時を越える約束


『この度、隣に引っ越してきた幸村と申します。どうぞ宜しくお願い致します…』
『あら、これはわざわざご丁寧に…そうですか、こちらこそ…』

「…? おばあちゃん…?」
 何かの物音で、桜乃は目を覚ました。
 朝からずっと横になって休めていた身体はまだ重く、眠りから覚めると同時に辛さが甦り、幼稚園児である少女を否応無く苦しめる。
 元々病弱だった桜乃にとっては、この苦しみはもう慣れたものになってしまっていたが、生来の寂しがりの性格ばかりはどうしようもない。
 特に、身体が辛い時には心も弱くなるものであり、桜乃は枕元にも、部屋の何処にも誰もいない事に気付くと、途端に不安と心細さに支配され、もぞ…と布団から置き出した。
「おばあ、ちゃん…」
 真っ直ぐ歩けない…足が上手く上がらない…普通に歩けない…倒れそう…
 ぼんやりと霞む頭でそんな事を思いながら、桜乃はのろのろと声が聞こえてくる玄関へと歩いていくと、そこで見知らぬ一家と祖母が話している姿を見つけた。
「…?」
 誰、だろう…
 首を傾げる少女の姿に先ず向こうの一家が気付き、彼らの視線の向く先で、祖母が桜乃に振り返った。
「おや桜乃、目が覚めたのかい」
「…ひとりやだ…おばあちゃん」
 いつも甘えさせてくれる祖母に甘えたい一心で、桜乃はとことこと彼女に近づき、ぺたんと抱きついた。
「おやおや…すみませんね、ウチの孫なんですが身体が弱くて…これ桜乃、お客様のいる前でだらしないじゃないか」
 そう言われても、熱もある少女には、言葉は聞こえるもののそれを理解するのは難しかったらしく、ぼうっと玄関に立つ見知らぬ一家を見つめるしか出来ない。
「…?」
 『可愛らしいお孫さんですね、ウチにも近い年の子がいて…』と向こうの女性が何かを語っている間、桜乃は一人の少年に気がついた。
 両親…らしい二人の男女の後ろに立っている男子…自分よりは年上なのだろう、ずっと背が高くて目鼻立ちも整っている。
 柔らかそうな髪質の彼は、肌の色も女子の様に白かったが、瞳には強い意志の光が宿っている。
 まるでよく出来た人形の様な美々しさだったが、瞳の瞬きと身体の僅かな揺らぎによって、相手が人間であるのだと知る事が出来た。
(なんだろう…ずっとこっち見てる…)
 熱に浮かされた頭では、自分が今パジャマ姿で、長い髪も解いたままで、祖母に抱きついている姿だという事も認識する事は難しく、桜乃は少年の視線をじっと受け止めていた。
 敵意の無い、柔らかな視線だったからこそ、それが出来たのだろう。
 それから彼は、母親らしい女性から紹介を受ける。
「ウチの息子です、精市と言って今年小学生に上がったばかりなんですけど…」
「そうですか、ウチの桜乃と二つ違いなんですね…桜乃、精市君だよ。精市お兄ちゃん」
「友達からはセイちゃんって呼ばれていたんですよ」
 そんな相手と祖母の会話の中で、紹介された少年…精市と言われた子は、一歩を踏み出して桜乃へと近づき、にこりと笑った。
 この年齢の男子は、腕白な態度の裏返しで女子に敢えて冷たい態度をとることも多いのだが、彼は静かに育ちの良さを伺わせる礼儀正しさで桜乃に手を伸ばした。
「…よろしく、おねがいします」
「…ほれ桜乃、握手しなさい」
 祖母に促され、桜乃は精市へと手を伸ばし、自分より大きなそれと握手を交わしたが、手が触れ合ったところで向こうが少し驚いた表情を浮かべた。
「大丈夫? 手が熱い…」
 身内以外から身体の心配をされるのは、幼稚園の先生ぐらいしかいなかったので、桜乃は相手の反応にどう返したらいいのか分からず、恥ずかしげに祖母の影に隠れてしまう。
「あらら、すまないね、精市君。ウチのは恥ずかしがり屋でね…友達からはさっちゃんと呼ばれているんだけど、仲良くしてあげておくれよ」
「…はい」
 祖母に頷いた後、精市は改めて桜乃に目を向けてにこっと笑った。
「はやく良くなってね…さっちゃん」
「…うん」
 優しい笑顔で励ましてくれた少年に、桜乃は少しだけ苦しみと恥ずかしさを忘れ、微笑みを浮かべることが出来た。
「…ありがとー、セイちゃん…」
「…っ」
 とき、と軽く胸に感じた何かに精市が戸惑っている間に、挨拶が大体終わったところで桜乃の祖母は彼女の身体を抱き上げながら改めて一家に挨拶をした。
「本当に、わざわざ有難うございました。何か困ったことがあったらいつでも仰って下さい」
「はい、では失礼致します」
 そして、一家は玄関から暇をし、自分達が引っ越した先の隣の家に戻ってゆく。
「優しそうな方で良かったわね」
「そうだな…ここもあまり長い期間はいないかもしれないが…」
 夫婦が語る背後についていた精市は、戻る途中で一度桜乃の家の方を振り返った。
「……」
 彼の脳裏に浮かんでいるのは、あの家を出る前の、桜乃の笑顔だった。
 消えそうな笑顔だったから…こんなにどきどきしているのかな…?
