湯煙旅情でハプニング(後編)
そしてあの問題の若者が動くまで、青学・立海の面々は、温泉を楽しむ姿を装っていた。
最早、気分は獲物を追い詰めた野獣……
後は相手が自分の運命も知らないままに動き出すのを待つばかり…と思っていたところで、早々に相手が動き出した。
あの時、ジャッカルや丸井に邪魔された事が水を差したのかは不明だが、意外に早い展開に、若者達はいよいよ作戦を開始。
『行け、赤也』
『らじゃ』
『頼んだぞ、越前』
『うぃーッス』
真田と手塚の促しを受けて、切原と越前が同時に動く。
最初に仕掛けたのは越前だった。
「あっ!! すみませんっ!!」
すみませんと言いながら、明らかな意志をもって少年は犯人にタックルをかまし、そのバランスを大きく崩した。
「うおわっ!!」
驚きながらも何とか体勢を立て直そうとしている相手に、更に第二陣の切原が追撃。
「おーっと、足が滑ってっ!!」
何とか踏ん張って重心がかけられていた男の足元に、切原が流れるような動きで回し蹴りをかましてすぱーんっと軽快な音を立てる。
いつもは反目し合っているライバル同士だが、目的が一致した時の息はぴったりだ。
そのまま男が倒れた拍子に、握られていたバッグが彼の手から離れ、ざーっと濡れた床を滑っていったところで、他の男達が一斉に動いた。
「確保だ!!」
「よぉーっしっ!!」
「この破廉恥野郎が〜〜!!」
大石の号令で、桃城と海堂が相手に飛び掛って、床に倒れたままの男の腕と足を押さえつける。
「な、何だお前らっ! 俺はただの客だぞ!?」
騒ぎ出す男と、それを取り囲んでいる学生達のいきなりの騒動に、他の温泉客達もざわざわとざわめき出した。
『何だ?』
『何か、破廉恥とか何とか…』
そんなざわめきの中で幸村がゆっくりと洗面器を抱えて男に近づき、上から見下ろしにこりと笑う。
「ふぅん…ただの客ね…」
そんな台詞が終わらない内に、向こうから柳の報告が聞こえた。
「確認したぞ、精市!……クロだ」
どうやら、向こうではバッグを回収し、ビデオカメラの回収と中身の確認をしたらしい。
全てがばれた、と知った男が真っ青になっていくその視界の向こうで、美麗な若者は更に笑みを深めながら、持っていた洗面器を掲げていた。
「そんなに温泉が好きなら、たっぷり味わうといいよ…源泉でね」
その頃、女湯では…
「はふ〜〜〜〜、生き返る〜〜」
「何だい、アタシより年寄りみたいな事言って」
「だって気持ちいーんだもーん…あ〜極楽〜〜」
岩風呂の縁に腕を乗せ、更にその上に顎を乗せる形で、桜乃は祖母と一緒に温泉を思うままに楽しんでいた。
ほこほことあったまっていく身体を感じながら、桜乃は上機嫌で祖母に声を掛ける。
「あ、お祖母ちゃん、お背中流してあげる」
「おやそうかい、じゃあお願いしようかね」
「えへへ」
自宅の風呂では出来ないお祖母ちゃん孝行をしようと、桜乃が張り切ってスミレに声を掛け、相手も嬉しそうにそれを受けた時……
『ぎゃあああああああああああっ!!!!』
突然、けたたましい悲鳴が男湯の方から壁を越えて聞こえてきた。
「きゃっ!!」
「ん?」
桜乃やスミレ以外の女性客達も一様に驚き、何事かと壁の方へと視線を向けたが、それ以降はしーんと不気味な程に静まり返る。
『な、何だったのかしら…』
『凄い声じゃなかった?』
『獣を絞め殺すような……』
他の客が周囲でざわざわと騒いでいる中で、桜乃とスミレは何か思うところがあったのか、無言で互いの目を見た。
多分、考えている事は同じだ。
「お…お祖母ちゃん……やっぱり今のって」
「あの馬鹿ども、今度は何をやってんだい」
