力な魔法も恋には敵わないな…他の男に想いを寄せていると分かっていても、つい抱き締めたくなる…)
 もし抱き締めていたら…それは二人にとって一番幸せな事だったかもしれません。
 しかし、桜乃の想いが自身に向けられていると知らないまま、彼は溜息をついて、台所の裏口へと向かいました。
「さて…俺の腕も最後の仕上げに間に合う様にしないと…」



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