そして美味しい夕食の一時も終わり、メンバー達が気を取り直していよいよ夜のメインイベント、枕投げ大会を始めようとしていた頃、夕食時の注目人物の一人である幸村はその喧騒から外れて再び露天風呂へと向かっていた。
 夕方に一度入りはしたものの、結局あの時は盗撮魔を捕まえることばかりに注意が向いて、温泉の雰囲気を楽しむことも出来なかったので、今回はリベンジ。
(まぁ、俺がいなくても、向こうは勝手に盛り上がってくれるだろうけど…)
 今の時間帯は、そんなに混んでもいない様子だ。
 今度こそゆっくり出来るかと思いつつ、彼は再び見覚えのある景色を眺めながら、ゆったりと白いお湯が張られた岩風呂に身を沈めた。
「…ふぅ」
 周囲は子供を連れたお父さんや、仲間内で来たらしい別の学生の姿も見られる。
 皆、解放感を楽しんでいるのだろうが、静かに湯を楽しみたい幸村にとっては、そこは少々煩い場所だった。
(…そう言えば、あの時は結局向こうまでは行けなかったな)
 彼が見ているのは岩風呂の向こう…湯気と、無造作に設置された岩の向こうに隠れている場所だ。
 なかなか広い温泉の様で、目視だけではその全容は分からない。
(…奥に行ったら、少しは静かになるかな…行ってみるか)
 ゆるゆるとゆっくりと若者は移動していき、湯気の向こうに隠れた空間へと向かう。
 外はもうすっかり夜だが、月の光が程よく辺りを照らし、都会では見られない満天の星と相まって非常に幻想的だ。
 辺りの草木のざわめきも、非常に風情がある。
(後で弦一郎と蓮二も来るって言ってたし…あの二人もこういう雰囲気は好きだろうな)
 視界を邪魔していた大きな岩の裏側に回ったところで、幸村は具合のいい場所に背中をぴたりと付けて、再びそこに落ち着こうと腰を下ろして座った…ところで、
 とん…
「ん?」
 左の肘が何か…いや、誰かの腕に当たってしまった。
 しまった、先客がいたのか、無言だったしこの湯気で分からなかった。
 幾ら男性同士でも、今はお互いに裸だし、あまり注目するのも悪いかと、幸村は謝罪はしても視線はそちらには向けなかった。
「すみません」
「あ、いいえ、こちらこそごめんなさい」
 向こうからも、遠慮がちな謝罪が返って来た………女性の声で。
(良かった、気分を害してはいないみたいだ。随分と大人しそうな女の子みたいだけど…)
 ぼーっと湯に浸かったままで幸村がそう考え…思考が凍った。
 ちょっと待て…女だって?
 だって、ここは間違いなく男湯の方で…!
「え…っ」
 決して覗こうと思った訳ではないが、人間、意外な経験をしたら自然とそちらへと目を向けてしまう習性がある。
 幸村は単にその習性に従ってしまっただけだったが、結果、信じられない現実を目の当たりにしてしまった。
「り…竜崎さんっ!?」
「きゃああああっ!! 幸村さんっ!?」
 向こうもほぼ同時に違和感には気付いていたらしく、二人はほぼ同時に互いへ顔を向け、そして同時に吃驚していた。
 無論、二人とも今は全裸…だったが、硫黄泉の乳白色の湯が幸いして、浸かっていた肩より下の姿は双方とも見られずに済んだ。
 しかしそれでも桜乃の羞恥と驚愕は計り知れず、彼女は今の自分の状態を把握しないまま、思わず立ち上がりかける。
「だめっ!! そのままっ!!」
「っ!?」
 相手の動揺は尤もだったが、そのまま立ってしまったら今度こそ彼女はあられもない姿を自分に晒してしまう!!
 幸村は必死に手を伸ばして、そのまま彼女をざぷんと再び肩までお湯の中に浸からせた。
「落ち着いて! お湯の中にいたら大丈夫!…その…見えない、から…」
「あ……」
 言われてみて初めて、桜乃は自分が却って恥ずかしい事をしようとしていたのだと気付いた。
 もし、彼に止められずに立っていたら今頃は……
「〜〜〜〜〜!!」
 すぐにでものぼせそうな程に赤くなった少女は、顔の下半分までお湯に浸かり、ぶくぶくと泡を出す。
 幸村もまだ完全に落ち着いた訳ではなかったが、相手を目の前にしている以上、うろたえる姿を晒す訳にもいかない。
「分かってくれたらいいよ…おかしいな、俺、確かに男湯の方に入った筈なんだけど…」
「わ、私も女湯の方に…ちょっと奥に来たつもりだったんですけど…」
 二人がそれぞれの状況について語り合い…ある一つの考えが浮かんだ。
 もしかして…ここ、奥の方は混浴状態なのか!?
「ご、ごめん! そんなつもりは全くなかったのに…」
「いえ! そんな…私こそ…」
「……」
「……」
 語る言葉もなくなって、暫く二人は沈黙の中にいた。
 こんな状態だからなのか、それとももう、今の事があってのぼせつつあるのか、思考が上手くまとまらない。
(…どうしたんだろう、俺は)
 普通なら…こんな時は、すぐにその場を離れないといけないのに…
 そして桜乃もまた、同じ様な事を考えていた。
(お、女の子が男の人と一緒にお風呂に入っているなんて…すぐに行かないと…なのに)
 心で思っている事とは裏腹に、二人はその場から動けない。
 もし動いたら…・瞬間、この世界そのものが崩壊してしまいそうな錯覚が二人を捕らえていた。