手塚と幸村がついていながら…と付け加えたスミレだったが、今の騒ぎが二人も便乗して起こされている事は当然知らない。
それからは特に大きな悲鳴は聞こえてこなかったが、二人が彼らのお陰で無事に入浴時間を過ごして脱衣所の外に出た時、警察騒ぎになっている事に先ずびっくり。
加えて、事件の中で両校の生徒達が活躍していたと知り、二度びっくり。
更に、確保の経過中の『トラブル』により、犯人の男が多少の痛い目に遭って病院に送られたと聞かされて三度びっくりしたのであった。
「驚きました〜、でも皆さんには大感謝です!」
「いやいやいや」
「もっと褒めたまい」
騒動が一段落して、警察から全員に対し謝辞が述べられ、落ち着いたところで、桜乃はロビーで若者達に心からの感嘆と感謝の言葉を贈っていた。
下手をしたら、自分の恥ずかしい姿が全国の何処か知らない場所で切り売りされていたのかもしれないと思うと、それだけで悪寒が走る。
阻止してくれた彼らにはどれだけ感謝をしても足りない程だ。
桜乃の言葉を受けて、菊丸や丸井達ははっはっは、と浴衣姿で胸を張って笑っていた。
勿論、桜乃も今はお風呂上りの浴衣姿。
うっすらと上気した頬と、首許に細く流れる乱れ髪、白く艶かしいうなじ、正に男の夢をこれでもかと集めた浴衣無敵スタイル。
(か〜わいい〜〜〜…)
目の保養〜とばかりに全員が彼女のレア仕様に注目していると、そこに幸村が通り掛かり、すぐに少女の傍へと寄っていく。
「やぁ、竜崎さん」
「あ、幸村さん」
互いに簡単な挨拶を済ませて、二人は改めて向き直った。
「有難うございました。幸村さんが盗撮魔を懲らしめて下さったって聞きました」
「ううん、別に大した事はしてないよ、画像が何処かに流れるのは阻止出来たし、軽くお仕置きをしただけさ」
(軽く源泉かけただけさ…)
「そうですか…犯人さんのした事は悪い事ですけど、反省して下さったらもう…」
「大丈夫、二度としないようにしっかり注意しておいたから」
(二度と出来ないようにずっと耳元でちくちくちくちく呪いの言葉を…)
周囲で語られる心の声が聞こえる訳もなく、桜乃は幸村と朗らかに話し続ける。
「でも、ゆっくりする筈だった温泉でもそんな大騒ぎになるだなんて…お身体、休めましたか?」
「うーん、まぁ、元々肩が凝ってたからすぐには治らないよね。また夕食後でものんびり浸かりに行こうと思っているよ」
困った様に笑いながら、幸村がとんとんっと自分の左肩を右の拳で叩く姿を見て、桜乃が不意にぱぁっと目を輝かせた。
「肩、揉みましょうか!?」
「え?」
「私、ウチでもよくお祖母ちゃんにやってますから、結構上手いんですよ? お夕食までまだ少し時間あるみたいですから、お礼に!」
「え…」
少女の申し出に、一応一度は『申し訳ないから』と断ろうとした幸村だったが、非常に魅惑的な誘いに唇がその動きを拒否する。
そして代わりに…
「…その…いいの?」
と、遠慮がちに確認の台詞が紡がれていた。
「勿論です!」
任せて下さいと微笑んでくれる桜乃に、幸村はその申し出を受けることにした。
「じゃあお願いしようかな」
「はぁい」
そして、幸村は桜乃に促されるままにロビーの椅子に座り、そのまま彼女のマッサージを受け始めた。
(う…っ、これは…っ)
受けて程なく、幸村の胸中で彼の呻きが洩れたが、それは苦痛や不具合によるものではなかった。
(この細い指による的確なツボ押し…弱くも強すぎることもない適度な力…! これ、クセになりそうだ…)
「どうですか〜? お客さん?」
「ん…最高…」
くすくすと笑いながらおどけて尋ねる桜乃に、魂を抜かれてうっとりとした様子で幸村が答える。
