その頃、家の一室では義母娘達がガラスの靴に足を何とか通してみせようと奮闘していましたが、勿論、嵌る筈もありませんでした。
この家も駄目だったか…と長が落胆しながら、義母に尋ねます。
「この家に、もう他に女性はいないのか」
「いやしませんよ」
娘達が駄目だったこともあってか、苛立たしげに彼女はそう言いました。
しかし、その時、部屋の開けられていた窓から一羽の駒鳥が飛び込んできたかと思うと、ピアノの上でその駒鳥が高らかに歌ったのです。
『もう一人、もう一人、綺麗な娘が此処にいる。優しい子、素直な子、彼女こそが王子の花嫁』
それにびっくりした城の従者達は、どうしようと長を見つめ、長は少し考えた後に義母に再度確認します。
「我々はどんな身分の娘であっても、全ての女性を検める様に言われているのだ。もしいるのなら、いいから連れて来なさい」
そこまで言われたら従わない訳にもいかず、仕方なく義母は桜乃を部屋へと呼びつけたのです。
城の者達がいる部屋に連れて来られた桜乃は、顔面が蒼白で、小刻みに震えてさえいましたが、従者の長は、滅多に見ない高貴の者を前に緊張しているのだろうと思いました。
そしてよく見ると、あの駒鳥が歌った様に彼女の顔が整っているのが分かり、もしやしたらとガラスの靴を差し出したのです。
「さぁお嬢さん、怯えないで。一度だけその足を靴に合うかどうか確認するだけでいいのです」
きっと、本来ならば、幸せへの最後の儀式だったのでしょう。
しかし、桜乃は今の自分が、逃げられない罠に掛かった野ウサギにも似た心境でした。
もう逃げる事も適わず、桜乃はただ言われるままに片足をガラスの靴に乗せ、ゆっくりと進めます。
すると、まるで魔法が掛かった様に、ぴたりと一分の隙も無く、美しい靴は嵌ったのです。
合う筈がないと思っていた義母娘達は大いに驚きましたが、そこでまた駒鳥が歌います。
『ほらね、ほらね、ガラスの靴は彼女のもの。履いたものも、ポケットのものも。二つともが、彼女のもの』
またもその歌声に驚いた長は、急いで彼女のポケットを調べ、そこからもう片方の靴を確かに見つけたのでした。
試しに履かせてみると…これまたぴったりです。
こうなると、最早間違いはありません。
この娘が、あの舞踏会で王子と踊っていた…姫君でした。
全員が桜乃を見つめ声を失っているところで、駒鳥が桜乃の傍まで飛んでくると、それは姿を変えて精市の姿になりました。
「さぁ桜乃…これが俺からの最後の贈り物だよ」
そう言って彼女の肩に触れ、桜乃の着ていたみずぼらしい服は、純白のドレスに変わりました。
今までで最も美しく、最も清楚な…世界で一番幸せな花嫁だけに相応しいドレスです。
それは、時を過ぎても褪せることもなく消えることもない…精市のこれまでの修行の成果でした。
「精市さん…」
「ああ…とても綺麗だ、きっと君に似合うと思っていたよ。そうさ、どんな国の姫君だって敵わない…君の幸せを得る為の手助けが出来て、本当に良かった…」
魔法使いは、姫君を助け、王子様へ引き合わせ、その幸せを紡ぐ者…見習いとは言え、君に会えてその役を負う事が出来たのは、俺にとっても至上の喜びだったんだ…
この胸の痛みは…暫く続くかもしれないけど、それでも君が幸せになれるなら俺は耐えられる。
そして、若者が姫の手を離そうとした瞬間、
『ちょっと待った――――――――っ!!!』
突然、けたたましい音をたてて部屋の扉が開き、一斉にそこに獣の一団がなだれ込んで来たのでした。
弦一郎や蓮二、そしてネズミ達です。
彼らの乱暴に、部屋中は途端に大騒ぎになりました。
慌てふためく人間達をネズミ達が更に翻弄している隙に、弦一郎が叫びました。
『桜乃! これが俺達がしてやれるせめてもの奉公だ!! いいか、これが本当に最後になるのだぞ!? 今こそお前の幸せを選べ、お前の本当の幸せを選べっ!!』
「弦ちゃん!?」
「君達…一体何をしているんだ!?」
精市は困惑して、彼らが従者や義母姉を二人に近づけさせないように必死に威嚇している姿を眺めているばかりです。
彼らも、願いは同じだった筈なのに…