(早く治ったらいいのに……)
 あんな小さな手が、凄く熱かった…大丈夫かな、あの子…
 きっと今頃、横になって寝ているんだろう隣人を思いながら、精市は新しい家へと戻っていった。



「セーイーちゃーん、あっそびーましょー」
「あ、さっちゃん」
 桜乃は、精市が引越しの挨拶に訪れたあの日から、幾らかもしない内にすっかり彼と仲良しになっていた。
 家が隣で年もそう離れておらず、何より相手が非常に優しい『お兄ちゃん』だったのが、一人っ子だった桜乃にとって嬉しかったのだ。
「いらっしゃい、さっちゃん」
「えへへー、セイちゃん。これあげます」
「え?」
 訪ねてきてくれた少女は、おさげを揺らしながら嬉しそうに、ラッピングされた小袋を差出した。
「おばあちゃんといっしょにクッキーやいたの」
「へぇ、すごいね! ありがとう」
「うふー」
 祖母がついていたとは言え、こんな小さな子がクッキーを焼いてきた事に少年は素直に驚き、嬉しそうにそれを受け取った。
 少年にとっても、桜乃はこの新しい家に引っ越してから最初に出来た小さなお友達であり、相手の優しく人懐こい性格も手伝い、ほぼ毎日顔を合わせている。
 幼稚園児と小学生低学年にとっては午後の時間はほぼ自由時間に等しく、彼らは夕方まで仲良く遊んでいた。
「はい、ごはんですよ、あなた」
「うん、ありがとう」
 やはり幼稚園の女児の一番好きな遊びは『おままごと』なのか、桜乃は何度目になるのか知れないその遊戯を今日も少年を相手に楽しんでいた。
 しかし、相手も桜乃の要求には素直に応え、優しい夫を演じてくれている。
 その上、今日の『ごはん』は桜乃が作ってきてくれた手作りクッキーという豪華版であり、若過ぎる夫は早速小さなおもちゃのお茶碗に入れられたそれを一つ口に入れた。
「…ん、すごくおいしいよ」
「ほんと?」
「ほんとう」
「よかったぁ」
 ほう〜と胸を撫で下ろした少女は、それから暫く、じーっと少年の方を見つめていた。
「? どうしたの? さっちゃん」
「……ほんとうはね、さくの、こねこねしておはなのかたちつくっただけだったの。あとはおばあちゃんがしてくれたの…」
「…そうなんだ、でも、それでもちゃんとさっちゃんが作ったんだから、えらいよ」
 嘘の慰めではなく精市は本心からそう言い、それを聞いた桜乃は嬉しそうに笑って、頷いた。
「うん…でもね、セイちゃん…さくの、もっとおおきくなったら、ちゃんとひとりでつくれるようになるからね」
「…そうだね、さっちゃんならできるよ、きっと」
「うん! そしたらね、いーっちばんおいしいクッキーはセイちゃんにあげる!」
「へぇ…うれしいな。じゃあ、楽しみにしてるからね」
 激励の言葉に、きゃ〜っと桜乃が大喜びしている姿がとても可愛くて、精市はなでなでと彼女の頭を撫でてやり、ふと思い出した様に顔を上げた。
「そうだ、さっちゃんにだけ見せてあげるよ。僕の宝物」
「え? たからもの?」
「そう、僕の部屋においでよ」
 おままごとを一時中断して、少年は少女を連れて自分の部屋へと連れて行くと、一本の新品のラケットを見せた。
 彼の年齢、体格に合わせた、子供用のテニスラケットだった。
「なぁに?」
「ラケット…僕、テニスやるんだ。すごく楽しいんだよ、テニス」