下手なマッサージ店に行っても人が合わなければツボにも入らないままお金だけが取られる最悪なケースもあるが、これだけ気持ちよくコリを解してくれるなら、お金を払っても構わない。
いや、お金なら払うから、これからも是非!と頼みたい程だ。
「やっぱり男の人って凄い筋肉ですね…お祖母ちゃんのをやっているのとは全然違います」
「結構力が要るだろう? 無理せず疲れたら言ってよ」
「いいえ、大丈夫ですよ」
そう言いながらぐいぐいと桜乃はそれからも力と真心を込めながら、ひたすらにマッサージを続けていたのだが、そこに祖母であるスミレがやってきた。
「幸村、ちょっといいかい?」
「はい?」
「おや、お楽しみの処だったかい。すまないねぇ、ちょっとこっちに来てくれるかい、手塚と一緒にさっき話していた計画について…」
「ああ、分かりました」
心地良いマッサージは惜しかったが、呼ばれた以上は行かなければ。
「有難う、凄く楽になったよ。またいつかやってほしいな」
「うふふ、いつでもいいですよ」
幸村は丁寧に桜乃に礼を述べながら立ち上がり、そのままスミレを追いかける形でその場を離れていった。
「……」
それを見守っていた桜乃だったのだが…
じ〜〜〜〜〜〜〜〜っ………
(…あ、ロックオンされてる)
周囲から届けられる視線の数々…勿論、青学と立海の面々からであることは言うまでもない。
幸村の肩を揉んでいる時から、視線そのものは感じていたし、その言わんとするところも十分に予想出来る。
まぁ、幸村さんだけじゃなくて、皆さんが協力して下さったからこその捕物だったのだし…ここは公平にご恩返しといきましょうか。
「…ええと、丸井さん。マッサージどうですか?」
「マジ!? いいの!?」
取り敢えず、一番近くで一番熱心な視線を送ってきていた若者に声を掛けると、思っていた通り飛び付いて来た。
「わーい! シクヨロ〜、もー凝っちゃっててさ〜」
「はいはい」
桜乃が水を向けた事を切っ掛けに、他の男達も次々と周囲に集まってくる。
「おお〜〜!! めっちゃくちゃきもちい〜〜、幸村が夢中になるわけだよい」
「次は俺も頼むかのう…」
「いいですよー、順番にですね」
そして大座敷に夕食の準備が出来るまで、桜乃は結局延々と鍛えられた若者達の筋肉を解し続けたのであった。
桜乃の心の篭ったマッサージを受けて、全員がすっきりとした表情で夕食を楽しんでいる時に、思わぬ弊害が現れていた。
「…あれ、どうしたの竜崎さん。食欲ない?」
「あ、ええと…ち、ちょっと熱くて…」
列の一番端に座っていた桜乃の隣には、ちゃっかりと幸村が席を取っていた。
青学と立海はそれぞれの列に分かれて、互いに向かい合う形で並べられた食事の前に座り、わいわいと話したり騒いだりしながら夕食時間を過ごしていたのだが、ただ一人桜乃だけは先程から食事に手をつけようとしていない。
隣にいる懸想の相手の異常に気付かない幸村ではなく、彼はすぐに桜乃の事を気遣ったが、当初彼女はそう答えていた。
食事の内容はご飯と吸い物の他にも各種の海の幸、山の幸をふんだんに使った郷土料理。
メインには鍋も準備されていて、それがぐつぐつと食欲をそそる音をたてている。
「?」
鍋だけなら確かに『猫舌なのかな』と思いもするが、どうにも腑に落ちない。
鍋以外にもお刺身とか色々と熱くない料理も揃っているのに、桜乃はそれらのどれにも手をつけていないのだ。
「……竜崎さん?」
本気で相手が心配していると察し、桜乃はそれ以上誤魔化す事は無理だと思ったのか、恥ずかしそうに俯きながら白状した。
「じ、実は〜、マッサージのやり過ぎで……手が強張って箸が持てないんです」
