「ま、窓が喋った…」
驚く桜乃に、向こうはうっすらと浮かぶ顔に満面の笑みを浮かべています。
『ああもう本当に酷い毎日だったわ。あの魔女ったら掃除一つもしてくれなくて、お陰で透ける様に美しい私の顔も酷い有様、息をするのもやっとだったんだから…! 最初、ここにたまに連れて来られた人間達もただ泣き喚くばかりで、お陰で只でさえ小さくしか出せなかった私の声なんか届きもしなかったから、もう最近は声を出すのも諦めていたの…でもお嬢さんはそんな声がなくても私を元の美しさに戻してくれたわ、本当に有難う!』
あまりに嬉しかったのか少々お喋りが過ぎる窓でしたが、桜乃はそんな相手の言葉を最後まで聞いてあげると、一つの質問をしてみました。
「お役に立てて良かった…あの、一つ聞きたいんですけど、魔女が最近ここに杖を持ってきていませんでしたか? 私、それが欲しいんです」
『杖? お安い御用よ。何しろここは退屈だから、誰かが来たらそれを埃に邪魔されながらでも見ているしか暇潰しがないの。こないだ魔女がやけにうきうきした様子で、一本の立派な杖を持って来て、あの箱に入れていたわ。ほら、右から五つ目、上から四つ目の赤い箱よ』
「有難う!!」
一つの活路を見出した桜乃は、窓にお礼を言うとすぐに言われた長方形の箱の傍に駆け寄り、それを開きました。
中にあったのは見事な装飾が施された一本の杖。
見るとその頂に埋め込まれた宝玉には、確かに皇族の印が刻まれていました。
「良かった…これを急いで持っていかなきゃ…!」
後は何とか城の外に逃げないと…と桜乃は杖を抱えて入ってきた扉へと近づき、取っ手に手を掛けました…が、開きません。
(あ…鍵が掛けられちゃってる…!)
ようやく一つの光明が見えたのに…と少女が失望に囚われようとしていた時、窓とは別の声がまた聞こえてきました…目の前の扉から。
『俺も綺麗にしてくれたら開けてやってもいいぜ』
「え…っ」
見ると、左右の扉のそれぞれにぎょろりと大きな目が浮かび、中央に鼻と口らしきものが見えたかと思うと、それらが一斉に生き物の様に動き出したのです。
『あの魔女の奴、元々はすげぇ豪華だった俺の身体を手垢だらけにしやがって、それなのに全然手入れもしようとしねぇんだ! これからもこんな人生が続くのかとうんざりしてたけど、もしあんたがあの窓の奴みたいにもう一度俺を元の姿に戻してくれたら、お礼にここから逃がしてやるよ』
「ほんと!? それならお安い御用です!」
そして桜乃は、扉の言う通りに再びあの雑巾を取り出して、一生懸命心を込めて磨き始めました。
『ああ、すっきりする! こんなに清清しい気持ちになるのは何年ぶりだろう!!』
扉が嬉しそうに言葉を零す通り、最初は黒鋼で出来ていると思われていたそれは、雑巾で磨くと輝く白銀のそれへと変わっていきました。
そして裏が終わると今度は扉を開いてもらって表に回り、そこも隅々まで綺麗に輝きを取り戻したところで、扉は満足して桜乃に礼を言いました。
『いやぁ、満足だ。有難うよお嬢さん、あんたはちゃんと約束を守って表に出ても逃げたりしなかった。さぁ、早く行くんだ。あんたが行った後はまたここを閉ざして鍵を掛けよう。俺がしらばっくれたら少しの時間は魔女を引き止められる筈だ』
「はい、有難うございます!」
にこりと笑って桜乃が杖を抱えて部屋から逃げ出した後、ぴかぴかに磨かれた扉は再び自身で固く閉ざされ、がちゃっと重い音をたてて施錠されたのでした。
何とか魔女が来る前に逃げ出す事に成功した桜乃は、意外な目印を見つけてそれを頼りに一目散に門へと向かいました。
その目印というのは、意外にも、自分が残してきた足跡でした。
不思議なことに、履いていた靴が床を踏む度にくっきりとした小麦粉の足跡が残されており、それはどんなに歩を進めても薄れたり消えたりする事はなかったのです。
あの魔導師が『ご褒美』と言ってこっそりかけてくれた魔法のお陰でした。
(良かった! このままこれを辿っていけば、いずれは城の外へと通じる…!)
