ピピピピピピピ……
「う…ん…」
 目覚まし時計のアラーム音が響く中、桜乃はベッドの中から手を伸ばし、枕元に置いていたそれのスイッチをぱちんと止めた。
 そして、ゆっくりと起き上がり、瞳を開いて朝の日差しを感じながらため息をついた。
 また…あの日の夢だ…
(…最近、よく見るなぁ…でも、殆ど忘れちゃってるんだけど……)
 夢の中では彼の名前もしっかりと思い出せるんだけど…起きたらもうそれも霞がかかっているみたいに曖昧で…『セイちゃん』としか思い出せない。
 とても優しい、とても良い思い出だったのに…
(どうしてかな…こんなに頻繁にあの人の夢を見るなんて…やっぱり、テニスの影響かなぁ)
 祖母が顧問を務めている青学の男子テニス部は、現在夏の全国大会に向けて快進撃を続けており、いよいよその戦いも終盤戦を迎えている。
 最後の敵になるのは…立海大附属中学男子テニス部…
 実は、自分は彼らとも何度か顔を合わせており、面識がある。
 テニスの実力は本物で、その気迫は恐ろしさすら感じさせるが、実際に話してみると、全員、気さくで良い人達だった。
(そう言えば、セイちゃんもテニスしてたもんね…実際の強さは知らないままだったけど、強くなりたいって言ってたから…立海のイメージと被っちゃって、夢に出ちゃうのかも)
 思いながら、桜乃はパジャマから制服に着替え、おさげを手際よく編み込み…最後にヘアピンを前髪に差した。
 あの幼い日から、一度も忘れたことがない、花のヘアピンだ。
(…セイちゃん…まだ、私のこと、覚えてるかな)
 昔の、幼い時の気紛れの様な約束だ。
 例え破られていたとしても会える確証も無い口約束、それも致し方ない。
 それでも、自分は今も尚、彼の言葉を信じてこれを付けている…
 今時、化石並みの貞操観念だということも分かってはいるけど、それでもこれを外すことはどうしても出来なかった。
 そして自分は…あのおまじないの約束も、ちゃんと守っている。
(…このままだと、私、一生恋人なんか出来ないかも)
 いつかは吹っ切らないといけないのだろうけど…今はもう少しだけ…
 桜乃は、鏡の自分に言い聞かせるように心で呟き…部屋を出て行った…


「…あれ?」
 その日の放課後、桜乃が校門に向かって歩いていると、青学の制服とは明らかに異なるそれを纏った若者が立っていた。
 校門の柱の脇に佇み、誰かを待っているのか、その場から動こうとしない。
(…立海の制服)
 間違いない…あの服のデザイン、色合い…立海の中学生だわ。
「…え?」
 更に近づいていくと、桜乃は、相手が自分も知る人物だということに気付いた。
(…え…幸村、さん?)
 立海男子テニス部、部長…幸村精市…
 ごく最近まで入院していたという彼は、見知っているとは言え、自分も殆ど言葉を交わした事はない。
 神の子とすら呼ばれている程に有名な人が、どうして違う学校に…?
(あ…もしかして、部活の事でおばあちゃんに用事があるのかなぁ)
 それぐらいしか思いつかないな…やっぱりそうかな…なら、私も案内ぐらいは出来るかも。
「…あ」
 近づいてきた桜乃に向こうも気付いたらしく、明らかな意志をもってこちらへ身体を向ける。
 そして桜乃がある程度まで近づいたところで、彼もまた数歩彼女に歩み寄り、視線を合わせて微笑んでくれた。
 テニス部部長である彼は、その強さもさることながら優しい性格と端正な容姿で立海ではダントツのモテ男らしい…まぁ一目見たら頷ける話である。
 それを証明するように、傍を通り過ぎる青学の女生徒達は例外なく彼を振り返り、見蕩れた様子で名残惜しそうに去っていく。
(うわぁ〜〜、やっぱり凄くモテるんだなぁ…幸村さん)
 しかも、女性の視線にまるで気付いていないらしいところが彼らしいと言うか何と言うか…
「こ、こんにちは、幸村さん」
「やぁ、こんにちは、竜崎さん」
 挨拶に答えた幸村は、最初からそれが目的だったように桜乃と対峙し…それからは彼女しか見なかった。
「あのう、青学に御用ですか? おばあちゃんなら、今職員室に…」
 桜乃の案内に、若者はふるっと首を横に振りながらそれを辞退する。
「ああ、いや…今日は違うんだ」
「? テニスのお話じゃないんですか?」
「うん……ねぇ竜崎さん、今少し時間ある?」
「え?…ええ」
 いきなりの相手の誘いに戸惑いながらも、桜乃は正直に答えた。
 今日は部活もないし、そのまま家に戻る予定だったのだ。
 その答えを聞いた幸村は、安心した様に微笑んで頷くと、桜乃に切り出した。
「ちょっと付き合ってくれる…? 話したいことがあるんだ」
「?…ええ、分かりました」
 何だろう…私、何かしたかしら…?
