「俺は、これまで沢山の他国のお姫様達に会って来たけど、君みたいないい子は一人もいなかった。立場とか身分で人を語ることの無意味さを、何よりそれが証明している…」
「〜〜〜〜」
「君も、それに振り回される様な人間じゃない事は分かっている。なら後は、君の気持ちだけだよ」
「わ…たしは…」
優しい幸村皇子の眼差しに、全ての心の内を見透かされそうになり、桜乃は思わず赤くなった顔を俯けてしまいました。
そうです。
実は桜乃も、本当は幸村皇子の事が好きになっていました。
身分に関わらず、分け隔てなく下々の者達と語ることが出来る皇子を、人として尊敬し、優しく慈しんでくれる皇子を、女性として好きになっていました。
しかしやはり、二人を隔てる身分の壁は、娘にとっては非常に高く厚いものだったのです。
自分の好意を伝えるなど、あってはならない、してはならない。
だからこそ、桜乃はずっと想いを隠していたのでした。
「ゆ、幸村皇子…?」
一歩を引いた間に二歩踏み込まれ、桜乃は片腕を取られ、腰を抱かれ、まるでダンスに誘われた様に身を重ねます。
皇子は、細い身体でありながら、力強く少女の身体を離そうとはしませんでした。
「桜乃…」
「あ…っ」
高貴な者に相応しい、紳士的な口付けを桜乃の額に与え、幸村皇子は瞬く間に見えない鎖で桜乃の身体を縛りました…が、
リ―――――ン…
「っ!!」
「…」
部屋に響いた清楚な鈴の音に、鎖はあっけなく砕け散り、同時に桜乃の意識を現実へと引き戻しました。
ほんの一瞬、緩んだ皇子の腕からするりと逃れ、少しだけ離れた場所で桜乃は羞恥に身を震わせながら背中を向けます。
「……」
「お…お客様が…」
恥らう乙女の声に背を押され、仕方なく皇子が扉へと向かいそれを僅かに開くと、向こうにはいつもの様に厚い本を抱えた柳が立っていました。
「!? 柳…?」
「皇子、今から会議室に来て頂けるか」
「会議室…?」
そんな予定はなかった筈だけど…と眉を顰めた相手に、大臣はすぐにその目的を述べました。
「辺境に嫌な動きがあって、柳生の隊の者から報告が入ったので、連絡したいと」
「魔女の…? そうか」
自分は出会ったことはありませんでしたが、魔女の悪行の数々と彼女の実力はよく聞かされています。
魔女に対する何らかの対策を立てることは必要であり、その場に自分と言う立場が並ぶべきだとも理解した皇子は、仕方がないと瞳を伏せました。
「…分かった」
先に大臣を会議室に行かせると、幸村皇子はまだ背中を向けたままの桜乃に近づき、そっと肩に手を乗せました。
「っ!…」
「ごめん…行かないと」
「……はい」
「桜乃」
「は、はい?」
「俺は…本気だよ」
「!!」
ただ短い言葉で己の真実を語り、皇子は名残惜しそうに彼女の肩から手を離すと、ゆっくりと部屋から出て行きました。
そして、後には、幸せの中に在って途方に暮れた様な桜乃一人が残されたのです……
「皇子、〇□王国の姫より、『貴方の好みの顔の女性を教えて欲しい』とお手紙が」
「…桜乃みたいに可愛い子」
「■×王国の姫より、『貴方の好みの性格の女性を教えて欲しい』とお手紙が」
「…桜乃みたいに優しい子」
「…『貴方の理想の女性を教えてほしい』とお手紙が」
「…桜乃」
「……」
「……」
「……」
「終わり?」
「一応お聞きになってはいたんですね」
翌日も幸村皇子は自身の執務机の前に座って仕事をこなしながら、その脇で個人宛に届けられた手紙の返信を口述で行っていました。
来た手紙を読み上げているのは、柳生です。
「個人の意志は保証されておりますが、そのまま書いたらヒスを起こした姫君達が、トドの様に海を渡って来るでしょうね」
