全国大会三日目準決勝当日…
「うふふ〜、ここね、試合会場って…うわ、本当に沢山の人がいる…あ、あの人ジャージ着てる…選手の人かなぁ」
 一般人の入場口から素直に入ったところで、桜乃は改めて試合会場となる施設をぐるりと大きく首を巡らせ、眺めてみる。
 テニスの日本一の座を決定するという大きなイベントだけあって、かなりの数のギャラリーを収容出来る建物だ。
 しかし、それにすら収まるのかと思う程に、今のロビーは人波でごった返していた。
 その日の桜乃は当然私服だったが、いつもの様におさげスタイルである。
 しかし、関東圏の知己は殆どと言うより全くいないので、誰かから声を掛けられる可能性は皆無なのだ…そう、今ここに来ているであろう兄達を除けば。
 その兄たちも、いつもの彼らの慣習からはもう選手の席へと移動している筈なので、そうそう見つかる事はない筈だと桜乃は確信に近い予想を立てていた。
 もし内緒でこっそり来ている事がばれたら…間違いなく兄から叱られるだろう。
「ええと…観客席は…」
 ごそ、と桜乃は手持ちのバッグから一枚のパンフレットを取り出した。
 どうやら、会場の簡単な見取り図が書いてあるらしい。
「お兄ちゃんの旅のしおりは結局貰えなかったからなぁ…でも、この見取り図があればちゃんと席まで行けるもんね、よーし」
 まだ試合開始の時間まで時間があるけど…ゆとりを持って応援したいもんね。
 折角早く来たことだし…と思いつつ、桜乃はふむふむとパンフレット片手に歩き出した…のだが…


 約二十分後…
「あ、あれぇ…またここに戻っちゃった」
 信じられないことに、桜乃はいまだに席に辿り着けないまま、ロビーの中をさすらっていた。
 あれだけいた多くの観客も、もう殆ど席へ移動したらしく、今は閑散としている。
 しかしその所為で、桜乃は誰かに声を掛ける機会を逸してしまい、今も一人でうろうろとパンフレット片手に移動を繰り返していた。
「おかしいなぁ、えーと、Eブロックの隣がFでぇ…だからここから入って右に行けば…って、確かもう何度もここに来てるよね、私…」
 何故か…パンフの指摘通りに移動しても目的の場所に辿り着けない…
「…………」
 一人っきりの所為で、段々桜乃の頭の中がパニックに陥ってくる。
(ど、どうしよう…こんな、何度も繰り返しても同じ場所に出るって、何かの怪談で読んだ様な…)
 もしかして…お兄ちゃんの言う事を聞かないで勝手に黙って来てしまったから、神様が罰を与えたんじゃ…!!
 有り得ない話でも今のテンパった頭ではそれを否定する事も出来ず、いよいよ桜乃はきゃーっと内心悲鳴を上げながら、恐怖から逃れるように夢中で近くの扉を開き、中へと飛び込んでいた。
「ふええ〜〜ん! ごめんなさいくぅ兄ちゃんっ! 言う事を聞かなかったから、私、神様のお怒りに触れてしまいましたぁ―――っ!!」

 どんっ!!

