一方、走り続ける馬車の中では、ささやかな異変が起きていました。
「桜乃、どうした? そんなに沈んだ顔をして…」
「緊張しているのか?」
綺麗に着飾っていた桜乃の表情が、あまりに物憂げで、控えていた弦一郎と蓮二が流石に心配になったのです。
しかし桜乃は、何も言わずに首を横に振るばかりです。
「?」
「??」
弦一郎と蓮二が顔を見合わせ、不可思議に思っている間、桜乃は心にある事を決めていました。
こんなに協力してくれている皆には申し訳ないけど、やはり自分には王子様の妃になるという事は考えられない…舞踏会に行っても、決して王子からの求婚は受けず、そのままに帰ろう。
そして、もう舞踏会に行かなければ…姫として扱われていた自分の存在もまた、夢として消えていくだろうと。
そんな彼女の想いは誰にも知られぬまま、馬車はいよいよ城へと到着しました。
あの姫君の再びの見事な馬車での来訪に、門番達は急いで大広間にそれを知らせ、そこは一気に慌しくなりました。
「姫、行ってらっしゃい」
「どうぞ楽しい一時を」
従者達も、桜乃達を以前と同じ様に大広間へと見送ったのですが、彼らが消えた後に、ふいと雅治が首を傾げておや?という顔をします。
「…おかしいのう」
「どうしました?」
比呂士の問いに、彼は首を何度か傾げながら口元に手をやり、答えます。
「……いつもの桜乃と違うんじゃよ…あんなに悲しそうな顔をしとる彼女は初めてじゃ」
「悲しそう?」
「どうして? やっと念願叶うって時なのに」
ジャッカルとブン太が奇妙な話だと言いましたが、それでも雅治は自身の直感に自信を持って、意見を翻そうとはしませんでした。
そんな彼らが馬車と共に控え、前回と同様にメイド達に騒がれている一方、桜乃達は大広間へと足を踏み入れていました。
再び、弦楽器達は一時の休憩に入り、客人達のせわしなく動いていた口は一様に閉ざされます。
しかし代わりに、女性達の全ての視線は、食い入る様に桜乃のドレスの細やかなところまでをじっくりと眺めていました。
目に全て焼き付けて、帰ったら早速同じものを仕立てさせようと考えていたのです。
「ふむ…」
弦一郎は、目敏く王子を探し出し、彼が桜乃の姿を見た瞬間にこちらへ全ての意識を傾けた事を鋭敏に察知しました。
「間違いなく、あの男はお前だけを見ている様だ…自信を持っていいのだぞ、桜乃」
「…うん、弦ちゃん」
「……」
そんな桜乃の姿をちら、と見た蓮二は、何かを考えている様子でしたが、そこでは何も言わずに桜乃をダンスへと送り出しました。
「さぁ、行って来い。俺達の事は気にするな…何かあれば、必ず守ろう」
「有難う…」
そして桜乃が二人から離れていったところで、蓮二はつい獣の時の癖で、くん、と鼻を微かに鳴らしました。
「…どうした蓮二」
「匂いがするのだ。ほんの微かな匂いだが…俺には覚えがある、この匂い…桜乃はまた『嘘』をついている」
「『嘘』?…本心を隠しているのか?」
「…おそらくは」
では何を隠している?という弦一郎の問いには、分からないと素直に答え、優秀な執事の姿をした猫は思案しました。
「難しいところだな…隠したいと本人が思っているものを、あからさまに暴くのは気が進まない…彼女が語らぬ限りは、俺達も沈黙を守った方が良かろう」
「一理あるな…俺もそれには賛成だ。俺達は何があっても桜乃の味方…何かあればその時に彼女を守ればよい」
「その通りだ」
そう言って、蓮二は最初にそこに来た時と同じ様に食事を取り分け、従者達の許へ運びに行こうとします。
「ま、また行くのか?」
「うむ…お前には桜乃を守るボディーガードの役目があるからな…俺の方が良かろう」
「そ、れはそうなのだが…ううむ」
実は最初に来た時も、弦一郎は蓮二がいない間、随分と多くの女性達に声を掛けられてしまっていたのです。
見た目は逞しく、顔も整っており、しかし話し掛けた時の反応が実に初々しくて純情な若者は、女性達にとってもかなり魅力的に見えたのでした。
軟派で遊び上手な男と見られなかったのは彼にとっては良い事だったのかもしれませんが、元々そういう色恋沙汰のスキルは皆無だった事と、彼女達が付けている香水の匂いがあまりにきつく、弦一郎にとっては或る意味地獄の責め苦にも等しい時間でした。
「は、早く戻って来てくれ。どうにも一人だとこういう場所は落ち着かん」
「お前もこの際、女性というものに慣れたらどうだ?」
「結構! 俺は桜乃以外、人間の女に興味はない!」
思わずがるるっと唸りそうになるのを必死に堪えながら、弦一郎は相手を送り出し、それからも桜乃をじっと見つめながら警護に当たりました。
あの王子が桜乃に夢中になっている事は、野性の勘で明らかなのです。
後は、彼からの求愛を受けたら全ては上手くいく筈なのですが…
(…む?)
