その夜……
「―――――……?」
 ふと、幸村の目が開いた。
 その覚醒は、彼自身にとっても予想していなかった事らしく、本人は目を覚ました時に、実に不可解な表情を浮かべていた。
(…あれ?)
 おかしいな…何で自分は目を覚ましたんだろう……?
 理由が分からない…特に変な夢を見ていた訳でもないし…
「……」
 もう一度眠ろうか…と思って身を横にしてみても、どうやらしっかりと覚醒してしまったらしく、全く眠気が戻って来る様子がない。
(……やれやれ)
 オーソドックスに羊でも数えるか…それとも一度起きて何か飲もうか…幸い、保温式のポット程度なら部屋に備え付けられているし、携帯用のカフェオレスティックも数本、持参しているし…

 こんこん…

「ん…?」
 不意に聞こえてきた音に、幸村がドアへと目を向けた。
 思い切り叩かれている訳ではない、遠慮がちな音だったが、聞き間違いではない。
 ノックだ。
 誰かが、自分の部屋のドアをノックしている。
(…もしかして)
 自分がいきなり覚醒した理由…それは、今のノックではないか?
 誰かがノックを外で繰り返し、それによって自分は起きたのではないか…?
 誰かは知らないが、今ここの合宿所にいるのが自分達立海の生徒だけである事を考えたら、当然その内の誰かだろう。
 泥棒がノックをするなんて前代未聞だし…と思いつつ、幸村は取り敢えずベッドから抜け出し、ドアに近づいてそれを無造作に開いた。
 廊下は、深夜ではあったが人を感知するセンサーのお陰でその場所だけライトが灯されている。
「はい?……え」
 開いたところで、幸村は有り得ないだろうと思っていた人物がそこに立っているのを見て驚いた。
「竜崎さん!?」
 名を呼びながら、相手の様子をよく見たところで更に驚く。
 少女は、今はパジャマに着替えて髪を解いた姿だったが、それより若者の目を引いたのは、彼女が泣いているという事実だった。
「どうしたの!? 何があった…」
 尋ねた幸村の言葉を遮る様に、少女は涙をそのままに相手の胸に飛び込んでくる。
 あまりに意外な出来事が続き流石の幸村も動揺したが、そのまま突き放すわけにもいかず、彼は取り敢えず桜乃の肩を抱いてやった。
「…竜崎さん?」
 声を小さくして、相手を刺激しない様に呼びかけてみると、向こうはぎゅーっと声で答える代わりに自分のパジャマをきつく握り締めてきた。
 答えないのは…まだ涙が止まらないからだ。
(……震えてる)
 抱いてやった肩から、嗚咽によるものではない明らかに小刻みな振動が伝わってくる…
 何が起こっているのかはまだ分からないが、このまま放っておく訳にもいかない。
 少なくともノックをされたという事は、この子は自分に会う事を求めて来たのだろう。
「…おいで」
 取り敢えず、部屋の中に少女を招きいれようとした時、ようやく彼は相手の声を聞いた。
「…ないで」
「え…?」
「…きえないで…」
「…?」
 その声の方が余程消え入りそうで小さいものだったが、幸村は確かにそう聞き取り、眉をひそめつつ自身の身を後ろに引いた。
 そしてそのまま、抱きついてきている少女ごと、部屋の中に入ると、彼はドアを静かに閉める。
 廊下のライトが再び消灯した時には、桜乃は幸村によって中へと誘導され、彼が少し前まで横になっていたベッドに座らされていた。
「……何か飲むかい?」
 ベッド脇のスタンドライトを点け、彼女の隣に座って尋ねた若者だったが、桜乃はかぶりを振ってぎゅうっと尚きつく幸村に抱きついてくる…その身体を震わせたまま。
「………」
 どうやら何か…恐い目に遭った様だ。
 しかし見たところパニックは起こしていない様だし、直接的な被害を受けた様にも見えない。
 危急の事態ではなさそうだという事を確認して、幸村はほ、と内心安堵していた。
 これは先ず何より先に、彼女を落ち着かせるのが先だな…
 そう判断して、幸村は両腕を広げ、相手の小さな身体を抱き締めると、ぽんぽんと子供をあやすように背を叩いてやった。
「よしよし…大丈夫だよ」
「………」
「俺がここにいてあげるから……心配しないで」
「…ゆ…きむら…んぱ、い…っ」
 相手の優しい言葉が更に胸を、心を打ったのか、桜乃の目から更に涙が溢れてくる。
「…えないで…き、えないで…ください…おねがい、おねがい、おねがい…」
「竜崎さん…?」
 また、さっきと同じ不思議な言葉を繰り返し、桜乃はまるで幻を引き止める様に幸村に縋りついていた。
(消えないで…?)
