夢の中でも
「流石、テニスに特化したトレーニングを想定した合宿所だね…外観からも充実した設備なのがよく分かるよ。結構実のある合宿が期待出来そうだな」
「そうか、精市はここに来るのは初めてだったな」
その合宿所が暫しの沈黙を経て再び人の喧騒に包まれたのは、その年の夏以来のことだった。
アメリカ勢とで展開されたテニスの大会…そのジュニア選抜に際して使用されたこの合宿所は、氷帝顧問である某教師の一存で建立が決定され、現代のスポーツ医学など技術の粋を集めて作られたものである。
選抜が終了した現在も、時折彼の人脈など様々な繋がりで使用されることもあるのだが、今回、この冬休みを利用してここで短期合宿を行うことになったのは、立海大附属中学校の男子テニス部レギュラーメンバー一同だった。
冬季休暇を利用して、立海のコートで補修工事が行われる事になり、その期間、何処の団体も合宿所を使用する予定がなかったのが幸いだった。
テニス部繋がりで、その期間中の合宿所の利用を榊監督に申し出たところ、向こうは二つ返事で許可を出してくれたのだった。
合宿中は家からわざわざ通う必要も無く、その分の時間もテニスに利用出来るということもあり、寧ろ彼らには好都合である。
受け取ったキーを利用して玄関から中に入り、一旦そこで鞄などを置いたメンバー達はきょろりと辺りを見回した。
「俺らもたまに真田達の応援に来た事はあったが、なかなか快適そうな場所じゃったのう」
「真田君も、かなりこの施設については好意的な話をしていましたからね」
仁王や柳生が施設について語っていると、話に出された若者が相変わらず厳格な表情で頷いた。
「まぁな…流石にあの榊監督が設立に当たって全て指揮していただけのことはある」
「立海にもないトレーニングマシンも多数設置されていると聞いた…是非この機会に利用して効果の程を試したいものだ」
参謀の柳も、そのデータを採取する気満々の様だ。
そんなやる気に満ち溢れている若者達の中で、一人だけ、何となくモチベーションが高くない様子の者がいた。
二年生の切原赤也だ。
「…何で…折角の休みに合宿なんか…」
ぶつぶつと呟いている後輩に、丸井とジャッカルが呆れた視線を向けた。
「いーかげん諦めろってのい、レギュラーなんだからさ」
「お前だって、今年の冬は気合入れて引き篭もるって言ってたじゃないか。ここならトレーニングルームに屋内コート。引き篭もりながらテニスが出来るぞ?」
「気合入れるのは新作ゲームのつもりだったんすけどね…」
くはあぁぁぁ…と何か嫌な気炎を吐いている切原に、あれ?と幸村が軽く目を見開いた。
「何だ、切原は都合があったの? じゃあ無理に参加しなくても良かったのに…」
「……部長」
相手の肩書を呼び、切原は何故か顔色を真っ青にしながら幸村に背を向けてがくがくを身体を震わせた。
「そう言ってくれるなら、その隣の御方を何とかしてほしかったっすよ…」
隣の御方というのは、今、幸村の隣に立って切原を睨みつけている真田弦一郎その人だ。
実は、この冬季休暇の間は、部活の時間以外は思い切り自堕落に過ごそう!と思っていた切原は、真田から今回の合宿について聞いた時、一瞬、サボる事を考えた。
そして、それを実行すべく、曖昧な返事を返そうとしたのだが、向こうから聞こえてきた台詞は…
『来たくない? 退部にしてもいいのだぞ』
結果、切原赤也、半ば強制的に参加決定。
「だいったいですねーっ!! あれじゃあもう参加『意志』確認じゃなくて、『命令』でしょ命令!! 何イヤミなやり方で召集掛けてんスかみんなして―っっ!!」
過去の思い出を思い切り自分で蒸し返し、ついでに湧き上がってきた怒りが遂に恐怖に勝った。
しかしそれを勢いのまま向こうにぶつけてみたものの、参加している時点で今更である。
「いや、俺達もうすぐ肩書もなくなるし、その前にちょっと権力使い切っておこうかなーと思って」
「横暴だ――――――――っ!!」
部長のにこやかな言葉に、二年生エースが涙目で訴える様を、遠巻きに紳士と詐欺師が見守っていた。
「…デパートのポイントみたいじゃの、ウチの権力」
「彼らの場合、どれだけ使っても湯水の様に湧いて出そうですけれどね、権力」
まぁでも、面白いからほっとくかーと完全に傍観者になっていた彼らの隣で、くすくすと小さな笑い声が起こった。
「…相変わらずですね、切原先輩」
「おう竜崎、何処行っとったんじゃ?」
先ほどまで姿が見えなかったテニス部マネージャーであるおさげの少女を見て、仁王が笑いながら尋ねると、彼女は相手にきょろっと大きな瞳を向けながら、施設の奥に通じるドアを指差した。