(離れたく、ない……)

 ここから上がったら、またすぐ外でも会えるのに…何故かこの時、この一瞬にこだわりたいと思っている。
(……ああ、そうか)
 ちらっと桜乃を見た幸村が、その理由に思い至る。
 今の彼女の姿が、あまりにも綺麗だから…見失いたくないんだ…
 艶々とした濡れた黒髪を上げ、その白く細いうなじから走る滑らかな身体を湯に浸けている姿。
 濡れた肌に光る水滴一粒にすら、理性を砕いてしまいそうな色気を感じてしまう。
 もし触れてしまえば、どうなるだろう?
 彼女は俺を軽蔑するだろうか?
 自分はその時…正気を保っていられるだろうか?
 それでも、例えそれがパンドラの箱を開けるような愚かな行為だとしても…
(…触れたい)
 そんな理性と野性の狭間に若者が苦しんでいる時、桜乃もまた身を湯の中に隠しながら、ちらっと幸村の姿を遠慮がちに見ては、すぐに視線を逸らす事を繰り返していた。
(幸村さん…あんなに細く見えるのに、凄く綺麗な筋肉…色も白くて…どうしよう、見るのを止められない)
 一生懸命、見てはいけないと視線を外すのに、また見たくなってそれが戻っていく。
 まるで魔法の様に…
 見ているだけでこんななのに、もし…もし彼に触れたら…
(なっ…何考えてるんだろう、私っ…!!)
 はっと自分の考えを思い返し、再び狼狽した桜乃が、湯の中で思わず身体を揺らしたその時、

『っ!!』

 幸村の左手に、桜乃の右手が触れた。
 見えない乳白色の世界の奥で、岩ではない柔らかな感触が、互いの指に触れ合った。
 しかし、世界は終わりもしなければ、若者が狂気に走ることもなかった。
 唯、互いの心臓が、より一層激しく脈打ち始め、何処か霞がかかっていた様な二人の思考が瞬時に明瞭となっただけだ。
「……」
「あっ…私…」
 冷静になった桜乃は、遂にその場を離れようと身体を動かした。
 どうしてだろう、信じられない…
 こんな場所に二人きりで…しかも、見えてはいなくても裸のままで男性とこんなに長く一緒にいたなんて…本当にどうかしているのかも…
 のぼせちゃったのかな…じゃあ早く上がって頭を冷やさないと…
「あの…もう上がりますね」
 離れようとする桜乃の姿を見送る幸村は…もう、見送るだけでは終われなかった。
「きゃ…!」
 不意に肩を掴まれ、小さな悲鳴を上げながら、桜乃は身体を反転させられると同時に額に柔らかなものの感触を覚えた。
 目の前にあるのは、華奢に見えた筈の若者の逞しい胸…
(え…)
 知らず、相手の胸に両手を付ける形で密着している自分の姿に気付いた時、桜乃は額の感触が何であるかを瞬時に知った。
「ゆ、きむらさん…?」
 尋ねる様に名を呼ぶ桜乃に、幸村は耳元に熱い囁きを吹き込んで答えとした。
「……綺麗だよ、桜乃…」
「!!」
「君が、誰の目にも触れないで本当に良かった……」
 きっと、夕方の騒動の事を言っているのだろうが、今の状況では落ち着いて答える事が出来ない。
 どうしようと再びパニックに陥りそうになっていたところで、ふっと、幸村が向こうから離れてくれた。
「…っ」
「ごめん…どうかしているね、俺…」
 やっぱりちょっと湯に当てられてしまったかな…告白もしてないのにこんな大胆なコト…
 ダメだ、このままここにいたらもっとおかしくなって、取り返しがつかない事になってしまう。
「俺もそろそろ上がるから……竜崎さんも、のぼせないようにね」
「あ…」
 自分が先にその場を離れて、幸村は元の、男性しかいない岩場にまで移動した。
 これ以上長く浸かるつもりもなくなっていた若者は、早々に上がって浴衣を纏い、旅館内に戻ったのだが…

