もう届かない
「では、これから来週の授業内容に関するプリントを配る。最前列に座っているヤツは、自分の列の人数分を取って、後ろに回してくれ」
ある日の青学の一教室。
その午後のホームルームでプリントが配られ、生徒の一人である越前リョーマもまたそれを受け取っていた。
(冬期講習の参加希望者…)
冬休みに行われる、学校での講習の参加を募るものらしい。
幾つかの教科がそこに記載されており、越前は自分の学力に見合うコースはどれになるかと一応目を通す。
別に、これに参加しなくても十分な学力は保てているのだが、何となくこういうものは自分の立場で考えてしまうのだ。
(…英語は問題ないけど、国語は考えてもいいかな……)
バイリンガルとは言え、アメリカ在住期間が長かった自分としては英語よりも日本語の方が不慣れだ。
何よりも英語はアルファベットの羅列だけで済むのに、国語はひらがなのみでなく漢字も含まれてくるので、やり辛いことこの上ない。
暫くそのプリントを見ていた越前は、周囲のみんなはどういう選択をするのか、それとも自宅学習にするのか単純に疑問に思った。
「…アンタはどうするの?」
不意に、隣の席に問い掛けてみる。
答えは…ない。
「……」
沈黙が返ってきたところで、越前は思い出した。
そこについ先日までいた筈の人物は、もういないのだと。
病欠などに一時的な不在ではなく、もうその人は青学に来る事はないのだ。
分かってはいても、つい確かめる様に隣の席へと視線を向けると、がらんとした寂しい光景があった。
『リョーマ君はどうするの? 私はね…』
もしいたのなら、きっと向こうから話しかけてきていただろう…いつもの様に遠慮がちで内気な態度そのままに…
そして、自分がどんな答えを返したとしても、あの子は笑っていただろう。
前に出ない、出ようとしないその態度は、時々こちらを呆れさせることもあったが、なければないで物足りない気もする。
(……まぁ、どうでもいいけど)
寂しいということではなく、まだ慣れてないというだけだ。
すぐに、これもまた日常の風景になる筈だ、と思いながら、越前はプリントを鞄の中に仕舞いこみ、ホームルームが終わるとその足でテニス部部室へと向かった。
夏の暑さも盛りを過ぎて徐々に気候も穏やかになっていき、運動するには良い時期となったが、それが部の練習内容を甘くする訳ではない。
「ちーっす」
「お、来たか越前」
先輩達の中でも特に懇意にしている桃城が先に部室に来ており、越前は彼と着替えを済ませると、ラケットを持って外へと出る。
馴染んでいる相棒を手で弄びながらコート脇を歩いていると、フェンスの向こうから応援してくれる生徒達の声が聞こえてきた。
「……」
ふとそちらへと顔を向けた越前の目は、自然とそこに一人の少女の姿を探していた。
そして、教室での時と同様、探すという行動の後で、それが無駄な事なのだと思い出す。
そうだ、百パーセントの確率ではないが、あの子がここにいる筈が無い。
今頃の時間なら、寮に帰っている途中か、それとも……
「…」
「あー、やっぱ見慣れたヤツがいないと、ちょっと調子狂うよなぁ」
いきなり突っ込まれ、むっとした顔で横を見ると、桃城もまた自分と同様にフェンスの向こうへと視線を送って渋い笑みを浮かべていた。
「そんなに声が大きい奴じゃなかったけど、ずっと応援してくれてたし」
「別に関係ないでしょ、練習はいつもと変わらない訳だし」
そっけない言い方はいつもと変わらなかった…が、そこに微かに覗く棘があることを桃城は見逃さなかった。
「お前なぁ…しょーがねぇだろそんなにイライラしたって」
「イライラなんてしてないッス」
