世界に不可欠なもの・2


「竜崎さんっ!?」
 一気に階段を駆け上がるその俊敏さは、流石に立海のテニス部レギュラーを張るだけのことはあり、かなりのものだった。
 瞬く間にドアの前に到着し、緊急事態と判断した柳生が有無を言わさずドアをばたん!と押し開けるとそこには…
「いよっ」
「!!」
 不覚にも、紳士、片膝を着く。
 見知った…一気に全身が脱力するぐらいに見知った男が、窓の縁に腰かけ、こちらに向かい呑気に手を挙げて軽い挨拶をする姿があった。
 先程の悲鳴の主である桜乃は至って無事で、窓と位置的に反対側になる本棚に背中をつけた状態で、大きな瞳を更に見開いて仁王を凝視している。
 何となく…分かる。
 どうしてさっきの少女の悲鳴が上がる事になったのか……
「におうくん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
「おー、そーかそーか、俺に会えてそんなに嬉しいか」
 相手の心情は察せている筈なのに、相変わらずのこの神経逆撫でっぷりは見事と言うしかない。
「ええもうほんっとにこの口、針金で縫いつけて差し上げましょうか! こう見えて裁縫は得意なんですよ私!」
「ほ〜〜〜…ひゃのひみひゃの(楽しみじゃの)」
 両方の口角に親指突っ込まれ、そのままみにょーんと横に引き伸ばされながらも、仁王の減らず口はやはり減らなかった。
 柳生の動揺も当然だが、やはり一番驚いたのは桜乃だっただろう。
 本棚の方を向いて本の選別に勤しんでいたところに、いきなり背後から、いる筈のない『誰か』に覗かれたのだから…
「び、びっくりしましたぁ……あ、あの、仁王さん、どうしてその…二階から…?」
「ん〜? いや、開いちょったから」
「開い…」
 説明している様で、全く説明になっていない。
 呆然とする桜乃の代わりに、多少は相棒のとんでもっぷりに慣れている柳生がバトンタッチ。
「質問を変えましょう、此処に何の御用ですか」
「いやいや、此処っちゅうよりものう…可愛い竜崎が、紳士の顔した野獣に襲われはせんかとそりゃもう心配で心配で…」
「貴方、世の中に鏡というものが存在するのをご存じありませんか…」
 その言葉、そのまま相手に返す!と言わんばかりの柳生の反論に、仁王はからからと笑ってから、じっとその相棒を見つめた。
「……? 何ですか、気持ち悪い」
「お前さんも紳士の割にずばっと言うのう…いや」
 突っ込むべきところはしっかりと突っ込んだ後で、仁王は意味深にニヤリと笑った。
「……よう似合っちょるよ、ヒヨコエプロン」
「っ!!!!!」
 その通り。
 これまで家族以外には、誰の目にも触れさせない様に気を配っていたエプロン姿である事実を、柳生はその時にようやく自覚したのである。
 あの桜乃の悲鳴を聞いた事も、心の隙に繋がってしまった。
 それは勿論桜乃が悪い訳ではないので責める気はない。
 しかし…何と言う失態…しかもよりによって桜乃の目の前で…っ!
 狼狽する柳生の前で、仁王の指摘によって桜乃もその事実に気づいたらしく、まじまじと柳生のかけているエプロンを見つめている。
「いや、こっ…これはその…っ!」
 上手い説明が思いつかない内に…
「可愛いですね! それ!」
 がすっ!!
 目をキラキラさせた少女にはっきりきっぱりと断言されてしまった。
 向こうは褒めてくれたのだろう…が、その台詞は『見ちゃいました』という宣告と同義語でもある。
(死んでしまいたい…っ!!)
 紳士たれ。
 常日頃から己にそうあれかしと努めていた若者にとっては、まぁ、屈辱的な体験だったのかもしれない。
 がっくりと脱力し、膝を折って項垂れる相棒の姿を見た詐欺師が、ありゃ、と目を軽く見開く。
「何じゃ? 嬉しくないんか? 折角の俺の愛が籠ったプレゼントが褒められたっちゅうに」
「愛…?」
 そういう単語が出て来るとは当然思っていなかった桜乃が訊き返す。
「どういう意味ですか?」
「いや、最初はこいつの親から頼まれたおつかいだったんじゃがのう……俺、自分で言うのも何じゃけど、結構特徴的な口癖、あるじゃろ?」
「はぁ…『プリッ』とか『ピヨッ』ですか?」
「そのそれ。『ピヨッ』って台詞は、ヒヨコの鳴き声に通じるものがあるじゃろうが?」
「うーん、確かにそうですね」
 桜乃、ちょっと上を向いて考えつつ納得。
「じゃから親愛なる相棒の俺のコトをいつでも忘れんようにと、愛を込めたヒヨコエプロンを…」
「そういう腐臭漂う愛など、今すぐ生ゴミ捨て場に捨てていらっしゃい!」
 少女に熱心に語る相棒の肩をむんずと掴みながら紳士が凄む。
 言葉こそ丁寧だが、しっかりその口調にはあからさまな怨念が籠っていた…が、気持ちは分からなくもない。
「気に入っちょるクセにー」
「聞こえません!」
 再度突き放した後で、はた、と柳生が我に返った。
 そうだった。
 桜乃にこういう格好を見られたのは恥としても、そもそもこういう格好になっていたのは彼女をもてなす為である。
 とっておきの紅茶を淹れて、彼女の手作りのエクレアを頂く為に張り切っていたやる気が、予定外の乱入男の所為で思い切り削がれてしまっていたのだ。
 しかし今からでも遅くはない、改めてもてなす準備をしなければ…
「すみませんでした竜崎さん。今から改めてお茶の準備をしますので…」
 断りを入れた若者に、桜乃がはた、と手で口を押さえる。
「あ! ご、ごめんなさい、私が大声をあげてしまったから…」
「いえ、そんな事は…」
「俺、ミルクティーで」
 二人が互いに恐縮する中、そもそもの元凶は謝るでもなく、しれっと自分の取分を自己主張。
「貴方には、反省というものがないんですか!」
「そんなカリカリせんでも…あんまり怒るとエロ本の隠し場所を暴露するぜよ」
「そんないかがわしい物有りません」
 仁王の脅しに怯む事も動揺する事もなく、柳生が速攻ですっぱりと否定する。
 本人が無いという事実を何より分かっているのだから当然だったが、
「……」
「……」
 若者二人はそれから数秒無言で見つめ合い…
「健全な男としてそれはどうかと思うぜよ柳生」
 真剣に心配しているのかおちょくっているのか、至極真面目な顔つきで仁王が相手の肩に両手を乗せながら忠告した。
「では貴方は健全な男子としてそういう物を持っていると?」
「……」
 柳生にとっては上手い切り返しのつもりだった…のだろう、おそらく。
 しかし仁王は全く怯む事もなく、ちらっと桜乃の方を見遣り…
「?」
「そういうブツがなくても、元ネタが近くにあれば妄想で十分…」
「わ――――っ!! わ――――っ! わ――――――――っ!!!」
 何も分かっていないらしい桜乃の前で凄い発言をかましかけたが、そこは柳生の阻止にあって未遂に終わった。
 紳士は大声を上げるものではないのだが、流石にこればかりは容赦してもらわねば。
 やはり詐欺師は一筋縄ではいかない。


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