「柳生様、いらっしゃいますか?」
『桜姫…? どうぞ、お入りなさい』
部屋に入室する際に、その場の主に許可を取るのは当然の話。
宮の中には妖達それぞれの部屋が割り当てられているが、柳生の部屋は他の妖達のそれより一種異質な世界だった。
蓮の部屋が書物で埋め尽くされているのに対し、この柳生の部屋は薄暗い中に様々な薬品や植物、動物の干物、幾つもの大きな壷が所狭しと並んでいる。
初めて見た時には桜も大いに驚いたのだが、ようやく最近は少しだけだが慣れつつある。
「こちらですよ、姫」
主である柳生は部屋の奥に座し、姫が歩いてくる方へと顔を向けていた。
見ているのかという事は分からない、何故なら、彼の両目は漆黒に染まった布で覆われ、隠されていたからだ。
だが瞳は見えなくても、向こうは明らかに桜の姿を捉え、気配を完全に把握している様子で、その動きには一切の迷いが見られなかった。
「相変わらず、壮観ですね…」
「女子を招くような場所ではありませんね。申し訳ありませんが、ここで済む話であれば、このままでご容赦願いたいのですが」
「あ、大丈夫です…と言うより、今日はちょっと、柳生様の御手持ちの物を譲って頂けないかと…」
「え?」
「ええと…いいすと菌と塩と蜂蜜を少々…」
「??? いいすと菌??」
「蓮様の書付では発酵中の酒を分けてもらえばそれで代用出来る、と」
「?」
話がよく分からない様子の柳生に、桜が蓮から貰った書付を手渡すと、彼は布を付けたままに手で文字をなぞりながらそれを読み取っていく。
「ほう、面白そうなものを作られるようですね」
「お譲り頂けませんか?」
「問題ありません。毒になるものでもありませんし、今、準備しましょう」
快諾すると、柳生はすっくと立ち上がり、部屋の中の壷の一つに迷いもせずに近づくと、その上部を覆っていた木蓋を開けた。
そして中の液体の状態を確認し、空いていた傍の陶器の瓶へと柄杓を使って器用に移し変えていく。
「柳生様のところには、本当に色々なものがあるのですね」
「主に保存食や酒、薬品ですがね。管理する者に他に適任がいないそうで」
「そうなんですか?」
こぽぽ〜っと酒を注ぎながら、柳生は淡々と相手に答える。
「弦は部屋に篭る事は性分ではありませんし、蓮は物を置くぐらいなら書物を置きたい様な方。仁王は預かった物でも勝手に何を仕込むか分かりませんし、文太や赤也は酒や食物を任せたが最後、悲惨な結果になるのは目に見えています。悉伽羅は悉伽羅で、あの二人の世話で手一杯でしょうから、必然的に残るのは…」
「お疲れ様です…」
全部語らせて悪いことをした、と思いつつ相手を労い、桜乃は酒を入れた壷と、塩を包んだ袋、蜂蜜の入った小瓶を受け取った。
これで、必要な品は取り敢えず揃った…
「上手くいくといいですね」
「はい! 出来たら皆さんにもお分けしますから、楽しみにしていて下さい」
嬉しそうにそう答えると、桜姫は譲ってもらった品物を抱えて、早速自室へと向かっていった。
「ええと、取り敢えずは混ぜて捏ねる…と」
集めた品物を順番に記された分量を守って漆器の大盆に入れていき、いよいよ桜の大仕事が始まった。
「よいしょ、よいしょ…」
小さな手で、小麦粉と酵母入りの酒と蜂蜜を混ぜて練っていくと、徐々に全てが均等に混ざり合い、固めの粘土のような様相を呈していく。
「うわ〜〜、結構力使うなぁ…でも面白〜い」
盆の中で、こねこねこね…と生地を長い時間捏ね続けた桜は、仕上げた時には額に汗を浮かべている程だった。
「うん、これぐらいでいいのかな…ええと、で、膨らむまで温かいところに置いておく?」
盆の中、一つの半球になったものを見つめて、桜が小首を傾げる。
「…勝手に膨らむのかしら…信じられないけど…」
西洋の文化など触れたこともなく、無論、ぱんを作るなど初めての桜にとっては、全てが新鮮で初めての経験でもある。
自分の中にある概念では理解し難いところもあるが、今は蓮に教えられた知識を信じて従うしかない。
「じゃあ…濡らした布をかけて、暫く何処かに置いておこうかな…あ、そう言えば、弦様達が窯を造っている処だったら、日も当たって暖かいかも…」
