意外にも、祖母と共に車で向かったU−17合宿所は都会の中ではなく、自然が豊かな都内に程近い場所にあった。
「…もっと都会にあると思ってた」
「まぁそう思うのが普通だろうけどね。そういう所に施設があれば誘惑も周囲に多いだろう?」
「そっかぁ…」
言われてみたら、中学生も高校生も、年齢的にはまだまだ遊びたい盛りの年頃だ。
近くにカラオケやゲームセンターがあれば、こっそり抜け出して遊びに行ってしまう人間もいるかもしれない。
(…ゲーセンに関して言えば、間違いなく行きたがる人がいるし…)
約一名、思い切り心当たりがある人物を心に思い描いていたところで、それに…と祖母が付け足した。
「都会で脱走して逃げ込まれたら探すのも容易じゃないが、こういう何もないところだとすぐに見つかるからねぇ」
「だっ…脱走前提なの?」
どれだけスパルタなんだろう…と思いつつ、桜乃は車内で改めて持って来た荷物を確認し、最後にポケットに入れていた封筒を検めた。
「何だい? その封筒は」
「うん、久し振りにリョーマ君に会えるなら渡しておきたいのがあって」
「ああ、あの子もギリギリで参加には間に合ったらしいからね…全く、周りを冷や冷やさせるのは相変わらずだよ」
ハンドルを握ってそう愚痴っていた祖母だったが、口調からは楽しんでいる様子だ。
あのスーパールーキーもどうやら合宿所に無事に入れたという話は桜乃も聞いていたが、実際、全国大会が終わってすぐに彼がアメリカに旅立ってしまったので、会ったり話したりということは暫くなかった。
まぁ元々がテニスに夢中な少年なので、そこまで親しくしてもらえている訳でもないのだが。
(でもクラスメートだし、テニスの楽しさを教えてくれた人でもあるもんね…喜んでくれたらいいんだけど…)
そんな事を考えている内に、車はいよいよ合宿所への専用道路へと入り、それから更に走っていったところで、鉄製の頑丈な門に遮られた入り口へと到着した。
「うわぁ…」
暫く自然溢れる景色しか見ていなかった桜乃が、そこに来て感嘆の声を上げた。
凄い!!
最初に心に浮かんだ言葉らしい言葉は、その一言に尽きた。
テニス強豪校で知られる青学も立海も、施設の充実さには定評があったが、ここはそれとは最早次元が違う…正に別世界だ。
「ひろ〜い……コート、何面あるんだろう…」
「噂には聞いていたけど、確かに日本の代表を育てる場所だけあるね」
門の傍にはしっかりと警備員達が常駐しているらしい小さな建物があり、祖母の運転する車は一度その前で止まった。
「お前も一度降りなさい。一般人が入れない場所に入場する以上、手続きはちゃんと取らないといけないからね」
「はぁい」
尤もな話であり、桜乃も特に逆らう理由もないので、素直に下車して施設へ祖母と一緒に向かう。
「こんにちは」
「こんにちは…青春学園の竜崎スミレ先生ですね。連絡は既に受けております…そちらは?」
しっかりとした訓練を受けていると思われる若い警備員が、窓から上半身を乗り出して本人と桜乃を確認した。
どうやら祖母が来訪する件については既にここまで情報が来ているらしい。
「荷物を一緒に運んでもらう為に同伴しました。私の孫です」
「そうですか、結構です。一応来場者は全員、氏名の確認を行っておりますので、こちらに記載をお願いします」
「分かりました」
(うわぁ…確かにセキュリティーは物凄く厳しそう…)
これじゃあ、脱走するのも一苦労だろうなぁ…いや、別にそれを奨励するつもりはないけど…とそんな事を考えながら、桜乃は祖母に続いて来訪者の名簿に続いて名前を記載した。
しかし、元々ここに来る人間そのものが少ないのか、自分達が書く前に記載されていた人の数もかなり少ない。
(…あ、榊監督の名前もある…少し前に来ているみたい)
と言う事は、彼は既に施設の中に入っているのか…
「…中学校の顧問の先生達全員が集まっているんですか?」
素朴な疑問をぶつけてみると、その若い警備員はいえいえと笑顔で応えてくれた。
「今回の見学の件は臨時で決まったもののようなので…詳細はこちらでは分かりかねますが」
「そうですかぁ」