「皆さんが泊まる予定の部屋の窓を開けてきました。空気の入れ替えをしておこうと思って…後で、使用する設備も確認しないといけませんね。ええと、他には食材の買出しと〜、お風呂の準備と〜、お掃除用具の点検と〜…」
「貴女の爪の垢、切原君に飲ませてあげたいですね…」
「ほんによう働くの〜」
苦学生並の勤労精神だ…と、いい子いい子と頭を撫でられた少女は、あまりよく分かっていない様子だったが、褒められた事には素直に喜んでいた。
「あ、有難うございます…」
「? どうしたの? 何かあったのかい」
そんな少女達の様子に気がついた部長の幸村が、すたすた、とそちらに歩いて行く。
「竜崎さんが、非常に働き者だと褒めていたところです」
「ちょ…そ、そんなことないですよ」
柳生の手放しの賛辞に、少女は更に顔を赤くして否定したが、言われた幸村はそれに対してあっさりと首を縦に振った。
「ああ、それはよく知っている。蓮二も随分と褒めていたからね…君がウチ(立海)に転校してくれたのは本当にラッキーだった」
立海のテニス部レギュラーと普通に語り合う事が出来、部長の幸村が高く評価している少女は、竜崎桜乃と言う中学一年生。
現在は立海の生徒だが少し前までは青学に在籍しており、そこでは女子テニス部に入っていた女性である。
過去に立海のメンバーと知り合ったのが縁の始まりとなり、それに導かれて立海に入学を果たした桜乃は、今は女子テニス部ではなく男子テニス部のマネージャーとして活動を行っていた。
選手としては平凡な能力だった桜乃は、マネージャーとなった現在、その世話好きな性格が幸いしてかなかなかの辣腕振りを発揮している様だったが、引っ込み思案な性格は相変わらずの様である。
「ゆ、幸村先輩まで…私はその、自分が出来ることを精一杯やるしかないだけで…」
「ふふ…それも立派な才能の一つさ」
「え…?」
「やるべきことを精一杯やるというのは、簡単な様でなかなか出来ない事だよ」
地味な仕事ではあるが、決して楽ではないそれを必死にこなしている少女の苦労を察して、部長である若者は柳生達と同様に桜乃の頭を優しく撫でてやった。
「合宿に一緒に参加してくれて有難う。色々と苦労かけるかもしれないけど、俺達で出来ることは協力するよ」
「あ…だ、大丈夫です! 私、頑張りますから!」
えいっとガッツポーズをとってやる気を見せた少女は、見た目からして微笑ましい。
「…そう、期待しているよ。じゃあ取り敢えず今日の予定をもう一度確認しておこうか」
そんな彼の一言で、それぞれの活動予定を再確認する為に全員が集まり、上手くまとまったところで彼らは一度解散となった。
施設は、桜乃にとっては久し振りの場所なので、それ程悩む事もなく全体を把握できた。
自分の荷物を部屋に運び、厨房などの設備を確認した後、彼女はそのまま合宿所を出て食材の買出しに出かけた……部長の幸村同伴で。
当初は彼女一人の予定だったのだが、女性一人では食材の運搬がきついのではないかという懸念と、一人男手があった方が、先に買いだめ出来る物も運べるという利点があったからである。
「すみません、幸村先輩もお忙しいのに…」
「大丈夫。大まかな指揮は弦一郎に任せてるし、彼の方が適任だって気もするからね」
「……切原先輩のことですか?」
「そこはノーコメントで」
「うふふ」
しーっと人差し指を自身の口元に立てて悪戯っぽく笑いながら言った幸村に、桜乃も口元に手を当ててくすくすと笑う。
「……」
幼さの残るあどけない微笑みに、幸村が優しい視線を向けたが、少女はそれに気付かないまま、改めて前を向いた。
「…この合宿が終わったら、皆さんも色々とテニス以外でも忙しくなるんですね」
「ん? うん…まぁみんな立海の高校にそのまま進学する形だから、そんなに切羽詰ってる訳じゃないよ」
「そうですか…」
ほ…と安心した様に息を軽く吐き出し…しかしまだ憂いの残る表情で下を向く娘に、部長はどうしたのかと首を傾げた。
「…元気、ないね?」
「あ、いえその…これが終わったら、皆さんも部活にあまり来られなくなるのかなーって思ったら…凄く寂しくて」
「ああ…」
愁眉の理由を知り、幸村はちょっと苦笑混じりに頷いた。
そう、自分達は現在中学三年生であり、年を越して三学期になるといよいよ高校への進学の準備が始まる。
それと同時に、部活動の前線からも徐々に退く時期でもある。
テニス選手としてどんなに優秀な技量を持っていても、後輩の道を妨げることはあってはならない。
指導する立場としては残るだろうが、それでも部に顔を出す機会は徐々に少なくなっていくだろう…しかしそれも後を背負って立つ後輩たちの自立を促す為でもあるのだ。
しかし、桜乃にとって頼れる『先輩』であり、同時に優しい『お兄ちゃん』達でもあった三年生レギュラー達がいなくなるという事は、純粋に寂しさを感じさせる出来事であった。