ちょっと覗きに行ってみよう、と思い立ち、桜は盆を抱えてぱたぱたと宮の外に出掛けていった…
「だぁ〜〜〜〜〜〜っ!!! やっと終わった〜〜〜〜〜っ!!」
桜姫がぽんの生地を練っていた正にその時、赤也は弦にしごかれまくりつつ、何とかかんとか目的の窯を造り上げていた。
造ると言っても普通の人間では数日をかけてじっくりと作成してゆくものであり、こんな半日作業で行うとなれば、その労力たるや相当のものだ。
まぁ人間なら組む為の石一つ切り出すのも大作業だが、弦にかかれば岩山の前、一閃で見事な立方体が太刀から生み出されるのだから、かなり助かっている部分はある。
しかし、組み上げたりするのは結局自分達の力に頼らざるを得ず、赤也は随分と己の肉体を酷使して、作業に当たっていたのだった。
「たわけが。その程度で根を上げるとは、日々たるんどる証拠だ」
「妖になったからって、全員が弦主みたいになる訳ないでしょーがーっ!! おりゃあ、妖になる前は只の人間だったんすから一緒にしないで下さいよ!!」
「言いたい事があるなら、はっきり言ってくれて構わんぞ」
ぎろっと睨む弦は、普段と変わらぬ装束で、太刀を片手に涼やかな顔をしていたが、赤也の方はと言うと、最早労働により生じる身体の熱気に耐え切れず上半身は諸肌を晒して大の字で寝転がり、その半身にも顔にも多量の汗を浮かべていた。
こうして見ると、弦が一方的に楽をして赤也をこき使っていた様にも見えるのだが、実は二人の仕事量はさして変わりない…如何に弦という存在が人智を超えた力を持っているかがよく分かる。
そんな処に…
「弦様、赤也様?」
何も知らない娘が、盆を抱えてやってきた…途端、
「きゃ―――――――――――っ!!」
「ん?」
悲鳴を上げつつ背を向けてしまった娘に淡白な反応を返す赤也を、弦が頭を殴ってきつく戒める。
「服を着んか〜〜〜っ!!」
当然だ。
この時代、花も恥らう様な年頃の姫ともなれば、殿方の肌を見るような機会など、それなりの場でなければある訳もないのだ。
「いでででで…」
「すまんな姫、何分、無頓着な奴だから女子に対する振る舞いに欠けるところがある」
(あんたに言われたくありませんが…)
せめて心の中で反抗した後で、赤也は改めて桜に振り向いた。
「聞いたぜ姫、この窯、あんたが欲しがったんだってな。何だよ、壷でも焼きたいのか?」
「い、いえ…そういう訳では」
まだ動悸を覚えていた桜がようやく相手を振り返り、手にしていた盆の中身を見せながら説明した。
「あの…ぽんを焼くのに窯が必要ということで…あら」
途中、ふいと視線を動かすと、その先に人が裕に入れそうな程の入り口を構えた見事な石造りの窯が誂えられていた。
赤土などを使う古来の窯の造り方もあるが、流石、蓮の指導だと見たこともない西洋式の窯ですら、それなりの形に仕上がってしまう。
しかもこの大きさ、ぽんどころか、本当に壷や皿も中に並べることが出来そうだ。
「も、もう出来たんですか!?」
「継ぎ目が乾けばな…出来具合を見に来たのか?」
驚く姫に対してさらりと答える弦は、別に大仕事という意識もないらしい。
その脇で、赤也が桜の手にした盆の中身を見て首を傾げている。
「ぽん?…って何だよ。これって食い物?」
「そうみたいです、まだ途中なんですけど…悉伽羅様の国の食べ物なんですよ」
にこりと笑う姫に、赤也はくんくんと生地の臭いを嗅ぎつつ更に首の角度を深めた。
「へぇー、で、窯が要ると…何か面倒臭そうだな〜」
「あら、お米を炊くのにも、竈は要るじゃないですか」
「そりゃそうだけど…」
「とにかく、これを暖かい処に置いたら膨らむんだそうです。日当たりのいい此処に置かせてもらおうかと」
「構わん。継ぎ目がある程度乾いたところで蓮に出来を見て貰おうと思っていたところだ。確認してもらう間に時間も過ぎるだろう」
弦の一言もあり、それから生地を発酵させている間、彼らは蓮を呼び、窯の出来具合を改めて確認してもらう事になった。
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