確かに、よく考えたらそういう事を決定するのは警備関係の人たちではなく、この合宿を主催している関係者だ。
ちょっと的外れな質問をしてしまったかも、と思いつつ、桜乃は無事に自分の氏名を書類に書き終えた。
「有難うございます。では中へどうぞ、駐車場はこの先に行けば案内板がありますので誘導に従って下さい」
「分かりました」
スミレが答えて、二人は再び車に乗り込み、中へと移動していった。
コートでは沢山の生徒が練習試合を行っていたが、彼らの纏っているウェアーは見た事がないもので、一種類に統一されており、見知った人間も一人もいない。
「どうやら、あのウェアーは高校生達のもののようだね」
「あ、そうなんだ…やっぱり…」
忙しなく視線を動かして立海の面々を探していた桜乃だったが、ここでは再会を果たせる事はなかった。
それから駐車場へと無事に到着するまで、桜乃は立海はおろか、中学生の面子には誰一人会えないままだった。
もしかしたら、今は彼らは外ではなく、屋内でのトレーニングでもやっているのかもしれない。
「そら、着いたよ」
「うん…凄い建物だね、敷地も凄く広いし…こんな場所があるなんて知らなかった」
駐車場に着いてからも、傍に見える数多くの関連施設が、更に少女を驚かせていた。
予想を大幅に上回る規模の施設が幾つも立ち並んでいる光景は、周囲の自然豊かな景色と絶妙なギャップをもたらしている。
数多くの生徒を寮で管理している以上、これだけの大きさは必要なのかもしれないが…やはり目の当たりにすると自分の様な小市民は圧倒されてしまう。
「竜崎先生」
「っ…」
ぽえ〜っと施設の内の一つの建物を眺めていた桜乃の耳に、心地よい低音の声が聞こえてきた。
自分ではなく、祖母を呼ぶ声…
「ああ、榊監督」
「ご無沙汰しております」
丁度近くの道を歩いていたらしい氷帝のテニス部顧問が、彼女達に気付いたらしく傍に歩いてきて挨拶をする。
相変わらずスーツ姿が決まっている相手は、一見すると何処かの国の貴族の様だ。
「こ、こんにちは、榊監督」
相手のオーラに多少圧されつつも、桜乃はぺこんと礼をした。
「ああ、こんにちは。竜崎桜乃君…だったね」
全くの初対面ではなく、青学のメンバーの世話をしたり日米選抜チームの合宿の時にもボランティアとして働いていた桜乃については、榊も面識があったので丁寧に挨拶を返してくれた。
相手が子供であっても軽んじないところは、流石に出来た大人の対応だ。
「今日はお孫さんもご一緒でしたか」
「ええ、ちょっと届ける荷物もありましたからね…榊監督はここで何を?」
「施設を簡単に見回っていたところです、今後の氷帝の活動に役立つものがあるかと思いましたので…ご都合が宜しければ、今から責任者のコーチの許へ一緒に行こうかと思ったのですが」
「おやそうですか…ううん」
少し困った様に荷物を見遣った祖母に、桜乃が咄嗟に挙手して声を上げた。
「あ、だ、大丈夫だよお祖母ちゃん。荷物は私が運んでおくから、榊先生と一緒に行動しても」
「いいのかい? 一人で運ぶにはちょっと重いけどねぇ」
「分散して運んだら大丈夫だし…終わったら、ちょっと見学してもいい?」
「そりゃ構わないが…くれぐれも邪魔するんじゃないよ」
「うん!」
一人になったら逆に身軽に行動出来るし、その分、探しているメンバーと会える可能性も高くなる!と桜乃は考え、元気良く返事をした。
そして、一時その場で祖母と別れることになった桜乃は、荷物を運ぶ場所を教えてもらってから、榊監督と祖母を見送った。
「いってらっしゃい」
「すまないね、桜乃君。では、失礼するよ」
「あまりちょろちょろするんじゃないよ。また後で携帯で連絡を取るからね」
大人達二人と別れ、桜乃はその場に一人になると、早速任された荷物をよいしょっと抱えてえっちらおっちらと運び始めた。
荷物そのものはダンボール二つしかないが、その一つ一つが結構な重さであり、女性である彼女は一個持つのでやっとだ。
これはさっきも主張した通り、二回に分けて運んでから、お菓子を持って見学に回った方がいいだろうと判断し、桜乃はその計画に従って動き始める。
「えーとえーと…荷物を運ぶのはあの建物の、乾先輩の部屋の前か…うん、目に見えていたら迷うこともないよね……にしても…」