「ちょっと見てみたい気もする」
柳生の予想にそう返しながら幸村はかりかりかり…と書類にペンを走らせていましたが、一段落ついたところで手を止め、肩から力を抜きました。
「ああ、まだこんな時間? 早く昼を過ぎないかな…」
「また桜乃の処に行くんですか?」
「うん」
迷いもせず、隠しもせずに答える姿には、何もやましい事などないという自信が伺えます。
「あれはとてもいい子だよ」
「ええ、知っています。貴方がどれだけあの娘の事を気にかけているかという事も」
「当然だよ…気位の高い姫君を相手にするぐらいなら、彼女と話していた方が余程ましさ」
「……ご忠告申し上げましょう、皇子」
言い切った皇子の台詞に何か思うところがあったのか、珍しく柳生が眉をひそめ、苦言を呈しました。
「あの子が大変良く出来た子であることは知っています。ジャッカル達に預けた手前、皇帝もあの娘の事を気に掛けていらっしゃる様ですが、今まで一度も彼女について文句を仰ったことなどありません」
「当然だね」
「しかし、あまりに身分が違いすぎます」
「…」
本当は、皇子と桜乃の恋を応援したい柳生ではありましたが、彼には騎士団長という立場もありました。
だから、表立って二人の仲を応援するという事は出来なかったのです。
「これまで多くの姫君の求婚を断った挙句に、娶った相手が野良仕事専属の小娘だと知れたら、近隣の国々には戦争を始める格好の理由となるでしょう…勿論、名目は『こちらの娘を下民にも劣ると愚弄された』ということで」
「だって劣ってるんだもん」
「まぁそれを口に出さずに堪えていらっしゃる事は有り難いのですが」
もしこの皇子が本音を言い続けていたのなら、始まる戦争も十や二十じゃきかなかっただろうと、そこは柳生も感謝していました。
「身内の召使達のやっかみ程度であれば、気にする事もありますまい…しかしそれなりに力を持つ隣国相手ともなればそうもいきません。皇子、この問題には皇国の民の運命が委ねられている事をお忘れなきよう」
「………」
柳生の言葉を静かに、真摯な表情で受け止めていた幸村皇子でしたが、その顔を徐に相手に向けて、彼は一言尋ねました。
「柳生、皇子やる気ない?」
「真面目に聞いて下さっているかと思えばそーゆー事を仰いますか」
いい加減にして下さい、と柳生は勿論突っぱねますが、皇子も負けてはいません。
「本当に好きな人と一緒になれないなら、俺は皇子の位なんか要らない」
「皇子…」
持っていたペンを放り出し、皇子はふぅと息を吐きながら両腕を机の上に乗せて、更にその上に顎を乗せました。
「…俺が好きなのは桜乃だけ」
「………下世話な話になりますが、妾にするという手も」
「絶対嫌」
「でしょうね、失敬」
皇帝もこの皇子も、そういう所は一本気ですからね…と思いつつ、本当に困ったものです、と小さく柳生が呟いた時でした。
とんとん…
ノックが聞こえ、二人がそちらへと目を向けると、それが開かれた先に柳が立っていました。
「柳?」
「皇子、宜しいか。至急、皇帝が玉座の間に来るようにとの仰せなのだが」
「父上が?」
呼ばれる事はよくある事ですが、至急、という一言がやけに気に掛かりました。
それ程急ぎの用件があるという事なのでしょうが…正直、思い当たる節がありません。
「…分かった、すぐに行くよ」
何かは分かりませんが、行かない訳にもいきません。
幸村皇子は大臣にそう言うと、その場の話は一時中断として、言われた通り、玉座の間に向かいました。
「父上、失礼します」
『皇子か、入れ』
その大きな扉を開き、玉座の間に入った皇子は、皇帝が一本の杖を手に玉座に座している姿を見て驚きました。