「わっ…」
「きゃんっ!」
 夢中で飛び込んだ先、ドアを開いたその直後、彼女は出会い頭に何者かと激しくぶつかった。
 衝撃を受け止めた身体は華奢な事も相まって、あっさりと桜乃は床へと倒れ、そのままころりんと転がってしまう。
「あうう…」
「ご、ごめんね!」
 いきなりの出来事で、まだ何が起こったのか分かっていない様子の桜乃に、慌てた声が上から降ってきた。
「?」
 ぺたんと床に座り込んだ状態の桜乃がきょと、と上を振り仰ぐと、一人の男性が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「大丈夫かい? 怪我、しなかった?」
「あ…」
 若者だ…見た感じでは、自分の兄とそう変わらない年頃の男子。
 すらりとした長身痩躯の若者は、柔らかなウェーブがかかった髪を持ち、目鼻立ちが整った、大層美々しい容姿をしていた。
 もし、桜乃に白石という兄がおらず、イケメンに免疫がなかった場合、見蕩れる時間が二秒長かったかもしれない。
「だ、大丈夫ですっ! 失礼しました!!」
 ようやく、どうやら自分達二人はぶつかってしまったのだと理解した桜乃は、立ち上がるより先に、そこで深々と頭を下げて両手までついて、その事を相手に謝罪した。
「あの…私の不注意で、すみません…お怪我は…」
 図らずも、土下座して謝罪するという形になった少女の態度に少しばかり驚いたらしい相手だったが、彼はすぐに柔らかな笑みを浮かべてこくりと頷いた。
「俺は大丈夫だよ、こっちこそごめんね…さ、手を貸して」
「は、はい…」
 差し出した手で桜乃を引き上げ、再び立たせた若者は、見た目よりずっと力持ちなのだということが分かった。
 動きの全てが、スムーズだった。
 さして力を込めた様子もなかったのに、まるで自分の身体が綿の様に軽くなった様な、そんな錯覚さえ覚えたのだ。
(わ、凄い…こんなに細い人なのに…)
 まるでくぅ兄ちゃんみたいだなぁ、と思っているところに、向こうの若者は近くなった桜乃の顔に自分のそれをひょこりと近づけ、にこりと笑った。
「怪我がなくて良かった…試合開始まではまだ時間があるから、そう焦らなくてもいいよ」
「はい…」
 うわー、凄いハンサムさんだぁ!
 心の中で歓声が上がる。
 白が眩しい相手のシャツには、Rを象ったエンブレムが左胸につけられており、暗色系のストライプのネクタイがアクセントになっている。
 シャツもぴしりと糊が効いており、清潔感が溢れ、相手の印象をより良いものにしている。
 見た感じは、明らかに何処かの学校の制服といった感じだ。
 しかしそれ以上に、桜乃は改めて相手の顔立ちに注目していた。
 一見女性かと思う面立ちだが、明らかにそうではないと分かる、男性的な何かも備えた美貌。
 穏やかな微笑みは、彼の器の大きさを伺わせる様な泰然とした自信をも匂わせている。
 初対面の人物をここまで惹き込む事が出来るとは…かなりのカリスマを持っている人物なのだろう。
 そう思いつつも、桜乃は見た目だけに囚われることなく、まだ客観的にそういう分析を出来る心のゆとりがあった。
 普通の女性の様に相手のルックスだけに夢中になることがなかったのは、おそらくは兄で免疫が出来ていたことと…
「いきなりですみません、お願いがあるんですけど!」
「え?」
「Fブロックって、何処ですかっ!?」
 置かれている状況から、相手の顔に見蕩れるどころではなかった、という所為だろう。
「……はい?」
 一方で、いきなりの質問をぶつけられた若者は、きょとんとしつつ首を傾げていた。
 本当にいきなりな質問だな…と思っていると、向こうの少女が手にしていたパンフレットを差し出してきた。
「何度もFブロックに行こうとしているんですけど、どうしても迷子になっちゃって…宜しければ、行き方を教えて頂けませんか?」
 その時、相手の頭の中に浮かんだのは、『おかしいな』という純粋な疑問だった。
 何度も迷っている様な言い方だけど…自分が把握している限り、ここのブロックの構成は実に単純明快で、寧ろ迷うことの方が難しいと思うんだけど…
 取り敢えず、自分も然程忙しい状況ではなかったので、若者は快く困った様子の桜乃を助けてやることにした。
「別にいいよ。じゃあ…Fのどの辺に行くつもりなの?」
 扉の近くにいると他の人間の通行の邪魔になるので、二人は一旦外のロビーへと戻って、改めて桜乃が持っていたパンフレットを開いてみた。
「ええとぉ…この扉にEってあるから、今はここにいると思うんですけど…」
「……」
 桜乃がパンフレットと傍にある扉に記されていたアルファベットを交互に見ながら説明を始め、向こうは沈黙してそれに聞き入った。
「だからここから入って、この流れで歩いていったんですけど…」
「……」
 桜乃の説明は続き、向こうはまだ無言のままに聞き入っている。
「でも、どうしても辿り着けなくて、もう何度もここ辺りを往復しているんです〜」
「……うーん」
 全ての説明を聞き終わった後で、その若者は小さく唸ると、桜乃が持っていたパンフレットをひょいと取り上げた。
「案内する前に、一ついいかな?」
「…はい?」
「これ、〇京ドームの見取り図みたいなんだけど…」
「え…」