真っ直ぐに歩きたいのに、何故か足元がふらふらとおぼつかない。
いや、理由は分かっている…持っている荷物があまりに重くて重心が上手く定まらないのだ。
「うう、乾先輩、何が入っているんだろうこれ…紙だけでも結構重いからなぁ…」
それでも一度交わした約束なのだし、きっちり果たさないと…!と、一生懸命桜乃はダンボール箱を抱えてふらふらと建物に向かって歩き続ける。
そんな調子で歩いていた少女がまだ十分の一の距離も踏破していないところで、彼女の姿を遠くから認めた一人の少年がいた。
「んん…?」
ラケットを背中に背負い、豹柄のシャツを纏ったその少年は、遠くでよろよろとよろけながら荷物を運ぶ桜乃の姿を見つけ、ぱちくりと大きな瞳を更に見開いた。
「女の子や……どっかで見たことあるなぁ」
いつも大体一緒に行動している先輩であり仲間でもある若者達が傍にいたら、相手の素性についても聞けたかもしれないが、ついていない事には、今の彼は単独行動中。
普段から悩むより先に動くタイプであったその若者は、この場所では先ず見た事がなかった女性の存在に興味を持ち、早速その好奇心のままに相手に向かって走って行った。
「おーい! ねーちゃん、何しとるん? フラフラして、酒でも飲んだんか?」
「え…?」
振り返った桜乃は、相手の姿を見てすぐにその名前を思い出していた。
「あら?…遠山さん」
「へっ…?」
当人は名字を呼ばれてきょとんとしているが、間違いない。
四天宝寺の、越前と並ぶ一年生ルーキー・遠山金太郎だ。
桜乃とも、全国大会の時の会場近くでアクシデントという形ではあったが、出会って言葉も交わしている。
しかしそれでも、向こうは彼女を思いだすまで多少の時間を要した。
「んーと…おお!! おむすびのねーちゃんか!!」
(影が薄いのは一応自覚してはいるんだけど…)
もしかして自分は食べ物よりも存在感が薄いんだろうかと密かに悩みつつも、桜乃は相手に肯定の頷きを返しながら改めて挨拶した。
「お久し振りです、遠山さんも合宿に参加していたんですね」
「おうっ!……けど、ねーちゃんは何しとるんや? ねーちゃんも合宿か?」
「い、いえいえ違いますよ。ちょっと荷物を届けに…」
「ふーん…」
見ている傍から、ふらふらとふらついている桜乃の姿が非常に危なっかしい。
遠山は普段から素行は野生児そのものだが、敢えて人の言いつけを破る様な悪人ではなく、ちゃんと人を思い遣れる懐の深さも兼ね備えている。
そんな彼が、荷物の重さに難儀している知己を見て見ぬ振りをする訳もなく、彼は興味深そうに彼女の持っていた荷物に手を伸ばした。
ひょいっ…
「え…っ?」
「なーんや、どんだけ重いんかと思ったけど、ラクショーやん!」
自分があれだけよろめきながら運んでいたダンボール箱を、軽々と肩に抱えて飛び跳ねている相手を見て、桜乃は大いに驚いた。
身長は自分とそう変わらない、年齢も同じなのに、この身体能力の違いは…
「なぁねーちゃん。これどこに運ぶんや? ワイが運んだる」
「ええ!? で、でも、いいんですか? 合宿の練習は…」
「もうこの時間のは終わってん。ええよ、どうせ暇やし、白石も千歳も遊んでくれへんもん」
何かの練習中であれば邪魔をする訳にはいかなかったが、相手も暇ということであれば、好意に甘えさせてもらってもいいだろうか…
少しばかり悩んだものの、桜乃は結局、その場は相手の申し出を受け入れる事にした。
「す、すみません、遠山さん」
「ええってええって…運ぶんはこんだけ?」
「あ…いえ、もう一つあるんですけど、そっちはまた後で…」
「何や、めんどくさいなぁ…じゃあ一緒に運んだがええやんか。何処?」
「え…?」
それから桜乃は、遠山に急かされるように、一度来た道を元に戻って駐車場へと移動し、そこに残されていたもう一つのダンボール箱を相手に見せた。
二つの箱の大きさは同じもので、重さもさして相違はなかったが、遠山は桜乃から示されたもう片方の箱も、別の肩にひょいっと乗せてしまった。
「わぁ…」
「これで全部やな…そっちのは重くないんか? ねーちゃん」
「はい、これは大丈夫ですから自分で持てます」