 自分は覚えは全くないんだけど、どうやら私、かなりボケてるらしいから、もし叱られるような事をしていたら、素直に謝ろう…
 既に話を聞く前から謝るつもり満々の少女は、相手に連れられて校門を出ると、とことこと一緒に歩いていった。
 制服が違う彼らが並んで歩く様は、同級生同士ではなく、さながら恋人同士の様だ。
 暫く二人は何気ない世間話に花を咲かせていたのだが、その中からもどうにも今回の目的と言うものが読めなくて、遂に桜乃が切り出した。
「あの…幸村さん? 何のお話なんでしょう?」
「うん、ちょっとね…ああ、あそこがいいな。二人だけで話したいんだ」
 そう言って彼が桜乃を招いたのは、こじんまりとした小さな公園だった。
 そこに植えられていた常緑樹の傍に来たところで、幸村は再び桜乃の方へと振り返り、彼女を上から見下ろした。
「…あの?」
「…こういう時はどう言えばいいのか、よく分からないんだけど…竜崎さん、俺と付き合う気、ない?」
「え…!?」
「ええと、つまり…俺の恋人にならないかって、こと」
 幸村の突然の告白に、桜乃の意識が一瞬何処かに行ってしまい、戻ってくるのに数秒間を要した。
「…あ、あの…」
 意識は戻ってきたが、言葉は詰まりまくって何を言っていいのか分からなくなる。
 嘘…こんな凄い人が、私なんかにそんな事を言うなんて…
 桜乃の意識が一気に熱を抱き、彼女の心が舞い上がってしまった。
 私が…この人の恋人に…?
「あの……」
 瞬間
 少女の脳裏に、かつての幼い日々が映写機で映されるように流れだした。
 セイちゃんとの、セピア色の記憶が…
 昔の記憶…下らない感傷だと笑われるかもしれない記憶…それでも、自分にとって忘れ得ない思い出…
「…私…」
 幸村を見上げていた桜乃の視界に、彼の他にもう一つの光景が映り出す。
 あの日、少年が微笑みながら差し出してくれたヘアピン…
 彼が約束してくれた言葉…二人の約束…
 例え忘れたくても、その名残が、今も自分の髪を止めてくれている…
「……」
 自分の背後にあの日の自分が佇み、こちらを見上げているような錯覚が襲った。
 まだ、果たしてないよ…あの日の約束…
 あなたは…それを破るの…?
 その心の言葉に、桜乃は踏み出しそうになってしまった足を留め…苦笑いを浮かべた。
 ああ…ダメだね…あの思い出から、私はやっぱり目を背けることは出来ないみたい…
 ちょっと…ううん、凄く惜しいけど…こんな気持ちのままでお付き合いするなんて、幸村さんにもきっと失礼になってしまうから…
「……ごめんなさい」
 そんな一言が、するりと滑り出していた。
「…え?」
「…幸村さんの気持ちは、凄く嬉しいんですけど…私、お付き合いは出来ません」
 正直迷ったものの、桜乃ははっきりと相手の要求を断った。
「……そう」
 断られはしたが、それ程にショックを受けた様子もない若者は、それが本意なのか建前なのかは分からなかった。
 ただ、それだけでは話を終わらせるつもりはないらしく、彼は続けて桜乃に尋ねる。
「…理由を聞いてもいいかい?」
「え…?」
「振られた方としては理由を聞きたいところだな…他に、好きな人がいるのかい?」
 詰問ではなく、あくまでも優しい問いかけをしてくれた幸村に、桜乃は寧ろ申し訳さなを覚えながら言葉を捜す。
「…そう、ですね…いると言えばそうなんですけど…私もまだ探しているというか、会う約束を果たしていないんです」
「…約束」
 相手の復唱に、こくんと頷く。
「…よ、幼稚園の時の思い出です、相手の人が『いつか自分を見つけてみせるから』って…バカみたいでしょ? 本名も思い出せないのに、そんな昔の約束、向こうが覚えていてくれるかも分からないのに……でも、あの人は、私にはずっと優しかった、約束は絶対に守ってくれた…だから、私があの人との約束を破るわけにはいかないんです…」
「……」
「こ、こんな事で幸村さんの気持ちを断ってしまうって、凄く失礼なことだとは分かっています、けど…ごめんなさい…私…」
 何だ…結局謝ってる、私…でも、やっぱり怒るよね…こんな言い訳めいたこと言っても、信じてもらえるわけない…
(嫌われてしまったなぁ…きっと)
 断ってしまった後で、心の力が抜けてしまった様に肩を落とし顔を俯けていた桜乃は、振り切るように頭を下げた。
「すみません…本当に…」
「……そう」
 幸村のつれない返事が聞こえ、これでこの話は全て終わったのだと思った。
 相手が、こちらをきつく抱き締めてくるまでは。
「…えっ…?」