そう思っていた精市の腕を、掴んだ者がいました。
「…?」
桜乃でした。
彼女は、何かを心に決めた強い瞳で、精市を真っ直ぐに見上げています。
「桜乃…?」
「精市さん……私は…城に行っても決して幸せにはなれません」
「え…?」
「だって…そこには精市さんはいませんから」
「!!」
相手の告白に、魔法使いの見習いは、ぎょっとしてその場で固まってしまいました。
想い人から告白されたら、魔法使いでも何でも、反応は似た様なものです。
「君は…」
「…本当にごめんなさい…こんなに良くしてもらったのに…精市さんにもみんなにも…でも、私は城での贅沢な暮らしより、大好きな人の傍で一緒に生きる方がいい!」
「桜乃…馬鹿な」
きっと…夢に違いない、と精市は思いました。
こんな夢みたいな…自分の望みがこんな形で叶えられるなんて、魔法も使っていないのにそんな都合のいい話がある訳がない。
きっと彼女は、目の前の幸せの大きさに戸惑っているのだろうと、精市は必死に相手を説得しました。
「君は世界で一番の幸せを手放そうとしているんだよ。贅沢で、何の悩みもない、誰からも大事にされるような生活が待っているのに、それを手放そうだなんて…」
しかし、一度決めた乙女の心は、最早、誰であっても変える事は出来ませんでした。
「誰から大事にされても、それが貴方じゃなければ意味はないんです!!」
叫び、桜乃は顔を覆って嗚咽を漏らしてしまいました。
「我侭な女だって分かっています…貴方の気持ちを知りもしないでこんな勝手を言っているんですから…でもお願い、どうかお願いします…」
涙を流しながら、桜乃は想いを込めて相手に願います。
「もし、こんな私でも良ければ……貴方と一緒に、連れて行って…」
「!!…」
桜乃の想いを知り、覚悟を知り、精市は胸を衝かれました。
そして、これまで何とか防ぎ、食い止めていた世界一厄介な魔法が、遂に自分にかけられたのを知りました。
(ああ……もう、駄目なんだな)
二度と、解かれる事はないだろう…この魔法は……
自分はこれから、生涯この魔法に掛けられたまま生きてゆく…きっと、それを歓びとして生きてゆくのだろう。
「…いいよ、おいで」
優しく微笑みながら、その若者は自分が贈ったドレスを纏う少女を抱き締めました。
「桜乃…俺の花嫁」
そして、王子から花嫁を奪うという悪事を心に決めた男は、暴れる獣達に高らかに宣言したのです。
「さぁみんな行こう! 世界一の花嫁は、俺のものだ!」
遠い遠い空の下…のんびり呑気な田舎町
「ん…」
一軒の小さな家の中、こじんまりとした寝室に朝日が差し込み、そこの主人を優しく起こします。
「…朝か」
呟き、むくっと起き出した若者は、遠くの国で花嫁泥棒を仕出かした、魔法使いの見習いでした。
ここにもその事件の噂は流れてきてはいるのですが、人々は、張本人が彼であるとは誰も知らず、日々を平和に生きています。
「昨日はちょっと根を詰めすぎたかな…でも、お陰で良い論文が書けた」
言いながら立ち上がったところで、彼は何処からか漂う香ばしいパンの匂いを嗅ぎ、そして、聞こえてくる食器が擦れあう音を聞き、幸せそうな笑顔を浮かべました。
「相変わらず早いな…」
感心した様に言うと、彼はそこで手早く着替えると、いそいそとリビングへと向かいます。
「おはよう」
『おっせーよい!! 精市! パンが冷めちまうじゃん!!』
「ごめんごめん」
リビングで彼を迎えたのは、シェパードとシャム猫、そして五匹のハツカネズミ。
彼らは、それぞれに与えられた朝食の前で、のんびりと朝の一時を過ごしていました。
そして、そこにサラダボウルを持ってきた一人の少女が、優しく精市に微笑みかけます。
「あ、お早うございます、精市さん」
「うん、お早う桜乃」
微笑に微笑を返しながら、精市は相手に優しいキスを与えました。
この日課ももう馴染み深いものなのですが、まだ桜乃はその度に真っ赤になってしまいます。
しかし、そんな彼女の姿を見るのも、精市は大好きでした。
家の主人が揃ったところで、今日も賑やかな朝食が始まります。
「御祖母様はどう? 腰の調子は」