そして特に、この部長である幸村精市がいなくなることは、少女にとって大きな喪失感をもたらすものだったのだ。
「大丈夫だよ、部には切原がちゃんと残るし、俺達も消えてなくなる訳じゃない。何かあったら力になるから…そんな顔しないで、ね?」
優しい言葉を掛けてくれる『部長』の心遣いに、桜乃の胸が少し痛んだ。
違う。
寂しいのは、『部長』達がいなくなるからじゃない。
貴方が…『幸村精市』が来なくなってしまうから、なのに…
(…言える訳、ないよね…)
貴方が好きですなんて…きっと迷惑。
だって、私はマネージャーに過ぎないんだから…この人の傍にいられるのだって、その立場だからに過ぎないんだから。
元々、マネージャーの任に就いた時には、そんな感情はなかった…と思う。
この人の傍にいたいからマネージャーを引き受けただなんて、そんな浮ついた理由じゃなかった…今だって、この仕事には公私はしっかり弁えて向き合っている自負もある。
けど、いつの間にか…気がついたらマネージャーとしてでなく、竜崎桜乃として彼の背中を目で追っていた。
それが恋なのだと気がついても、どうしようもなくて…ただ、見つめるしかなかった。
(…私が高校に上がったら、幸村先輩は三年生…また一年しか一緒にいられないんだなぁ…)
それにその時には、この人にも綺麗で優しい恋人がいるかもしれないし…今だっていないのが信じられないぐらいなんだから……
(まぁ確かに、今は恋人よりテニスって感じだものね…どっちみち報われないけど、私にとってはラッキーだったのかも…)
まだ…一人の貴方を傍で見ていられるんだもの…
「……!」
ふと、気がつくと一人黙々と黙って歩いている自分が気になったのか、まだじっとこちらを見つめてきていた幸村と目が合った。
「あ…す、すみませんっ、ぼーっとしちゃって」
「ふふ、いいよ。言われてすぐに安心出来るような問題でもないからね…けど、少なくとも俺はいつでも君の味方でいるつもり…だから安心して」
「…はい」
そうだよね…この人は来年の春には中学校の校舎からはいなくなるけど…でも、消えるわけじゃないんだから…
まだこうして、私の為を思って言葉を掛けてくれるんだから…心配させちゃいけない。
うん!と気を取り直してにっこりと笑った桜乃に、微笑を返しながら幸村はふ、と視線を逸らしつつ微かな呟きを漏らした。
『だから君も…俺の傍にいてよ』
無事に買出しを済ませ、合宿所に戻ってからの桜乃は、早速トレーニングに勤しむ部員達の為に腕を揮って豪勢な食事を作り、彼らに思い切り良く振舞った。
桜乃の腕は既に彼らの知るところであり、今回もまたその期待の上をいく出来であったので、食卓の乗せられていた数多くの料理は瞬く間に姿を消していった。
育ち盛りの若者にとっては、食べ物を残すなど正に言語道断!
大盛況の内に夕食は終了し、その日の夕方以降は各自がのんびり出来る時間となっていたので、それぞれが思い思いの食後の一時を楽しむことになった。
「お風呂が沸きましたよー」
『は――――――い』
夕食の片づけを済ませ、そのまま浴場の湯船にお湯を張る作業も済ませた桜乃がリビングにそう告げに行くと、全員がそこでまったりとくつろいでいた。
幸村や柳生達は、休憩中も彼ららしくびしっと背筋を伸ばし、各々の持ち込んできた書物に目を通していた。
柳は自身のノートを見開きながら、今日のトレーニングの内容についての反省点の抽出中。
丸井やジャッカル達は若者向けの雑誌を開いて、今流行りのファッションやスイーツについて楽しそうに何かを話しており、後ろから仁王がそれを笑いながら観察している。
そして、切原は持ち込んでいた携帯ゲームをかちかちと弄っていたが、一段落ついたのか、体の姿勢を崩すと同時にゲーム機から手を離して大きくのびをした。
「あ〜あ〜…つまんね。今頃は家で新作ゲームやってる筈だったのにさー」
「それは持ってこなかったんですか?」
桜乃の素朴な質問に、相手はぷるるっと首を横に振った。
「いや、そっちは携帯版じゃなくてテレビに繋ぐゲームの方だったからさ。流石に本体持ち込む訳にはいかねーじゃん」
「成る程」
納得です、と桜乃が頷いている間にも、切原はごろごろとソファーの上に寝そべりながら思い切り自堕落に浸っている。
「結構楽しみにしていたからさー、出来ないとなるとストレス溜まるんだよなー」
「ストレスですか…」
ふむ、とそれを聞いた桜乃は暫しの間押し黙り…
「…私のぬいぐるみ、貸しましょうか?」
と、全く脈絡の無い提案を相手にした。
『…………?』
それまで各々の趣味に興じていた他の男達も、皆一斉に桜乃と切原の方へと注目した。
一体、何の話だ…?