「あれ?」
「……あ」
 脱衣所を出て間もなくのところで、幸村は桜乃と再会。
「…君も、今上がったの?」
「は、はい…」
 敢えて時間をずらそうと少し遅らせたつもりだったんだけど…もしかして…待っててくれてた…?
「そう……じゃあ、一緒に戻ろうか」
「…」
 こっくりと頷いた桜乃は、まだ顔が真っ赤だったが、それについては何も問わない。
 問うまでもなく、理由は明らかだったからだ。
 それから二人は連れ立って、皆が集まっている大部屋へと向かったのだが、如何せん、先程のアクシデントもあった所為で、なかなか普段の様な会話が出来ない。
「…大丈夫? まだ顔、赤いけど…」
「だ、大丈夫です…その、さっきは失礼しました」
「いや、そんな事は…」
 何となく堅苦しい会話が続いている内に大部屋に到着し、先に桜乃がかちゃんとノブを回した。
 部屋の向こうから賑やかな声が複数響いてきている。
「何だか盛り上がってますねぇ」
 皆と混ざって騒げば、また元のように普通に話すことが出来るかな…と思いつつ、桜乃がドアを開けた瞬間…
『わ〜〜〜っ!! 危ないっ!!』
「え…」
 ばふっ…!
「竜崎さんっ!?」
 何かが顔に直撃した衝撃で、気が遠くなる…
 叫ぶ幸村の声を聞きながら、哀れ桜乃はそのままぽてんとその場に倒れてしまっていた。