「今はもうかなりよくなりました。近くに散歩にも出かけられるようにもなったんですよ」
「へぇ…」
桜乃と精市の会話に、赤也が肉を齧りながら割り込みます。
『アレで腰悪かったってマジ? 精市が桜乃を連れて来た時に、めっちゃくちゃ怒ってモノホンの雷落としてたじゃん…』
「うん…まぁ、自業自得なんだけどね」
にこ、と笑って答えた精市ですが、後悔している様子はまるでありません。
『王子の妃にしてくる筈が、この上もなく派手に騒いで花嫁を奪ってきたとあれば、御祖母様のお気持ちも理解出来ます…しかし、あの場合はやむを得なかったでしょう』
『まぁのー、城に迎えられても幸せになれんのなら意味はないからの』
比呂士と雅治はうんうんと頷きあいながらも、ちゅるちゅるとスパゲッティを食べ続けています。
『問題だったのは、アレが大々的に広められてしまったことだな…』
『あー……結婚式の紙吹雪張りに舞ったって言ってたからな、号外』
蓮二の呟きにジャッカルが唸りつつ答えると、弦一郎が口を挟みます。
『し、しかし、桜乃の説明で怒りは解けたのだろうが…まぁ、それなりの罰は受けてしまったが…』
『お陰で桜乃も花嫁修業中だしなー』
あの日、桜乃を奪ってきた日、精市は事の顛末を報告する為に自身の祖母の家に赴いたのでした。
単に恋人を連れて来ただけなら向こうも喜ぶだけだったのでしょうが、よりによって妃にする筈だった娘を土壇場で奪い取って来たのですから、祖母は当然怒りました。
更にその上、人の目に極力触れないように行動するべき魔法使いが、堂々と花嫁奪取を宣言してそれが世間に吹聴されてしまったのですから、更に怒りは倍増。
彼女は自身の腰の持病も忘れ、精市にとことん説教したのです。
実は、魔女の腰の調子が良くなったのは、この時の怒りが原因だったのではないかとも言われています。
「俺の罰はどうでもいいけどね…本来チャラになる予定だった課題がまた課されて、あと幾つかが増えただけだし…それより桜乃は大丈夫? 辛くない?」
「ええ、全然平気です。最初こそ叱られてしまいましたけど、あれからはずっとよくして頂いているんですよ?」
精市が叱られている時に、桜乃や獣達が必死に弁解し、桜乃は土下座、獣達は土下寝…所謂『伏せ』で何とか彼の責めを軽くしてもらえるように頼んだのでした。
そこまで仮子や獣達に願われては流石に祖母もあまりきつくは言えず、仕方なく後はそれぞれに罰を課す形にしたのです。
精市には彼が言った通り、複数の課題が与えられました。
獣達は基本的には桜乃の傍にいる事が許されたものの、当面は魔女の手足となって働く事を命じられました。
そして桜乃は花嫁修業の名目で、魔女の世話をする事になったのです。
以降、桜乃は魔女の家に住まう事になったのですが、朝になれば精市の家に行き、朝食の準備をして、彼を学校に送り出した後は家の掃除や動物達の世話をしました。
そして夕方になれば帰って来た精市と夕食を摂り、魔女の家に戻るという生活を繰り返す様になったのです。
『人間というものは本当に不思議だな…世間体や名目というものは、そんなに重要なコトなのか?』
『折角の花嫁衣裳、まだタンスの中じゃんか』
蓮二とブン太の言葉に、桜乃はそれでも楽しそうに笑います。
「うん…楽しみにとってあるの。精市さんが学校を卒業したら、また着るのよ」
彼が無事に学校を卒業し、晴れて一人前の魔法使いになった時、その時二人は初めて結婚を許されるのです。
そしてその日、桜乃は精市が魔法で生み出したあのドレスを再び纏う事を夢見ており、それは精市にとっても待ち遠しい時でした。
「ねぇ桜乃…幸せかい?」
精市の言葉に、少女はきょと、とあどけない顔を向け、すぐにとびきりの笑顔を彼に見せました。
「はい! 私、きっと世界一、幸せですよ」
「…俺もだよ」
白亜の城、金銀財宝、多くの召使に、王子様…
それは全て泡沫の夢と消えましたが、桜乃はそれよりもずっと素敵で心安らぐ日々を手に入れたのでした。
そして彼らは、いつまでも仲良く幸せに暮らしました……
了
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