「っ!!…え…」
 思わず跳ね起きる。
 確かに女性の声ではあるけど…やけに声変わりしていないか?
 既に別人だという認識もあったものの、ついそんな事を考えて一時的な現実逃避を計った仁王だったが、ずっとそのままボケ通す訳にもいかない。
 相手の声から、彼は頭の中で物凄い回転速度でその正体について検討した。
 自分を仁王と呼び、桜乃の携帯に出られる立場の、やや年齢が高めの女性…となれば、選択肢は自然と一つに絞られる。
 そして決定打として、自分はその人の声を過去にも聞いた記憶があった。
「…竜崎先生?」
『ああ、そうだよ』
 確認に呼びかけた言葉に、向こうはすぐに応じた…やけに沈んだ重い声で…
(な、何で桜乃の携帯から竜崎先生が俺に掛けてくるんじゃ…!?)
 正体は分かったが、それだけでは何ら問題の解決には至らない…どうして桜乃の祖母である彼女から自分の携帯に連絡が入ったのか、という問題が。
 一瞬、二人の関係を責められるのでは、とも考えたが、それもおかしな話。
 と言うのも、自分と桜乃が付き合っているという事実は既に向こうの家族にも知られているからだ。
 流石に一家が揃ったその前で正式に挨拶をしたという訳ではないが、デートで彼女の家に迎えに行った事もあるし、そういう雰囲気だという事は向こうも理解していただろうし、別にそれで非難された覚えも無い。
(ちゅーはしとるが、それ以上は手ぇ出しとらんし〜…まぁバラすコトもないが、それで責められたらちょっと辛いの…)
 キスさえも止められてしまったらかなり欲求不満で苦しむことになるだろうな…と少々邪な考えを抱きながら、仁王は相手に当たり障りない質問をした。
「俺に何か?……桜乃さんは?」
 本人には恋人として名前をそのまま呼んでいるが、彼女の祖母を前に呼び捨てにするのは失礼かと、『さん』をつける形で仁王が尋ねると、向こうは暫しの沈黙の後で聞こえるか聞こえないかというぐらいの小声で返してきた。
 いつもの溌剌とした態度だった女傑からは、想像も出来ない小さく力ない声だった。
『…今、病院で検査を受けているよ』
「………え?」
 何だ、それは…
 病院? 検査?
 一瞬、仁王の脳裏に浮かんだのは、彼の所属するテニス部部長の姿だった。
 自分の周囲でそういう単語に最も馴染み深い存在だったから連想的に思い浮かんだのだが、それと同時に『難病』という嫌な単語も思い浮かび、仁王は胸に不吉なざわめきが起こるのを感じた。
 いや、違う…部長と桜乃は…別人だ、そうそう同じ病があってたまるか。
 今日だって…数時間前までは自分と一緒にあんなに笑っていたのに。
 それでも彼女が今病院にいるという事実は動かしようのないものであり、病という可能性を打ち消すと、今度は『事故』というまた嫌な単語が浮かんできた。
「まさか、何かの事故に巻き込まれて…?」
『いや、交通事故とかそういうのじゃない…ああでも、事故と言えば事故かもしれないね。帰りのホームでラッシュの人混みに巻き込まれて、階段から落ちてしまったみたいなんだよ…駅員さんの話だとね』
「!…じゃあ怪我を!?」
 だから、病院で検査をしているという意味だったのか…!?
 腰を浮かしかけ、病院の場所も知らないにも関わらずその場に赴こうと気が逸った若者に、再び向こうから断りの言葉が聞こえてきた。
『身体の方の怪我は、軽い打撲程度で済んでいるよ…それそのものはすぐに治るだろうが…』
 そこで一度言葉を切り、向こうの教師はまるで仁王を試すようにゆっくりと言った。
『…仁王、落ち着いて聞いておくれよ』
「…え?」
『さっきあの子に会って話してきたけど……桜乃のね、記憶がないんだ』
「……!」
『何もかも忘れている…アタシの事も家族の事も、自分の名前すらも、何も覚えてないんだよ』



「よう、元気か?」
「あ…仁王、さん?」
 あの無情の宣告を受けた日から一週間後、仁王は桜乃が入院している病院に足を運び、彼女を見舞っていた。
 親兄弟の事は忘れても愛しい恋人の事だけは覚えていたなどというのは、今時流行らないラブロマンスだ、現実とは違う。
 その現実のままに桜乃も例外には嵌らず、仁王の事も仁王と自分の関係も、全てを忘れてしまっていた。
 それでも、自分はまだついていた方だ、と仁王は思う。
 もし彼女の記憶が失われているという事実を知らないままに再会していたら…自分はどんな醜態を晒していたかと思うとぞっとする。
 例え知らなかったとしても、そんな相手の動揺した姿は少なからず彼女の心を不安の淵に追い込んでしまっていただろう、ただでさえ苦しんでいるだろう心を。