 し――――――――ん…

 暫しの沈黙の中、示されたパンフレットを桜乃が改めて凝視する…
 そして、相手の指摘が正しいと理解したところで…
「はわああぁぁぁああっ!! ウチにあったパンフ、間違って持ってきちゃった〜〜〜!!」
 大声を上げてまたも小さなパニックに陥ってしまい、相手はそれを呆然と見守っていた。
(それより今まで気が付かなかったって事の方が驚きだよ…)
 礼儀正しいし、悪い子じゃなさそうだけど…変わった子だっていうのも間違いなさそうだな…と思いつつ、彼は改めて少女が間違って持って来た、というパンフレットを改めて見返してみた…ところで、
「…ん?」
 何だろう、この既視感…これ、俺も見たことあるな…
「…ああ、これ」
 不意に、若者はにこりと笑みを深くして、桜乃へと向き直った。
「これって、今年の世界の蘭展の時のだね」
「はう…」
 そう問い掛けられ、桜乃のパニックが治まる。
 そのパンフレットって、そうだったっけ…あ、でも確かに…
 そして記憶を遡っていって相手の言葉が間違っていないと知り、彼女は驚いた。
「え…ご存知なんですか!?」
「うん、俺も行ったんだ…植物が好きでね」
 言いながらパンフレットを畳み、はい、と桜乃に返すと、向こうはそれについて問いかけてきた。
「君も行ったの?」
「はい! お兄ちゃんと一緒に行きました! 遠かったけど、お兄ちゃんが『冥土の土産に是非見たい』ってお父さん達にお願いして…」
「君のお兄さんいくつ?……あ」
 尋ねたところで、若者ははた、と思いついた。
 もしかして、この子のお兄さんって何か悪い病気とかしているのかな…だからそんなお願いを…なら、自分は申し訳ない事を…!
「ご、ごめんね、もしかして君のお兄ちゃんって、病気なの?」
「いいえ? 元気にテニスやってますよ?」
 けろっとした桜乃の答えに、相手が沈黙。
「……………変わったお兄ちゃんだね」
「そうですか?」
「うん多分」
「そうかなぁ…あ、でも、あなたと同じ様に植物が凄く好きなんです、お兄ちゃん!」
「へえ」
 その人とは何となく気が合いそうだな、と考えていた男に、桜乃が付け加えた。
「植物が好きな人に悪い人はいないっていつも言ってます!」
 そして若者、再び沈黙。
「……………お兄ちゃんが?」
「はい!」
「植物好きの」
「はい!」
「……………つくづく変わったお兄ちゃんだね」
 まぁ図々しいとも言うけど…と思いつつ彼はそれについて伏せておいたが、そうしている内に、若者はようやく二人がまだ互いに名前も知らないのだという事実に気がついた。
「あ、ごめんね、自己紹介もしなくて…ええと、俺は幸村精市」
 相手の名を聞く前に、自分が名乗るのが礼儀であり、幸村はその礼儀に則った。
「立海大附属中学三年の幸村精市だよ…君の名前は?」
「……」
 問われたものの、桜乃は即答出来なかった。
(…ユキムラ…セイイチ…?)
 その名前は…もしかして…
 まさか、と思ったが、学校の名前まで一緒なら、ほぼ間違いはないかもしれない。
「あ、あのう…もしかして…テニス部の部長さん…の、幸村精市、さん?」
「うん…俺の名前、知ってたんだ?」
 にこ、と笑う相手に対して、少女はそこまでゆったりと構えてはいられなかった。
(きゃあああ〜〜〜っ!!)
 じゃあこの人が…千歳さんが言っていた、心理テストでぴったりの…
 試合を観客席から見るのではなく、まさかこんなに近くで、しかも語り合うことまで出来るなんて!
 想像していたよりずっと華奢で…でも、格好良くて優しそう…!!
「あっ…はい、その…」
「君の名前は…? 何処の学校の子?」
「私は…」
 言いかけたところで、はっと桜乃が言葉を飲み込んだ。
 そうだ…この人、立海の部長さんって事は…くぅ兄ちゃんと知り合いってコトだよね…?
 お兄ちゃんも確かに幸村さんのコト、知っている感じだったし…じゃあ、もしかしたらこの会場で後で会うこともあるかもしれない…
 もし、私がここで名乗っていて、それがくぅ兄ちゃんにバレたりしたら…
 そう思った桜乃の脳裏に、お説教モードの兄の姿が浮かんだ。

『桜乃―っ! お兄ちゃんに内緒でこんな処まで来るなんて悪い子や! しかも知り合いにまで迷惑掛けて、罰として向こう一週間、庭の草むしりーっ!!』

「……」
 見る見るうちに顔色が真っ青になっていく少女の様子に、幸村が何事かと冷や汗を流す。
「ど、どうしたの?」
「あ、あのう、えっと…」
 どうしよう、でも、名前を知られたらバレちゃうし…
 そこで桜乃は苦肉の策を取る事にした。
「とっ…匿名希望ってことで…」
「…?」
 向けられた背中から『深くは訊かないで下さい』というオーラが漂っている。
 まさかこの娘が知己である男の実の妹であることは、幸村は知りもせず、想像も出来なかった。
「いや…別に事情があるなら無理強いはしないけど」
「すみません〜…言ってしまったらちょっと、私の身の危険が…」
(どんな事情なんだろう…)
 正直、名前よりそっちの方が気になるな…と思いつつ、幸村は気を取り直して桜乃に声を掛けた。
「あまりここで長く話しているのも何だし…Fブロックだったよね? 一緒についていってあげるから、おいでよ」
「は、はい…」
 ようやく、当初の目的を桜乃も思い出し、彼に呼ばれて一歩を踏み出したところで…
『うわーっ!! ヤバイ、避けろーっ!!』
「え?」
「ん?」
 いきなり響いた誰かの大声…
 振り向いた二人に、また新たなトラブルが襲い掛かろうとしていた…



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