勿論、玉座は普段、皇帝がそこに座す場所なのですが、皇子が目を向けたのはそこではなく、相手の手にしている杖です。
それは普段は彼の手に持たれるものではなく、堅牢な宝物庫に収められている、国宝級の代物でした。
只の宝というものではなく、皇帝の位を継承するに際して必ず用いられる、権力の移譲の象徴となる物です。
それが、今、相手の手の中にある。
どういう事なのか分からないまま、皇子は数歩部屋の中に足を踏み入れ、皇帝と正面から向き合いました。
「お呼びですか、父上」
「うむ…急ではあるが、お前に言っておきたいことがあってな…」
「? はい」
「…此の度、俺はお前に皇位を譲ろうと思う」
それは国に関わる一大事であった筈なのですが…
「要りません」
「それでは話が続かんだろうが!!」
電光石火の速さで皇子は断り、断られた皇帝はぐわっと怒りの形相で相手に答えました。
その間、一秒足らず。
皇子の返事を半ば予想していたというかの様に、真田皇帝はふぅと苦悩の表情で息をつきます。
「お前が何と言おうともう決めた事だ。既にお前の全ての能力は俺を凌駕している…国民もこの決定には何の疑問も持つまい、それに…」
一度台詞を切り、皇帝は何を思ってか、背中を向けたままぼそりと付け加えました。
「…皇位が動くとなれば、それは国の一大事。他国もその後の数年間は、こちらに婚姻の勧めをすることも控えるだろう。下準備の期間としてはそれでも短いやもしれんが…お前なら何とか出来る筈だな」
「!」
皇帝の隠された真意を察した皇子が、はっと相手を見上げましたが、向こうは背中を向けたままです。
数年間…その時間があれば、何とか桜乃をそれらしい形で娶ることが出来るかもしれません。
何処かの貴族の養女として預けるもよし、いっそ籍を移すことも考えるなりして、他国に示しがつくように桜乃の立場を整えてやればいいのです。
皇位が移る時、少なからず国は揺れます。
しかし、それを逆手に取り、他国からの干渉を防ぐことが出来れば…自分が皇帝となる代償に、彼女を自分の最も近い場所に置くことが出来るかも…
「父上…」
一度は断った皇位でしたが、改めてそれについて前向きに考えようかと思った皇子は、ふと、湧いた疑問をそのまま父親にぶつけました。
「俺が皇位を継いだら、父上はどうなさるおつもりですか? 隠居なさるにはまだお早いと」
「うむ…まぁ色々と考えてな…」
振られた皇帝は、何処となく楽しそうな表情を浮かべて彼の思惑を語ります。
「この位に就いている間は到底叶わぬ夢だったが、剣一本携えて気ままに流れ旅でもやってみようかと…」
「もしかして、それが一番の目的なんじゃないでしょうね…」
感動したのは少し早まったかも…と思いつつ、皇子がそんなツッコミをしたその時でした。
『おや、皇位を譲るのかい、皇帝』
「!」
「!?」
しわがれて、耳障りな老女の声が、何処からともなく響いてきたのです。
それは、隣で喋られているようであり、また、何処か別の部屋から流れ聞こえている様な、そんな不思議な感覚でした。
しかし不思議と思う以上に、皇帝と皇子は共に危機感に全身に緊張を走らせ、辺りの気配を伺いました。
老女と言えば、普通は力もない、弱弱しい姿を想像するものですが、今、二人の脳裏に浮かんだイメージは、到底それとはかけ離れたものだったのです。
『そんな未熟な皇子に皇位を譲るくらいなら、アタシにおくれでないかい?』
「魔女か!? 何処にいる!」
怒鳴る皇帝の声に被さる様に、魔女と呼ばれた老女の嘲りの声がまた響きました。
『そっちがくれなくてもこっちが勝手に貰っていくよ、ちゃんとお代も払うから受け取っとくれ、そうら…』
「…っ!!」
ぴり…っ!