「そーかぁ?」
ただのクラスメートぐらいなら気付かないだろうが、明らかにあの日から、この生意気な後輩は心を苛立たせている。
厄介なのは、その原因だ。
原因が自分達先輩や、周囲の人間達にあるのなら、その解決策もいずれ見つけられるだろう。
しかし現在。
越前リョーマを苛立たせている原因ははっきりしているのだが、ここにはいない。
いや、言い方が正しくないかもしれない。
原因がいないのではなく…その存在がここに『いない』事が越前の苛立ちの原因なのだ。
(……確かに急だったしなぁ…もうちっと時間をおけば、コイツもそこまで動揺はしなかったんだろうけど)
そう思ったところで事態が変わる訳でもなく、桃城は一応その話題については打ち切ろう…と思っていたのだが、そこで彼らに声を掛ける者が現れた。
「おや、来たね二人とも」
「お、竜崎先生」
「ちーっす」
青学の男子テニス部顧問である、竜崎スミレだ。
中学生の孫を持つ程の年でありながら、老いを感じさせない行動力の高さと決断力は、流石に強豪校の猛者を束ねるだけの事はある。
その彼女が現れたところで、桃城はこれは好機とばかりに相手に声を掛けていた。
先ほどまで自分達が語っていたある人物…その者とこの顧問は深い繋がりがあり、自分達の疑問にも答えるだけの内情を知っているだろうと踏んだからである。
「そー言えば、これまでごたごたしてて訊けなかったんすけど…竜崎って、何で立海に行ったんです?」
「桃先輩…」
「いーじゃねーか、これは俺の純粋な興味なんだから」
咎めるような後輩の冷たい視線も物ともせずに、桃城はスミレに視線を戻し、答えを待つ。
対するスミレは桃城の問いを聞くと、ちょっとだけ困った表情を浮かべた。
何と答えようか、という悩みがよく表れている表情だ。
「ああ、桜乃のことかい」
スミレが名を呼んだ桜乃という者…正しくは竜崎桜乃。
彼女こそは、この竜崎スミレの孫であり、越前リョーマのクラスメート…だった少女だ。
クラスメートで隣の席に座っていた…今はもうここにはいない中学一年生。
あの子は今は青学ではなく、立海大附属中学に籍を置き、そこの学生として日々を過ごしているのだ。
もし他の名も知らない学校への転校だったなら、越前リョーマも今ほどに苛立ちを感じる事はなかっただろう。
しかし何故、立海に…あの場所に…彼らのいる場所に……
再び苛立ちが湧き上がってくるのを感じながらも無言を通した越前の前で、スミレは腕を組んだまま目を伏せて口を開いた。
「…まぁ、テニスを通じてあの学校の事を知って、興味が湧いたらしい。あの子も私の手伝いを色々としてくれていたから、向こうのレギュラー達と話す機会も多くてね。向こうも桜乃と仲良く話しているのを見ていたから、そこで学校の事を聞いていたんだろう」
向こうのレギュラー、という言葉を聞き、越前の脳裏によりはっきりと『彼ら』の姿が思い浮かんだ。
立海大附属中学の男子テニス部は、青学と並んで全国的にも強豪と謳われている。
そのレギュラー達も青学のメンバーに負けず劣らず個性の強い集団であるが、流石に名門と呼ばれるだけあり、実力は遜色ない。
憎み合っている訳ではなく、あくまでも宿敵…そんな立場の男達だ。
それなのに。
竜崎桜乃が彼らのいる立海へと転校を果たしたその時から、越前は彼らに対し自分でも説明出来ない何か黒い感情が沸くのを止められなかった。
見ず知らずの学校への転校ならまだいい…けど、何でよりにもよってあいつらのいる学校に?
しかもそれが、彼女の家の都合などではなく…桜乃本人の意志で?
それは本当に…『学校』への興味だけに拠るものなのか?