息が切れても、苦しくなっても、桜乃は決して手にしていた杖を離すことなく、必死に門の方へと走って行ったのです。
一方、そんな事になっているとは知らない魔女は、自分の部屋で桜乃を美味しく料理する準備を整えると、ゆっくりと桜乃を閉じ込めていたあの宝物庫に向かいました。
桜乃が出て行ってから一時間近くは経っていたでしょうか。
最初こそのんびりと余裕をもって歩いていた魔女でしたが、そこの扉を見て彼女は仰天しました。
あんなに黒かった扉が、ぴかぴか、きらきらと誇らしげに眩い輝きを放っていたからです。
魔女の目には眩しすぎるその輝きを手で必死に遮りながら、彼女はヒステリックな声で喚きました。
「どうしたことだい!! 何でそんなにきらきらと余計な光を放ってんだい!! アタシにゃ眩しすぎるよ、一体誰がこんな事を仕出かしたんだ!!」
言われた扉は、うんざりといった様子で再び瞳を開き、鼻と唇も浮き上がらせておっくうそうに答えました。
『さぁ、存じませんねぇ…何しろさっきまで、埃と汚れに塗れていた自分が嫌で嫌で俺は寝てばっかりだったんですから。そうしてくれていたのは他でもない俺の主人の貴女で、俺をまた元の綺麗な姿に戻してくれた人間は紛れもない恩人です、聞かれても答えたくはありませんねぇ』
その返事に、魔女は更に怒りながら開錠の呪文を唱えて扉を無理やりにこじ開け、中へと入りました。
入ってみたらまたも驚きです。
あんなに心地良い暗闇に支配されていた空間が、窓から入ってくる光で見事にその全貌を露にしてしまっていたのですから。
しかも、閉じ込めていた筈のあの少女の姿が何処にもありません。
更に、皇族から奪ってきたあの杖も宝箱から奪われてしまっているではありませんか。
これだけの数の宝箱の中からあれだけを見つけ出して持ち去るなど、魔法を使わない限り一人では到底出来ない所業です。
魔女はすぐに、窓が桜乃に手を貸したのだと悟りました。
「お前、この恩知らず!! 主人のアタシを差し置いて、何であの小娘を助けたりしたんだい!! お前さえ余計な事をしなきゃ、今頃あの娘はアタシの腹の中だったのに!」
すると喚き散らす魔女の文句を聞いていた窓がうんざりと言った様子で顔を浮かび上がらせ、あれだけ饒舌だった口を面倒くさそうに動かしました。
『そうは仰いますけどね、貴女はこの何年もの間、綺麗な私の顔をただの一度も拭いてくれたことなんかなかったじゃないですか。お陰で私の顔はすっかり埃と汚れに塗れて見るも無残なものだったんですよ。恥ずかしいったらありゃしない。なのにあの子は初めて会う私に、主人の貴女でさえしてくれなかった窓掃除をしてくれて、こんなにぴかぴかにしてくれたんですよ』
口答えをした相手に更に魔女は怒り心頭でしたが、今は彼らと口喧嘩をしている余裕などありません。
「こうしちゃいられない、今すぐあの子を追いかけないと!」
杖を持ち去った桜乃を追うべく魔女は宝物庫を飛び出しましたが、まだ彼女はそこまで焦ってはいませんでした。
桜乃がここを出たとしても、迷路の様な道は果てしなく続き、そこを抜けたとしても先には決して開かない門と番犬が控えているのですから。
自分はまだほんの少しだけ急いで、桜乃を捕まえたらいいと思っていたのです。
長い長い、長い迷路の様な道を歩いていた桜乃が、もう世界中の迷路の分を歩いたのではないかと思い始めていた頃に、ようやく城の門が見えてきました。
(あ、門が…!!)
疲れていた身体を必死に奮い立たせて急いで門へと走り寄った桜乃でしたが、それは全ての人の往来を拒むようにしっかりと固く閉ざされています。
試しに押してみても、やはりぴくりとも動きません。
(うう…重さもそうだけど、あの音ひどかったもんね…きっと凄く錆び付いているんだろうなぁ…)
そう思った時、またも桜乃はある事を閃きました。
(あ…もしかしたらここでも…?)