 何で…私、幸村さんの胸に抱かれてるの…
 今度は何…?と思いつつ、桜乃は咄嗟のことで慌てて身体を捩った。
「ゆ、幸村さん!? なに…っ」
「それなら尚更、俺は君を手放す訳にはいかない…ねぇ、そうだろう?」
 そうして、幸村は相手の耳元に唇を寄せ…優しく囁いた。
「『さっちゃん』…」
「!!」
 びたっと桜乃の身体が硬直したのを確かめて、幸村がゆっくりと上体を離しながら相手を見下ろす。
 その瞳は、振られたばかりの若者とは思えない程に喜びに満ちていた。
「…約束したよね? 俺は絶対に君を見つけてみせるって」
「…っ!」
「ほら…見つけたよ、ちゃんと」
 言いながら、そっと花のヘアピンに触れてくる若者は、その指先を相手の柔らかな頬に滑らせながら苦笑する。
「分からなかった? でも仕方ないかな、俺も結構大きくなったし、髪型も変わっていたからね…君に贈ったヘアピンみたいな目印もなかったし…ふふ」
 まさか…そんな……
 まだ夢の中にあるような、そんな感じを覚えながらも、桜乃はもう相手の腕の中から逃れようとはしなかった。
 ただ、真っ直ぐに相手を見つめていた…
「…セイ…ちゃん…なの?」
「……会いたかったよ、さっちゃん」
 過去の二人しか知りえない事実を明かした若者は、ようやく再会出来た小さな友人を再び抱き締める。
「俺との約束…守ってくれてたんだね」
「…セイ…ちゃっ…!!」
 感動は言葉にもならず、桜乃は溢れる涙を抑えられず、相手に縋って泣き出してしまった。
 会えた!
 過去の…薄れてしまった過去の約束は、忘れられることもなかった…
 セイちゃんは、やっぱり、約束を守ってくれてた…!!
「う、う…っ、セイちゃん、セイちゃん!…」
「ああ…泣き虫なのは相変わらずなんだ…だからずっと心配していたよ、寂しさのあまりに、君が俺じゃない誰かに縋るんじゃないかって……杞憂だったみたいだけどね」
「そんな、こと…っ」
 しません!という言葉までは続けられなかったが、相手は分かっているよ、と頷き、ふわりとその涙に濡れた頬に手を触れさせる。
「だって、君のおまじないのお陰で俺は強くなれたんだから…覚えているだろう? 君があの約束を守らずに誰かにアレをしていたら…こんなに強くはなれなかったかもね」
「っ!」
 おまじない、という言葉の『意味』を察した桜乃は、幼い時の自分の大胆さに今更ながらに恥ずかしくなり、真っ赤になった。
 それを何処か楽しそうに眺めながら、幸村が首を傾げる。
「ねぇ、俺ってやっぱり、君に振られたことになるのかな…? だとしても、凄く嬉しいんだけど」
「!…」
 相手の言葉に、きょろっと大きな瞳を更に大きくした少女は、それからうーっと拗ねた様に彼を見上げてみせた。
「セイちゃん、意地悪になっちゃった…?」
 昔は凄く優しかったのに…と拗ねる桜乃に、思わず幸村は声を上げて笑ってしまった。
「そうかな? でも、そうかもね…君と離れ離れになってから、俺も凄く悲しい思いをしたから、ひねくれてるかもしれないね…」
「え…」
「なら、君が治してよ…」
 ぐっと抱き締める腕に力が篭る。
「今まで寂しい思いをしたんだから、これからずっと俺の傍にいて、俺の事を慰めてよ…君が寂しかった分は、俺が責任持つから」
「せ…いちゃん…」
「もう一度聞くよ? 俺の恋人になってくれる? さっちゃん…桜乃」
 名前を呼び、改めて願う若者に、桜乃は今度は拒まなかった。
 拒めるはずがない、過去から想っていた人なのだから…彼との約束を果たす為に、自分はずっと…思い出だけを抱き締めてきたのだ。
「…はい…セイちゃ…精市、さん」
 でもやっと…思い出は再び現実に変わる。
 桜乃はほう…と心の何処かで安堵を感じながら、嬉しそうに相手の心を受け止めた。
「うん、有難う…ねぇ桜乃。俺もね、実は知っているんだ…よく効くおまじない」
「え…?」
「今度は、俺が君にかけるよ…君が、二度と俺から離れないように…もう、二度と、ね…」
「あ…」
 あの日の君のおまじないは優しく頬に…
 今日の俺のおまじないは激しく唇に…
「ん…っ」
「…凄く楽しみだよ…君が俺だけに作ってくれるクッキーもね」
 一度離れて味わった悲しさはもう要らない…それが、焦がれる程に好きな君なら尚のこと…
 唇を奪いながら、幸村はそれを示すように、相手の指に己のそれを絡め、きつく握り締めていた……






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