また悶々とし始めた越前の心中を知らずに、桃城がへぇ、とスミレに驚いた顔を向けた。
「よく許したっすねぇ…同じ関東圏と言っても県が違うし、今はアイツ一人暮らしでしょ? まぁ、偏差値はかなり高い名門だし、そこは止める理由もないでしょうけど」
「ああ……それがアタシの失敗だったんだよ」
桃城からの指摘に、教師はやれやれと首を振った。
「名門校だから、編入試験はそれなりに難関だったのさ。正直、桜乃は受かるかどうか危ないところだったんだが…」
或る日、学校から帰って来た桜乃が、祖母の自分に相談を持ち掛けてきたのが始まりだった。
『ねぇ、お祖母ちゃん。私、立海に行きたいの!』
普段から冗談を言う性格の孫ではなく、その目の中に確たる決意を見た祖母は大いに驚き、何とか思い留まらせようとしたのだが、相手はかつてない程に熱意に溢れていた。
困り果てたスミレは、そこで立海の教育レベルの高さを思い出し、それを逆手に取ろうと思ったのだ。
どんなに生徒が熱望したところで、彼らの実力が見合うものでなければ門戸は開かれない。
敢えて彼女に編入試験を受けさせ、そこで落ちたらすっぱりと諦めてくれることを、祖母は内心期待したのである。
ところが。
試験を受ける許可を出されたその日から、桜乃の猛勉強が始まった。
何かに取り憑かれた様に死に物狂いで勉強し、その努力は行った者に対して忠実に報いる形で学力が大幅に向上したのだ。
結果、桜乃は身内でも疑っていた編入試験に見事合格。
立海へ入学する資格を実力でもぎ取ったのだった。
流石にこうなると身内でも止める事は出来ず、已む無く祖母は桜乃を立海に転入させる事を許可したのである。
「最初こそウチも大騒ぎだったけど、合格した今となっては親も喜んでいるよ。何しろあそこはエスカレーター式で大学まで行けるからね。真面目に学生やってたら、以後は安泰だろう」
「っへー、そんな事が…普段はあんなに大人しいのに」
意外意外と繰り返す桃城に、スミレもそれには同調した。
「ああ、正直アタシもあそこまで熱心な桜乃は初めて見てね……あそこまでやられたら、仕方がなくなるものさ」
「祖母バカってヤツですか」
「何だいそれは…まぁ、確かにアタシもあの子にはちょいと甘くなってしまう事はあるけどね」
苦笑しながらも、スミレは一つの事を成し遂げた自分の孫が誇らしいのか、口調は何処か嬉しげだ。
それは確かに微笑ましい光景だった筈なのだが、越前は尚更気分が落ち着かなくなってしまっていた。
(…そんなにしてまで?)
そんな事、自分も知らなかった…アイツがそんなに熱心に何かに取り組んでいたなんて。
アイツはいつだって、何処か物怖じしてて、自信なさ気で、おどおどして…それでも自分達テニス部の方を見ていた。
テニス部を見て…俺の事を見ていた…見ていた筈なのに。
それが彼女の気持ちだと思っていた、これからもそれは続いていくのだろうと思っていたのに…
あの日。
教室でいつものホームルームが始まった時、アイツが担任に呼ばれて前に出て…いつもの様に内気な態度そのままに、それでもはっきりと言ったのだ。
『あの…私、今度立海に転校することになりました。短い間でしたけど、皆さん、仲良くしてくれて本当に有難うございました』
瞬間、聞き間違いか…それとも夢なのかと疑う中、周囲からは驚きの声が上がり、それが紛れもない現実なのだと遅れて知った。
竜崎家の都合なのかと思ったら、どうやらそうでもないという事は、その日の部活動の時のスミレの断りで知らされた。
じゃあ…どうして…?
どうして俺には一言の相談もなく、先に教えてくれることもせずに…?
確かに、自分達はただのクラスメートでしかなかった、そんな立場だった…けど…アンタはずっと、俺の方を見てくれていたんじゃないのか?
それからも天邪鬼な少年が、本当の理由を知る事もなく、訊くことも出来ないまま、桜乃は越前の前から姿を消してしまったのだ……
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