 何をこの子はそんなに恐れているんだろう…と純粋に疑問に思いながらも、幸村はひたすら桜乃を落ち着かせる様に、静かに声を掛け続けた。
「…消えないよ…俺はここにいる。ほら、ちゃんと…」
 嗚咽を漏らす少女を慰め、髪を梳き、背を叩き……
 どれだけの時間が流れたのだろう。
 正直、もっともっと続いてくれてもいいと思っていた一時だったが、やがて若者の優しさのお陰か、桜乃の肩の震えも消え、嗚咽も治まり、彼女はようやく落ち着きを取り戻した様だった。
 但し、真っ赤になってしまった瞳と頬は、あまり変わってはいなかったが…
「…落ち着いたかい?」
「はい…」
 まだ幸村の胸に抱かれながら、桜乃は相手の質問に答える。
 本当は泣き止んだ時点で離れるべきだと分かってはいたが…あまりに心地良くて離れられなかったのだ。
「どうしたの…?」
「……夢が」
「え…?」
「…凄く…恐い夢を、みました」
 ぽつりぽつりと、桜乃はその夢を思い返しながら語った。
「いつもみたいに…私はテニスコートにいて、皆さんに挨拶しているのに…幸村先輩だけが、いなかったんです…探しても何処にもいなくて……誰に聞いても『知らない』って…知らない筈がないのに、みんな、みんな、幸村先輩のこと、忘れてしまったみたいに、笑ってて……恐くて恐くて…」
「……それは夢だよ」
「分かってます…! けど、目が覚めた後でも…恐くて…目が覚めた今も、もしかしたら、幸村先輩、消えちゃってるんじゃないかって……そう思ったら、もうどうしようもなくて…どうしていいのか分からなくて…!」
 だから……泣きながら、俺の処に来たのか…
 理由を知り…幸村は笑った。
 相手を愚かだと笑った訳ではない…嬉しかったのだ。
 恐れている、泣いている少女には申し訳ないことだが、嬉しくてたまらなかった。
 自分がいなくなることを、そんなに恐れてくれるなんて…
「…困った子だね…俺が消える訳ないじゃないか…」
「ご、めんなさい…」
 素直に謝る相手に苦笑して、幸村は抱いていた少女の身体を少しだけ離しながら相手の右手を取り…それを己の頬に触れさせた。
「ほら、そんなに不安ならちゃんと触って確かめてごらん…俺がここにいるって」
「あ…」
 一度は羞恥で引きかけた指先だったが、促す幸村の手がそれを許さず、桜乃は確かにその指先に相手の肌の感触と温もりを感じた。
「……」
 一度触れ、その感覚を覚えてしまえば、もっと感じたいという思いが沸き上がり、その望みのままに、桜乃の指先はゆっくりと相手の頬をなぞってゆく。
 互いの視線が近く、逸らされることもないまま、桜乃の指が若者の滑らかな曲線を描く頬から顎に流れ、そこから上に動いたところで…
 ふ…っ
「あ…」
 意図していなかったが、それは幸村の唇に触れてしまい、桜乃は小さな驚きの声を漏らすと共に指を離してしまった。
 そして改めて彼女が若者の視線を受け止めた時、彼は薄い笑みを浮かべてその形の良い唇を開いた。
「もっと、感じたい?」
「え…?」
 その答えを返される前に、幸村はほんの少しだけ首を傾げながら相手に顔を近づけ…そのまま唇を相手のそれと重ねていた。
「…っ!」
 柔らかで心地良い唇の感触とは裏腹に、思わず引こうとした桜乃の身体を逃がすまいと抱き締める男の腕はあまりに力強く…そして、離れ難い誘惑の魔力に満ちていた。
(幸村先輩…!?)
 夢ではないか…と思っても、紛れもなくこの感触は現実。
 しかし信じることすら畏れ多いと、心の何処かが囁き、桜乃を混乱させた。
「…せんぱ…いっ」
「ダメだよ…ちゃんと名前を呼んで」
 ようやく離れた唇で呼ぶ少女に、幸村はひそりと戒めた。
「『先輩』なんて何処にだっているさ……ちゃんと俺の名前を呼んでよ…そうしたら、俺は消えずに君の傍にいてあげる」
「せんぱ……せ、いいち、さん…!」
 言い直し、名を呼んでくれた桜乃を、幸村は嬉しそうに抱き締めた。
「うん…なに? 桜乃」
 そして、彼もまた相手を名で呼び返す…ずっと思い願ってきたことだった。
 願いが叶ったのは幸村だけではなく、名を呼ばれた桜乃もまた、今はもう相手の心に気が付いていた。
 気がついて尚…まだ信じられなかった。
「……夢、みたいです」
「夢じゃないよ…まだ信じられない?」
「だって…」
 言い募ろうとした桜乃にくすりと笑い、幸村はじゃあ、と言いながらベッドの上の布団を軽く捲って相手に促した。
「…横になって」
「え?」
「今日は…ここで一緒に眠ろう」
「ええ!?」
 目を極限まで見開いて大いに驚いた桜乃だったが、向こうは実に冷静に、余裕の微笑みすら浮かべている。
「何もしないよ…もしまだ君が恐いなら、俺が一緒に寝てあげる。俺が確かにここに存在していることが分かる様に」
「!…」
 動揺している桜乃の前で、先に幸村がベッドの上に上がって布団に潜り込み…その端を持ち上げて、少女に入るように促した。
「…ほら、おいで」
 それは、ただの音の繋がりに過ぎない筈なのに、誰もが逆らえない神の言葉の如く桜乃の胸に突き刺さり…そのまま彼女を前に進ませた。
 私は…何をしているんだろう…お暇しないといけないのに、よりにもよって幸村さん…精市さんに甘えて、一緒に寝てもらうことまで…
 止めないといけないのに…と心では何度も繰り返されても、それが身体を使って実行されることは結局一度としてなく…
 二人、落ち着いた時には、桜乃は再び幸村に抱き締められた姿で横になっていた。
 スタンドのライトを消して…そして二人は闇に包まれる。
「…すっかり遅くなったね」
「は…はい」
「……大丈夫…恐い夢は、俺が近づけさせないから…絶対に」
 だから…君は何も恐れずに眠っていいんだよ?