「まさか、あれから今までずっとマッサージしてたの!?」
「あうう…」
驚く相手に、桜乃はこっくりと頷いた。
「そんなに手が辛かったなら、何でその時に言わなかったのさ!?」
「だってだって皆さんが嬉しそうにして下さってたからつい〜〜…」
自分の奉仕で相手が喜んでくれたことが、とても嬉しかったのだろう。
少女は善行をしていたのだから幸村もそれ以上は何も言えなかったが、食事を摂れないというのはゆゆしき事態だ。
「全く、無茶をするんだから…仕方ないな、はい」
「ふえ?」
幸村が自分の箸を置くと、今度は桜乃の使われてない箸を持ち、彼女の食事の内の小鉢に入っていた料理を取って少女の口元へと運ぶ。
「箸が持てないなら、俺が食べさせてあげるから。ほら、口開けて」
「えっ!? えっ!? で、で、でもっ…!!」
勿論、桜乃が恥ずかしがらない筈もないのだが、幸村もこういう千載一遇のチャンスを逃す筈もない。
「てっ…手が元に戻ったら食べられますからっ…」
「その前に食事そのものが冷えちゃうし、下手したら下げられちゃうよ。折角の料理なんだから美味しい内に食べないと。ほら、いいから口を開けて」
「う…」
尤もな相手の言葉に反論も出来ず、相手の好意に押される形で、仕方なく桜乃はおずおずと口を開いた。
「じゃ、じゃあ……あーん」
「はい、どうぞ」
はくん…と食べさせてもらった食事をあむあむと咀嚼した桜乃は、やはり空腹だったのか、一転、嬉しそうな笑顔に。
「ん…わぁ、美味しいです!」
「……」
間近で笑顔を見せられた幸村は見た目冷静さを保ちつつも、心の中では激しい萌えの嵐が通過…と言うか停滞中。
「そう、良かった…じゃあ、次は?」
「えーとえーと…お刺身食べたいですっ!」
「うん、いいよ」
「あ、ワサビはパスで」
それからも、幸村は甲斐甲斐しく桜乃に食事を食べさせてやり、桜乃も羞恥より空腹が勝ったのか、徐々に慣れてくるに従い、無自覚のおねだりモードに移行。
殆ど、恋人どころか新婚さんのノリである。
「えーと…健全な青少年の行動として、アレは如何なものかと」
「じゃあ止めるか? お前が」
最早そちらの方を見るまいとそっぽを向いていたジャッカルが丸井に一言言ったが、向こうは即座に否定。
「やだ、俺まだ死にたくねぇもん」
「まぁ冗談抜きで今の竜崎に手と口出せば、リアルで湯煙温泉殺人紀行が経験出来るじゃろうな…勿論、被害者Aの立場で」
「火サスですね」
「笑えないッス、先輩方」
詐欺師と紳士のやり取りに、切原は本気で青い顔をしながら突っ込んでいる。
その向こうでは、どうしたものかと柳が渋い顔をしていた。
「…弦一郎?」
「俺には何も見えんし聞こえんぞ」
真田はどうやら知らぬ存ぜぬを通しきるつもりらしい…まぁ元々ああいう状況を見慣れていない純情男であれば無理もない話だ。
一方、二人に毒気を抜かれていたのは立海ばかりではなく…
「婚前旅行を見ている気分だねぇ」
「………」
石化してしまっている越前の隣で、不二は悠々と余裕の表情で彼らを評し、大石は一方の祖母でもあるスミレに進言していた。
「…いいんですか?」
「別にいいんじゃないかね、飲酒喫煙している訳じゃなし、ただ食事を与えているだけで注意も何もないだろう」
「いや、確かにそうなんですけど…」
しかし、何となく引っ掛かる…と思う大石の隣では、何事も問題ない様に、黙々と手塚が食事を食べている。
ここまで色恋の気配に疎いというのは天晴れだ。
結局、桜乃はそれから周囲の若者の注目を浴びつつ、ずっと幸村の餌付けを受け続けていた。
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