向こうの声が終わる間際、幸村皇子がぴくんと右腕を揺らし、そちらを見ました。
シャツから覗いた肌の産毛が、寒くもないのに逆立ち、ぴりぴりと痛みを訴えていたのです。
その時、彼は思い出していました、過去に城に招かれた旅芸人から聞いた話を。
『そりゃあ皇子様、旅は気ままなもんですが、それなりに苦労ってのもありまさぁ。この国に来るまでにも俺ら、数え切れない程に海や山を渡って参りました。この国も見事な山脈をお持ちだが、この季節の山は恐いもんです。ちょいと行きゃあ雨が降り、ちょいと休みゃあ雷が落ちる。雷が落ちる前に、こう、びりびりーっと肌が痺れて、毛が逆立っちまうのを見たら、雷が落ちるのか、それとも自分がびびっちまってるのか、てんで分かりゃしねぇ。へへ、まぁそれぐらい肝が小さくて用心深いから、今まで生きてこれたのかもしれやせんがね…』
脳裏に浮かんだ記憶と、今の己の身体が示したメッセージを読み解いた瞬間、幸村は天を振り仰ぎました。
いつもは閉ざされている筈の天蓋が開かれており、それを見た彼は確信を持って皇帝の傍に走り寄ります。
「父上!!」
その間にも彼の視線は頭上の天へと向けられていましたが、皇帝のすぐ傍に来た瞬間、幸村の瞳は天に走った一陣の光で一瞬、眩まされてしまいました。
「…っ」
しかし、何とか彼は間に合ったのです。
あの光が自分達へと襲い掛かってくる間際、刹那の隙を突く形で、皇子は眩んだ目でも既に傍にいた皇帝の身体を突き飛ばす事が出来たのですから。
「うっ…!? ゆきむ…」
皇帝が相手を呼びきる前に、遂に光の剣がその場に激しく突き立てられました。
その直下には…皇帝ではなく皇子がいたのです。
「!!」
悲鳴を上げなかったのはせめてもの誇りか、それとも、叶わないことだったのか。
目の前で皇子が倒れる様を見つめるしかなかった皇帝でしたが、彼もまた、行動を起こすこともなく倒れようとしていました。
突き飛ばされ多少の距離は開いたものの、光の剣は鋭く強く皇子を貫いた後、そのまま蛇が這うように床を走り、皇帝を襲ったのです。
「くそ…っ!!」
このまま一矢も報いずにしてやられるは、皇家の名折れ!!
薄れゆく意識の中で真田皇帝は怒りと屈辱で必死に意識を繋ぎとめ、直立を保っていましたが、そんな彼の前に前触れもなくフードに身を覆った人物が現れました。
最早、疑いようもありません…その肌から覗く皺だらけの皮膚、老いた分育った狡猾さを秘めたぎらつく瞳の光、嘲笑する赤い口…魔女でした。
おそらくは、自分の手にしている杖を狙って現れたのでしょう。
皇子も倒れ、皇帝も雷に打たれて手も足も出ないだろうと向こうは油断していた様ですが、それを察した真田皇帝は神に感謝しました。
彼は確かにもう気を失いつつありましたが…全く動けない訳ではなかったのです。
「おのれ…!!」
杖を奪われようとした瞬間、彼は腰に携えていた剣を掴み、引き抜くと同時に魔女に向かって切りつけました。
確かな手ごたえと同時に、辺りに物凄い悲鳴が響き渡ります。
魔女の痛みと怒りに同調する様に、辺りに小さな雷が幾つも落ちました。
そして、先程の雷と、今の魔女の悲鳴を聞き付けた騎士団長が、慌ててその場に踏み込んだ時、彼は、倒れている皇子と皇帝、そして、フードを己の血で染めながらも目的の杖を手にした、恐ろしい形相の魔女を見たのです。
皇帝の腕は確かでした、しかし…やはり、雷に打たれた身体では、いつもの力を出し切ることは出来なかったのです。
「皇帝!! 皇子!!」
殆ど反射神経のみで剣を抜いた団長でしたが、彼はそれを振るう事はありませんでした。
一陣の風が巻き起こったかと思うと、それは団長の目を塞ぎ、魔女はその風に乗ってその場から消えてしまったのですから。
『いいかい! よくお聞き!! これから一週間に一人ずつ、アタシの城に若い娘を連れておいで! 皇帝から受けた傷の代償に、生娘の若い心臓を頂こうじゃないか! もし従わない場合は、アタシの力とこの杖を使って、国を海に沈めてやるよ!!』
「…!!」
皇帝と皇子に駆け寄った騎士団長は、魔女の伝言を耳に刻み付けるしかありませんでした…
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