 だから…良かった。
 良かったという言い方はおかしいが、少なくとも桜乃が死んだ訳ではなく、身体そのものも健康なのだ、記憶もいつかは元に戻るかもしれない。
 ささやかな希望であっても、ないよりは余程ましだ。
(こんな時に、俺の得意技が役立つとはな…皮肉なもんじゃよ)
 最も心を許していた相手に、今は欺瞞の笑顔を浮かべてただの『知己』を装っているとは…妙な気分だ。
「どうぞ、お掛けになって下さい」
「ああ、すまん……うん、顔色は良さそうじゃな」
 今は他の誰も来ていない閑散とした病室で、桜乃は仁王に近くの椅子を勧めた。
 パジャマ姿で一つ編みの桜乃も最近ようやく見慣れてきたが、とても得をしたとは思えない心境で、若者は相手に勧められるままに腰を下ろす。
「どうだ、よく眠れるか?」
「…正直言うと、寝られない事もあります。これからどうなるのか考えちゃうと、不安で…自分の名前とか仁王さんの名前とか、覚えられはするんですけど、それは『思い出した』ものじゃないし…この間来て下さったご友人の方々も、結局最後まで思い出せなくて…」
「ああ…あいつらか」
 桜乃の記憶喪失の話は、仁王から立海のレギュラーメンバーにも伝えられた。
 以前より、仁王だけではなく他の立海レギュラーメンバーとも非常に懇意にしていた娘だったので、今回のアクシデントについて教えない訳にもいかなかったのだ。
 当然、彼らの驚きぶりも相当なものだった。
 部長の呼びかけもあり先日全員揃ってここを訪れたのだが、桜乃の記憶が彼らによって甦ることもなかった。
 『何だか、ヘンな感じだ…おさげちゃんなのに、中身は違う人みたいで…でも、おさげちゃんなんだよな』
 丸井の言葉は確かに的を得ている。
 目の前の女性は紛れもなく竜崎桜乃だ。
 記憶を失っても、ふとした時に浮かべる表情や、さり気ない仕草の中に見える癖…その全てが彼女本人だという事を示している…のに、相対している彼女は、自分の知る彼女ではない。
 『雅治さん』ではなく、『仁王さん』になってしまった…初めて出会った時に時計が巻き戻されてしまった。
 恋人として仲睦まじく語らっていた日々も、その日々に至るまでに重ねてきた出会いも…全てが綺麗に跡形もなく精算されてしまった様な…そんな空しさが胸を過ぎる。
 しかしそれをおくびにも出さずに、仁王は桜乃の前で座って笑っていた。
 何もかも忘れてしまった桜乃には、今は自身の事だけで手一杯だろう。
 そんな時に目の前の男が恋人だっただの何だのと、余計な雑音を入れて混乱させる事など出来ない。
 自分は何も変わっていない、変わらず彼女を誰より好いている、大事に想っている。
 なのに彼女は過去を全てゼロにして、ようやく最近、また自分の名前を覚えて呼んでくれる様になったけど…立ち位置は大きく隔たってしまっていた。
 正直言うと、今の桜乃に会うのは辛い。
 しかし、会わないという選択肢は…それ以上に仁王を苦しめた。
「気にせんでもええよ。あいつらもお前さんの事情は知っとる…焦らずに果報を待てって言われとったじゃろ?」
「焦らずに…ですか…ちょっと難しいかな」
 苦笑を浮かべてそう答える桜乃は、ぎゅ、と膝の上で両手を組んだ。
「思い出そうと思ったら、思い出せる気がするのに…そうしているとどんどん頭が痛くなってきて、我慢出来なくなっちゃって…結局諦めてしまうんです。痛みの向こうに欲しいものがあるのに…私が我慢出来ない所為で、いつまでたっても辿り着けない…」
「痛みか……辛いの」
「酷くもどかしくて…やっぱり焦っちゃうんです」
「…そうか」
 思い出してくれ…!
 そう叫びたい気持ちを必死に抑えて、仁王はその代わりに左手を伸ばすと、さわ、と相手の頭を優しく撫でる。
「…!」
「よしよし…あまり気を張るなよ、疲れるからの」
「は、はい…」
「……」
 ああ、やっぱり同じだ…そうやって俯いて頬を染めて伏目がちになりながら答えを返す姿…昔の、出会ったばかりのお前と。
 こうやって、何度も何度も通った道を再びなぞっていくようにお前と接していたら、またお前と一緒に歩く日が来るだろうか…あの笑顔を向けてくれるだろうか…?
 もしそうだとして、俺は…
(過去のお前さんを忘れて、心から笑える日は来るんじゃろうか…?)
 こんな複雑な心を抱えたまま…ずっと、詐欺を繰り返さなければいけないのか…お前に…






前へ
仁王リクエスト編トップへ
後編へ
サイトトップへ