「…えーと、俺にもある種の疑惑が掛かりそうな、その御意見の目的は?」
ひくっと顔を引きつらせながらそう尋ねた切原に、桜乃は無邪気に答えた。
「人って、寝ている時に何か柔らかなものを抱いて寝たら、ストレス発散になるんですって。やってみたらどうですか?」
「あ、ああ、そういう事…」
一応はそれなりの理由があったのだと知った事で、切原もほっと胸を撫で下ろしたが…それはそれでまた新たな悩みが湧き上がってくる。
「……中学二年生の男子が、ぬいぐるみ抱えて寝るって…」
「や、やっぱりダメですか?」
「…ストレス発散するっても、我に返ったらすげぇマヌ……」
言いかけた若者が、はた、と途中で言葉を止めた。
ちょっと待てよ…この子のぬいぐるみ…って言ってたよな?
「えーと、そのぬいぐるみって…アンタも愛用してんの?」
少し趣旨がずれてきた質問だったが、桜乃はそれに気付く様子もなく素直に答えた。
「そうですよー、最初はそんな事知らずに、単に気持ちいいからそうしていたんですけどね」
「…………」
と言う事は、そのぬいぐるみは毎日この子に抱かれて眠っていた訳で…
「やっぱりちょっと貸し…」
がんっ!!
ストレス発散目的の裏に隠された邪な目的を即座に見抜いた副部長が、相手が台詞を言いきる前に見事に手にしていた書籍を相手の後頭部に命中させていた。
「きゃ…」
何事が起こったのか即座には理解出来なかった桜乃が驚き、うろたえている間に、本をぶつけられた切原が即座に復活。
「いきなり本ぶつけなくてもいーでしょーっ!?」
「なに目を開けたまま寝言をほざいとるのだ貴様はーっ!!」
頭を押えながら非難した後輩に、真田も青筋を立てながら怒鳴り、辺りがちょっと賑やかになる。
まぁ、部室でもしょっちゅう起こる程度の騒ぎなので、今更誰もうろたえてなどいない。
「……わざわざ持って来たんですか」
切原達の騒動を遠巻きに見ながら柳生が尋ねた言葉に、桜乃が照れながら頷く。
「す、すみません…昔からの癖になってて…」
「まぁ、分かる気もするのう。今でも結構抱き枕とか人気みたいじゃよ、あれに近い感じなんじゃないのか?」
銀髪の若者が丁度良い例を提示してくれて、あーそう言えば、と他の男達も納得していたところで、桜乃が更に豆知識を披露。
「因みに裸でやったら効果アップなんだそうですー」
「そういうアブない話を無邪気に話すお前さんが好きじゃ」
「仁王君…」
ふふふふふ…と何やら怪しい笑みを浮かべつつ少女を可愛がる詐欺師に紳士が突っ込みを入れている脇では、どうやら桜乃の言葉を素直に想像してしまったらしい丸井達がうーむと真面目に悩んでいた。
「そりゃあ、がんがん暖房効かせてないと寒そうだよな〜」
「幾ら柔らかくて気持ち良いと言ってもなぁ」
「……」
もっと突っ込むべきところは他にもあると思うのだが…と思いつつも、柳は彼らが至極健全且つ純粋な思考を持っていた事に感謝しながら無視を決め込んだ。
「ぬいぐるみか…流石に俺達は持ってないけどね」
微笑む幸村に、桜乃はそうですよね、と苦笑する。
「…私、小さい頃から家に一人でいる事が多かったから、ずっとぬいぐるみを抱いていたんだそうです。寝ている時は特に、何か抱いていないとぐずっていたらしくて…誰かが傍にいないと不安だったんでしょうね。その名残かな…」
「そうか…成る程ね」
小さい時から、可愛い子だったんだろうな…と思いつつ、幸村は桜乃に優しく声を掛けた。
「……今日は、良い夢を見られたらいいね」
「はい」
『ストレスを感じる程にヒマなら今から試合に付き合ってやる! 表へ出ろ――――!!』
『ぎゃ〜〜〜〜〜っ!!』
にこ、と笑って幸村に桜乃が応じていた時、向こうからはまだ賑やかな声が響いていた……
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