「てにす?」
「そう、自分のところに来るボールをね、これで打つんだ」
 それから少年は、二人で絨毯の上に腰を下ろした格好のまま、幼い少女にテニスについて熱く語り、少女もそれを興味深そうに聞いていたが、話が一段落ついたところではふぅと息を吐き出した。
「いいなぁ…セイちゃん、たのしそう」
「さっちゃんもやる? 僕、教えてあげるよ」
「うん…でもね、おばあちゃんとおいしゃさんから、おまえはまだ、はしったらダメっていわれてるから」
「あ…」
 言われて、精市は相手の身体が虚弱であることを思い出した。
 そうだ、何を言っているんだ、僕は…最初に会った時もこの子はあんなに苦しんでいたじゃないか…激しい運動も出来ないんだと聞いていたのに…
「…ごめんね、さっちゃん」
「ううん、いいのー。セイちゃんがたのしいなら、さくのもうれしいよー」
「……」
 桜乃の幼いながらも精一杯の心遣いに、却って心苦しくなってしまった精市は、一生懸命に考えに考えて…彼女に一つの約束をした。
「さっちゃん…じゃあ、僕がさっちゃんの代わりになるよ」
「え?」
「さっちゃんが走れない分、僕が走る…さっちゃんがテニス出来ない分、僕がテニスをやって…絶対に負けないから!!」
「!…セイちゃん…」
「僕がテニスで勝ったら…それはさっちゃんも勝ったってことだよ」
「……うん! さくの、セイちゃんのおうえんする! がんばれーって!」
 ようやくいつもの笑顔を浮かべてくれた相手に少年がほっと安堵していると、その少女はあ、と何かを思い出した様にぱふ、と手を口に当てた。
「あ、じゃあセイちゃんに、とっておきのおまじないしてあげる」
「おまじない?」
「そうなのー、テレビでね、ぜったいにうまくいくおまじないっていってたの!」
「へえ…どんなの?」
「うふふ」
 興味を示してくれた少年に、にこにこと笑った桜乃がとててっと近づき、ぺたーっと相手に縋りつく。
「…っ」
 時々桜乃がしてくれる友愛の行動。
 相手はそれ程に意識してやっている訳ではないのだろうが、精市はされる度に微妙な動悸を感じていた。
 多分、もう少し大きくなったらこういう行為の意味を知って、そうおいそれとはやらなくなっていくのだろうけど…
 安心するような…ちょっと勿体無いと思ってしまうような…
 そんな微妙なことを考えていた少年だったが、今日はそれだけでは終わらなかった。
 ちゅっ
「!?」
 前触れも無く、桜乃の顔が自分のそれに寄せられ、柔らかな唇が、頬に触れる。
 それを感じた瞬間、少年は頭が真っ白になり…ぎょっとした顔で相手に振り返った。
「さ…さっちゃん!?」
「えへへ…おわりですー」
 向こうは、おまじないが終わったとばかりに相変わらず無邪気に笑っており、恥じらいなど微塵もない。
「…え…今のって…」
「これで、セイちゃんはぜったいにまけませんよー」
「……」
 一体…どういう番組だったんだろう…いや、それよりも…さっきのってやっぱり……キス…だよね?
「……あ、ありがと」
「どういたしまして、です」
 キスを受けた場所の頬をそっと手で触れ、何となく熱くなってきた顔を意識しながら、精市は言葉に詰まっていた。
 まぁ…ほっぺにならいいかな……いや、やっぱりよくない!