ふと、弦一郎は守るべき少女の行動に疑問を持ちました。
王子と一緒に踊っているのは…それはおかしくはありません。
しかし、いつまでも踊り続けるという事は勿論なく、曲はいつかは終わります。
そして曲が終わると人は思い思いに休んだり、語らったり、別の行動をとるものです。
そしてそういう時こそ、男女が二人きりになり、愛を語るに最も相応しい時間なのです。
(なのに…何故、動かない? 桜乃)
美しい姫君は、曲が終わった後も、人々が大勢いる場所から動こうとはせず、王子だけではなく他の貴族達も交えてのお喋りに興じているのでした。
まるで王子と二人きりになる事を、敢えて避けている様に…そしてそうする事で、彼からの求愛を止めている様に…
(桜乃、何をしている!? お前には時間は残されていないのだぞ?)
あの時計台の針が天に向かい、鐘の音が響くと同時に、お前の夢は終わってしまうのだ。
早く、早く王子の求愛を受けないと…!
彼が気を揉んでいるのも構わず、桜乃はずっとそういう行為を続け、止めようとはしませんでした。
そうしている内に、時間だけが確実に過ぎてゆき、時計台の針はその流れに従って時を刻んでいきます。
焦っているのは、実は王子も同じことでした。
再び出会った姫は、相変わらず美しく優しく、彼の心を虜にしていたのです。
ところが、こちらの心に気付いていないのか、娘はなかなか自分と二人きりになってくれようとはしません。
素性は分からずとも、彼女を手に入れたいと願う彼は、帰ろうとする姫を何度も何度も引き止めていました。
そして時計台の針が十二時を指し、鐘が鳴りました。
「っ!」
はっと我に返った桜乃でしたが、ふと、走り出そうとした足が止まります。
もしここで自分が本当の姿を晒したら…?
そうしたら、全てが元に戻る…私はもう二度と、王子様に会うこともない。
でも、それでも…私はそれでもいい……
そんな事を思っていた桜乃を我に返らせたのは、いきなり自分を抱き上げてきた若者でした。
弦一郎です。
「姫! お時間です、もう戻らなければ!」
「さぁ急いで!」
蓮二も傍に付き、彼らは一気に城の門へと走り出しました。
すぐに王子と彼の付き人が三人を追いかけましたが、弦一郎達の俊足にはどうしても追いつけません。
既に鐘の音は二つを数え終わっています。
桜乃のドレスが徐々に色が薄くなってゆき、弦一郎達の身体には痺れが走ってきています。
魔法が解けかけている証でした。
「くそ…っ!」
三つ…四つ……
五つ目の鐘の音が響いた時、走っていた弦一郎の身体が激しく揺らぎ、桜乃の身体も同じく激しく揺れました。
「あ…っ」
何とか根性で彼女を落とさずに済んだ若者でしたが、その時、桜乃の片方の足からするんとガラスの靴が離れ、そのまま階段へ落ちてしまいました。
しかし、拾い上げる暇などもうありません。
七つ…八つ…九つ……
そして鐘が十二回打ち鳴らされた後、王子達は城の門へと到着し、辺りに姫君達がいないかと探し回りましたが、何処にも姿は見えません。
ずっと眠らずに門番をしていた兵士にも尋ねましたが、彼はそんな姿の姫君は来なかったと答えました。
ただ、顔立ちは整っているが酷いぼろを纏った娘と、犬と猫、ネズミ達が、何処かの通りへと向かって走っている姿を見たというだけでした。
またも、魔法の様に消えてしまった姫君を思いながら王子が階段を昇っていくと、きらりと何かが光りました。
慌てて駆け寄り、そこで王子が取り上げたのは、月光に美しく輝く片方のガラスの靴だったのです。
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