「ん…」
 桜乃が目を覚ました時、視界には、心配そうに覗き込む幸村とスミレの顔があった。
 特に幸村のそれは、かなり位置的に接近していて、一気に桜乃の思考を現実に引き戻した。
「え…!?」
「良かった、気がついた?」
「やれやれ…我が孫ながら情けないねえ、枕ぶつけられたぐらいで失神するなんて」
 二人の声を聞いている間に、桜乃は自分が幸村に膝枕をしてもらっている体勢だと気付いて慌てて上体を起こそうとする。
「す、すみませんっ!!」
 その小さな肩を押えて、幸村は桜乃にそのまま安静にするように命じた。
「いいんだよ、枕もそうだけど、やっぱりのぼせてたみたいだね。全く…ドアを開けた途端枕が飛んで来たなんて、誰でも不意を突かれるさ」
「枕?…………ああ」
 暫く考えて…ようやく記憶が戻って来る。
「そ、そうでした、私…」
「…流石に俺も本気で怒ろうかと思ったけど、その前に手塚がきっちりと責任を果たしてくれたからね。ウチのメンバーの投げたものじゃなかったのはせめてもの幸いだったよ」
 ふぅ、と軽く息を吐き出して、幸村は桜乃の額に置いていた濡れたタオルに優しく触れる。
「…何処か、痛いところはない?」
「大丈夫、です…」
 大丈夫だと言ったのは真実だったが、相手の顔がすぐ傍にあることと、やはり温泉での事件がまだ尾を引いている所為で、顔の火照りはなかなか治まってくれない。
 それを覗き込んだ祖母は、あの温泉での事件など知る由もなく、単に枕を当てられた所為だと看做していた。
「おや、まだ顔が赤いね…ちょっと氷を貰って来ようか。幸村、少しだけ世話を頼むよ」
「はい」
 フロントにでも向かったのだろうスミレを見送った後、二人は暫し沈黙の中にあった。
(あ……よく考えたら、今、幸村さんと二人きり…)
 どうしよう…こんな状況だと、忘れたかったあの混浴の事が却って脳裏にまざまざと…
 どうしよう、早く治まってくれたらいいのに、でも…と悶々としていた少女の耳に、不意にくすくすと小さな笑い声が聞こえてきた。
「?」
 恥ずかしさに閉じていた目を開くと、こちらを笑いながら覗きこんでいる幸村と、まともに視線が合った。
「ゆ、きむらさん…?」
「ごめん…でも、君があんまり必死な顔をしているから…可愛くて」
「かっ……ひ、必死にもなりますよ…あんな事があったんですから…」
 可愛いと言われて面食らった桜乃だったが、敢えてそれには触れずに自分がどれだけ恥ずかしかったのかを強調すると、幸村はもう一度ごめんと謝った後で笑みを消した。
「……でも、君が恥ずかしがる気持ちもよく分かるよ……正直、俺も少し気まずくて」
「…そ、れは、でも、幸村さんの所為じゃ…」
「うん、きっと誰の所為でもないんだよ……ねぇ竜崎さん、君がまだ凄く恥ずかしいというのなら、それを少しだけ解決する方法があるんだけど…俺にとってもね、凄くいいアイデアなんだ」
「え…そんな方法が…?」
「うん…聞くかい?」
 尋ねる若者に、この恥ずかしい気持ちが少しでも消えるなら…と、桜乃はすぐに頷いた。
 それを見届けた幸村が、真面目な顔でひそ、と小さな声で提案した事は…
「……俺の恋人になること」
「え…!!」
 聞き間違いか、と思った桜乃だったが、相手の表情が真実だと語っている。
「順番は逆になっちゃうけど…恋人同士って思えば、それだけでも少しは気は楽にならない? それに、君が恋人になってくれたら、俺ももう不安に思わずに済む…君を他の誰かに取られるかもしれないって…」
「〜〜〜!!」
 さわ、と少女の頬を優しく撫でてくる若者の言葉に、徐々に熱が篭ってくる。
「…今回の事があったから仕方なく、なんて事じゃないよ…それは只の切っ掛けに過ぎない。俺はずっと好きだったんだ、君の事が。あの時君に会ったのが他の誰かだったらと思うと、それだけでおかしくなりそうなくらい……誰にも見せたくない、触らせたくない、俺以外の誰にも…!」
「幸村さん……」
「…大好きなんだ…桜乃」
 願うような最後の告白を、桜乃は照れることも忘れて、じっと聞き入っていた。
 まるで何か…とても大事な宣託を受けた様な、そんな気分だった。
「……」
 そんな自身の心に押される様に、桜乃はゆっくりと頭を上げて上体を起こし、そして幸村と向き合う形でその場に座る。
「……?」
「…ち、小さい時に、お祖母ちゃんに言われてました……『女は、本当に好きな人にしか裸を見せたらいけない』って…もし見られたら、責任を取ってもらえって…」
「…!」
「……その、今日、見られたのが……幸村さんで、良かった…です」
「!!」
 それってつまり…
 心の中で、「そういうこと」だと答えが出た瞬間、幸村は感極まって桜乃を思い切り抱き締めていた。
「桜乃…!」
「あ…っ」
 ようやく手に入れた愛しい人を間近に感じることが出来て、若者の口から深い溜息が洩れる。
 抱き締められた桜乃は、また新たに生じた羞恥の感情を持て余しながら、少しだけ拗ねた口調で念を押した。
「ち…ちゃんと、責任取って下さい、ね…?」
「うん…約束するよ。だから…」
 そう言って、幸村は少しだけ二人の身体を離しながら、代わりに己の顔を相手のそれに近づける。
「え…」
 ちゅ…っ
 気付いたら、桜乃はその恋人に、優しく唇を奪われていた。
 互いの唇の柔らかさと、互いの熱が伝わりあう…触れ合う面積は微々たるものなのに、心と身体にえもいわれぬ甘美な嵐をもたらす儀式。
 その魔力に魅入られた様に、桜乃は咄嗟の出来事であったにも関わらず、抗う事もなく相手の口付けを受け入れていた。
 どれだけ時間が過ぎただろうか…?
 ようやく唇を離し、その甘さの余韻を楽しみながら、幸村が笑った。
「…さっきは額だったけどね…今のは恋人のキス」
「…こいびと…」
「君が望むなら、いつでもしてあげる……俺が望む時も、遠慮なくするけどね」
 だから…これからよろしく。
「〜〜〜!」
 それから、スミレが戻って来た時、桜乃は相変わらず…いや、寧ろ最初より顔の紅潮が酷くなっていたらしいが、その理由が明かされる事はなく、二人の胸の内に留められたのは言うまでも無い。

 そして翌日には、より一層睦まじい二人の姿が見られるようになったという……






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