「あの、さ……さっちゃん」
「はい?」
「実はね、今のおまじない…つづきがあるんだけど、知ってる?」
「え!? つづき? あるの?」
「う、うん…ええとね…」
 びっくり!と瞳を見開いている少女に真正面から向き直り、少年はゆっくりと言葉を続けた。
「…それって、同じことを他の人にしたら、効果がなくなっちゃうんだよ」
「えええ!」
「その…だからね、さっちゃん…今の、もうだれにもしたらダメなんだ…いい? 僕だけにしないといけないんだよ」
 この嘘はいつかはばれるかもしれないけど…でも、今だけでも止めておかなければ。
 彼女がこういうことをするのは…僕だけでいいんだから。
「…僕とやくそくできる?」
「…う、うん! さくの、セイちゃんだけにする!」
 相手の言うことをあっさりと信じ、桜乃は素直に頷いた。
「ぜったいだよ?」
「うん!」
 そして二人は、誰にも内緒の約束を交わした。
 しかし彼らにとっての悲劇の時は、もうすぐ傍まで迫っていたのである…


「これはまた急なことですね…」
「ええ、夫の仕事の関係で…本当に短い間でしたがお世話になりました」
「引越しは明日とか…?」
「はい、もう大体荷造りも終わりまして、後は業者の方に…」
 或る日の夜、隣の一家がいつかの様に全員で桜乃の家を訪ねて来た時、桜乃は祖母から少し遅れて玄関の様子に気付くと、喜び勇んで少年の許へと走っていった。
「セイちゃん!」
「…さっちゃん」
 いつもなら相手も笑顔で自分を迎えてくれるのに、今日に限っては浮かない、沈んだ表情での対応に、流石の桜乃もおかしいと気がついた。
「セイちゃん、どうしたの?」
「…ごめんね、さっちゃん…もう、僕、いっしょに遊べなくなっちゃった」
「え…?」
 どういう意味なのかさっぱり分からない少女に、相手の母親が申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい、桜乃ちゃん…おばさん達ね、明日、遠くに引っ越すの。桜乃ちゃんには、精市といつも仲良く遊んでもらって、おばさんも嬉しかったわ。これからも元気でね」
「!……ひっこす?」
 セイちゃんがひっこす…とおくに…いっちゃう?
 もう、おままごとも、おしゃべりもできなくなっちゃうの?
 さくののこと…わすれてしまうの?
「……やだ!!」
 その事実を知らされた時点で、桜乃はすぐにそれを拒絶した。
 いつもの大人しい素直な言葉ではなく、我侭を押し通す様な大声を上げて泣き出した。
「やだ! やだぁ!! セイちゃん、いっちゃやだーっ!!」
「さっちゃん…」
 縋りついて泣き声を上げる少女の必死さに、精市もとても困った表情を浮かべて、唯相手を抱き締めるしか出来ない。
 親に庇護を受けているたかが小学生には、抗うなど出来る訳がなかった。
「いっしょにいるもん! セイちゃんとずっといっしょにいるんだもん! どこにもいかないでー!」
「桜乃! 我侭を言うんじゃないよ、仕方がないことなんだから」
「だって、だって!」
 祖母に叱られても、桜乃は声を止めようとはしない。
「まだできないもん! さくの、まだクッキーたべてもらってない! セイちゃんにしかあげたくない!! やだ、やだぁ…っ!」
 激しい動揺と興奮は、すぐに虚弱な娘の身体に負担となって襲い掛かる。
「セイ…ちゃん…っ」
「桜乃っ!?」
「さっちゃん!?」
 軽い呼吸困難に陥り、くず折れそうになりながらも自分の服の袖を離そうとしない少女に、慌てて精市は声を掛けた。
「もう泣かないで……さっちゃん、これ、あげるから」
「…?」
 そう言って相手がポケットから取り出したのは、一つの小さなヘアピンだった。
 末端に、可愛らしい花がアクセントに付けられている。
 少年は、それをそっと桜乃の前髪に差して、ゆっくりと頷いた。
「…いい? さっちゃん。僕は遠くに行くけど、絶対にまた君を見つけてみせるから…目印に、それをつけててね?」
「…セイちゃん」
「クッキーは、その時の楽しみにとっておくから…僕のこと、忘れないでね、僕とのおまじないの約束…忘れないでね」
 受け入れるしかないことは、幼い心も分かっている。
 それでも尚止まらない悲しさと寂しさにぼろぼろと涙を零している少女に、少年は、繰り返してゆっくりと言った。
「…僕は、絶対に、君を見つけてみせるから」



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