「……はい」
 勿論、初めて男性の腕の中で眠ることになった桜乃は、最初は全身がちがちの状態だったのだが、前に酷く泣いて体力と気力を消耗していた所為もあり、徐々に緊張の糸も緩んでくる。
 そして、幸村もその言葉の通り、抱き締めている他に手出しすることもなかったので、いつしか桜乃はくったりと身体を相手に預けて、安らかに寝入ってしまっていた。
(…眠ったみたいだね…)
 これで一安心だな…と思った後で、幸村は改めて少女の身体の感触に意識を向けた。
(本当に柔らかいんだな…小さいし、可愛いし…あ、そう言えば…)
 そして、彼の脳裏に、或る考えが閃いていた……



 翌朝…
「さて、俺個人の朝の修練は終わったが…そろそろ精市も起き出している頃だな」
 メンバーの中でも一番の早起きをしていた真田は、朝の習慣になっている座禅や素振りを済ませた後、一度自分の部屋に戻ってきたところで、その足を幸村の部屋へと向けていた。
(アイツが寝坊するなど考えられん事だが、挨拶がてら声を掛けておくか)
 そう思いながらそのドアの前に立ち、こんこんとノックをする。
「精市? 起きているか?」
 その呼びかけから数秒後…
『ん…ああ、お早う、弦一郎だね?』
 いつもと同じ声がドア越しに返って来て、真田は何気なく…本当に何気なくドアを開けた。
「お早う、精市…早速で済まんが、今日の朝の…」
 練習は…と言いかけた彼の口が、目の前の相手のベッドに視線が向いた瞬間止まった。
 そこには、上半身のパジャマを脱いだ状態の幸村がベッド脇に腰掛け、そしてもう一人、まだベッドの中でくうくうと寝息をたてている桜乃の姿があった。
 明らかに…男女が共に一夜を過ごした状況。
「な…っ!!」
 失神をかろうじて防いだ真田がわなわなと震えているのにも気付かない様子で、幸村は起きたばかりの頭を軽く振って髪を手櫛で梳いていた。
「精市――――――――――っ!!!」
「わ」
 合宿所全体に響き渡る怒声を浴びながらも、相手は軽く声を上げるのみに留まった。
「ふにゃ…」
 普段なら飛び上がって目を覚ますところだった桜乃だが、昨日遅くまで起きていた所為か、今日に限っては小さな声を漏らし、寝返りを打つに留まっている。
 何が起きているのかも知らないまま。
「どうしたの、弦一郎」
「どうしたのじゃないっ!! おおおお、お前は何と言う破廉恥なコトを〜〜〜っ!!!」
 尚震えながら、桜乃をびしっと指差した相手に、幸村は一度そちらに視線を移し、ああ、と頷いてそれを再び真田へと戻した。
「別に何もしてないよ。昨日のストレス発散法を試しただけで」
「…ストレス?」
 意外な単語を聞いて、一時、真田が落ち着く…ほんの少しだけ。
 それに対し、相手はそうと再び頷いて記憶を反芻しながら天井を見上げた。
「昨日、彼女が言ってたじゃない、柔らかいもの抱いて寝たらいいって。だから試してみたんだ…流石に全裸は憚られたけど」
「当たり前だ!!」
 再び興奮気味になりながら、真田はずかずかと部屋に踏み入ってきて相手に迫る。
「お前…本当に、本当にそれだけだったんだろうな!?」
「それだけって…じゃあ他に何をしたって言うんだい」
「それは……」
 その『何』を言えるほど、真田は擦れた人間ではなく…
「〜〜〜〜〜〜!!!」
 色々と言いたい事はあれど言えない状態になり、壁に向かって無言のままに打ちひしがれてしまった。
 そこで騒ぎは終息に向かうかと思いきや…
『何だ? さっきの声…』
『びっくりした〜〜、真田、どうしたんだよ』
『何かトラブルですか?』
 先ほどの彼の怒声を聞いて一気に起き出して来たらしい他のレギュラー達の声が聞こえ、同時に足音も響いてくる。
 そして当然、彼らもまた真田と同じ光景を目にしてしまうことになったのだが、その後に起こった阿鼻叫喚ものの騒ぎが他者に漏洩されることは、遂になかったらしい……






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