ポケットの中を探ったら、あの魔導師から貰った油さしがあり、桜乃はそれを引き出しました。
「…ダメで元々よね。どうか少しでも開けやすくなりますように…」
大きな門でも自分一人通れるぐらいの空間が開けられたら…と願いつつ、桜乃は油さしの口を扉の蝶番に差込むと、ちゅーっと中の油と思われる液体を流し入れました。
するとどうでしょう、まるで蝶番が、いや、門そのものが生きているかのように油をぐんぐんと吸い上げていき、半分程吸ったところで頭上から声が降ってきたのです。
『おお、有難うよ、娘さん。油を差されたのは何十年ぶりだが、こんなに美味い上等な油は初めてじゃ、生き返ったわい』
「え…もしかして…」
流石に二度目ともなると、桜乃もすぐに気がつきました。
そう、今度は目の前に聳える門が、桜乃を見下ろすように顔を浮かべていたのです。
顔の印象では、かなり年配の男性の様に見えました。
『全くあの魔女は、簡単に開く門など意味がないと抜かしおってな、ロクに手入れもしてくれんのさ。お陰でワシの自慢の蝶番はすっかり錆び付いて、自分でも嫌になる程動きが冴えんようになってしもうた…しかし本当に美味い油じゃな』
久し振りの手入れにすっかり機嫌を良くしているらしい門番に、桜乃はこれ幸いと話しかけ、交換条件を持ちかけました。
「あの…私ここを抜けて外に出たいんです。もう半分の油も片方の蝶番に差して差し上げますから、開けて下さいませんか?」
『何と、向こうの蝶番にも差してくれるか。こんなに美味い油を差してもらえるなら、喜んで門を開いてやろう』
「有難う!」
条件を呑んでもらえたことで、桜乃は急いで残りの油も全て片方の蝶番に注ぎいれてやりました。
仁王のアイテムは非常に効果が高かったらしく、それから約束通り門が開かれた時には不愉快な音は一切なく、動きも実にスムーズでした。
『おうおうそうじゃこの感じじゃ、まだまだ若いもんには負けんぞ。娘さん、気をつけて行きなされよ。いずれ魔女が来るじゃろうが、少しの間だけならワシがここを塞いでいてやろう』
「はい、本当に有難うございました!」
『なんのなんの』
礼を門に述べた後、桜乃は再び全速力でそこを抜け、外へと向かって逃げ出しました。
そしてすっかり若かった時の調子を取り戻した門は、満足そうに桜乃が去った後で再びその場を己の身で固く隔てたのです。
桜乃が門から逃げだしてからまた暫くして、城から彼女を追ってきた魔女がその場へとやって来ました。
てっきり門の前でとうせんぼされていると思っていた桜乃の姿が何処にも見えず、彼女は地団太を踏みながら門に向って喚きました。
「この役立たず!! あんな小娘一人、どうして引きとめておけないんだい!! 気がつかなかった筈はないのにみすみす見逃すだなんて!」
するとそれまで目を閉じていた門は、うっとおしそうにそれを開きながら魔女を上から見下ろしつつ答えました。
『お前さんはそうは言うが、ワシはこれまでお前さんからいっぺんたりとも油なんぞ差されたことがないんでのう。今までも身体を動かしたくても錆びついててさっぱりだったのにほっぽらかしおって。しかしあの娘さんは初めて会うワシに、上質な油を惜しげもなくたっぷり差してくれたんじゃよ。そんな彼女が通りたいと言うんじゃ、ワシだって恩を受けたら返したくもなるんじゃ』
ぞんざいな相手の返事に魔女は再び烈火の如く怒りましたが、ここに少女がいない以上はまた追いかけなければなりません。
ここを抜けたら今度はあの三つ首の番犬が控えている入口です。
幾ら運に恵まれていても、今度こそこの危険を避けることは出来ないだろう、何しろこれまでは動けない道具達ばかりだったが、次に待つのは飢えた獣なのだから…
しかし、あの獣に少女の体が全て食べられない内にと、魔女はなるべく急いで桜乃を追いかけたのです…
続
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