結局、桜乃はダンボール箱を相手に持ってもらえたことで、自前のお菓子を詰め込んだビニル袋のみを抱えて移動する形となった。
そして二人は再び、最初の目的地である選手達の寮へと向かう。
「遠山さんは凄いですね、そんなに重い荷物を軽々と」
「そうか? こんなん、何てことないけどなぁ…女の子が力なさすぎるんちゃうん?」
「そこはか弱いと言って頂けると…」
ごにょごにょと小さい声で主張している桜乃の言葉が完全に無視した状態で、足取りも軽い遠山はぶつぶつと愚痴を零し始めた。
「でもなぁ、ここ来たらぎょうさんの奴とテニスの試合出来る思てたんやけど、毎日トレーニングばっかでワイ、つまらんわ」
「試合がない?」
「よう分からんけど、何か禁止されてるんやて。コシマエともまだ勝負できへんし…」
「ふぅん…リョーマ君、元気にしていますか?」
「元気なんちゃうかな…相変わらず逃げ足速いからなぁ」
(それは多分、本当に逃げている訳ではないと…)
面倒事は苦手なあの若者のことだから、上手く避けているだけなんだろうなぁ…と思っている内に、寮の目的地である乾の部屋の前に到着した。
外に掲げられていたネームプレートもしっかりと確認。
「あ、ここですね」
「ん…でも多分今は誰もおれへん思うけど」
「ええ、ここに置いておくように言われてますから」
そうか、と遠山は二つのダンボール箱をどさりとドア脇の通路に重ねて置いた。
これで、桜乃の本来の目的も全て果たせたことになる。
「有難うございました、遠山さん。お陰で助かりました」
「ん〜…なぁ、何か遠山さんって呼ばれるの変な感じやなぁ。金ちゃんでええで?」
先程から桜乃の呼び方に違和感を感じていたらしい少年は、むずむずする気持ちを頭を掻くことで抑えながらそう言った。
「え、そうですか?」
「うん、皆もそう呼んどるし…遠山さんって何か調子狂うんや」
「はぁ…じゃあ、これから気をつけますね…あ、そうだ」
荷物を運んでもらったままでは申し訳ないと、桜乃はごそ…とお菓子の入った袋の中を探り、にゅっと一本の大きなロールケーキを取り出した。
勿論形が崩れないように、綺麗にラップで包装されている。
「手伝って下さった御礼に、宜しければどうぞ。甘いのはお好きですか?」
「!!」
それを差し出された少年は極限まで目を見開き、瞳孔も開いた状態でうるうると瞳まで潤ませた。
「ええの!?」
「はい」
「おーきにーっ!! うわーっ! 久し振りの甘いモンやーっ!!」
そのロールケーキを受け取った遠山は、大喜びで飛び跳ね、喜んでいる。
(久し振りって…あ、そうか、ここはコンビニとかもなさそうだもんね…)
そういう面ではちょっと不便なのかも、と思ったところで、桜乃は立海の面々を思い出した。
そうだ。
もうこれで自分の義務は済ませたから、後は立海のメンバー達の処に行ってみよう…簡単に買い物も出来ないこんな場所なら、きっとあの赤い髪の若者達は甘い物に飢えているに違いない…
(…じゃあ、遠山…金ちゃんに皆さんがいる場所を…)
聞いてから行こうかな、と思いつつ、桜乃が相手の方へと振り返ってみると…
「あの…」
「わーいっ!! 白石達に自慢したろーっ!! ホンマにおおきにな、ロールケーキのねーちゃんっ!!」
声を掛ける暇もなく、相手はびゅーっと風の様にその場を走り去ってしまっていた…
「……」
あの速さに追い付ける人間は、この合宿所内でもそう数はいないだろう…呼んでも、歓喜しているあの子の耳に、それが届くかどうかも怪しいところだ。
周囲には他に誰もおらず桜乃一人だけがぽつねんと残されてしまい、彼女は暫し呆然としていたが、仕方がないと気を取り直した。
「ん〜…皆さんの居場所だけでも聞きたかったんだけど……それと、食べ物の名前付けて呼ぶの、止めてくれないかなぁ…」
そこは自分も先に主張しておくべきだった…今度はちゃんと自己紹介して、呼び名を改めてもらおう、と心に誓いながら、桜乃はいよいよ立海の面子を探すべく、とことこと探索へと出掛けていったのである…
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