「桜乃、舞踏会はもう始まっているだろう。君も急がないと」
「あ、の…でも…」
今までの彼の魔法を見て、驚くばかりだった少女は、今更ながら自身のみすぼらしさを再確認し、羞恥で頬を染めました。
「わ、私…これしか服がありませんからっ…行っても笑い物になるだけです…」
「…そうだね、お姫様にその服は似合わない。憂い顔は、それでも綺麗だけれど」
「え…」
異性の…同年代の若者に綺麗と初めて言われた桜乃が、びっくりして顔を上げると同時に、彼の手が優しく桜乃の肩に触れていました。
その手から、まるで桜乃の身体を伝って波がさざめく様に彼女の服は元のみすぼらしいメイド服から、澄んだ蒼の彩に染め上げられた見事なドレスへと変じていったのです。
まるで、精市の言った通り、何処かの国の姫君の様な艶やかさでした。
長いおさげも服と同様にその様を変え、ゆったりと結い上げられたそれには美しい花飾りがあしらわれています。
一足先に人間にその身を変えられた男達も、彼女の新たな姿に溜息を零しました。
そして誰よりも、桜乃の美しい姿に見蕩れたのは…魔法を掛けた見習いその人でした。
「……」
溜息を零す様な心の余裕もなく、精市は自分の変わった姿に驚いている桜乃を食い入る様に見つめます。
自分は確かに彼女の事を『素材はいい』と言ったけど…正直、これ程までとは…
「まぁ…なんてこと…こんな見事なドレス、生まれて初めて…」
いつか幼い時に母から読んで聞かせてもらったお姫様のお話…そのお姫様でも、こんな綺麗なドレスは持っていないかもしれない…
桜乃は身体が回る度にふわりと揺れるドレスの感触を楽しむように、くるくるとダンスを踊る様に回ります。
その姿はまるで、絵本の中に描かれた優美な姫そのものです。
いつまでも見ていたいという気持ちが心に沸きあがる中、精市は必死にその想いを押さえ込み、何とか彼女に冷静な声を掛けました。
「さぁ桜乃…君が踊るべきはここじゃない…あの白亜の城に住む王子様の前でだよ」
「あ…」
その王子の様に、優雅に彼は少女の手を取ると、既に蓮二と弦一郎が控えている馬車籠の中へと彼女を導きました。
そして、その扉を閉めた後、彼は窓越しに桜乃に忠告します。
「いいかい? 桜乃、魔法というものは万能じゃない…全てに終わりというものは存在するんだ。君達に掛けられた魔法は、今日という時を過ぎたら全て夢に変わる。城の時計台が十二時の時を刻む前には、ここに戻って来るんだよ? いいね?」
「は、はい…あのっ、有難うございます、精市さん!」
感謝の言葉を述べる桜乃の表情を眩しげに見遣ると、精市はそっと窓枠に掛けられていた娘の手に触れました。
「…楽しんでおいで…」
そして、彼はジャッカルに目配せすると、馬車を急ぎ城へと走らせたのでした。
見事な馬車が大通りを走り抜けて行った後には、闇の色と同じフードを纏った魔法使いの見習いが一人佇む、少し寂しい景色だけが残りました。
「城で舞踏会、か……そんな派手な世界は興味なかったけど…」
ぽつりと呟く精市の声は、誰にも聞かれる事はありませんでした。
「…少しだけ…王子様が羨ましいと思ってしまったよ」
桜乃が馬車に乗って城の正門に着いた時、舞踏会は既に始まってしまっていましたが、門では一時、舞踏会の会場以上の騒ぎが起こっていました。
何処かの国の姫君が、お忍びで城へ来たというのです。
門番達は、今日迎えたどの高貴な家柄の人々に対してよりも恭しく彼女の来訪を迎えます。
馬も、馬車も、従者達も、この国でも見たことがない程に洗練され、訓練が行き届いていました。
姫君達にはあまり興味もなかった城内のメイド達も、その蒼いドレスの姫君が連れて来た従者や執事達の姿を見て、彼らに夢中になってしまいました。
『まぁ見て! なんて麗しい方々…』
『あんなに大勢の従者の方を連れるなんて…何処の国のお姫様かしら…』
『きゃあ! あの銀の髪の人、凄く好みだわ〜』
城内のメイド達の騒ぎを起こした原因の男達は、馬車が止まるとすぐにそこから降り、馬車籠の扉を開いて姫君と執事達を迎えます。
「さぁ、我等が自慢の姫君よ、城へ到着致しましたよ」
「有難う、みんな…時間までには必ず戻るから、待っていてね」
比呂士が優しく促し、従者達が恭しく一礼をする中、桜乃は執事達を連れて歩き出します。
その中でも、残る従者達に優しく声をかけ、苦労を労う桜乃の姿は、門の兵士達にも感動を与えていました。
この時代、貴族や高貴な身分の者が、自分より下位の者に優しい言葉を掛けるなど、そうそうないことだったのです。
「姫、では参ろうか」
「貴女の身は、我等が命を賭してお守り申し上げる」
「はい…お願いしますね、二人とも」
そして桜乃は、蓮二と弦一郎を従え、いよいよ舞踏会の会場へと赴いたのでした。
舞踏会は数多くの姫君や貴族の娘が招かれており、中では弦楽器の奏でる舞曲が響き、彼女達が思い思いに舞いながら王子に精一杯のアピールを行っておりました。
席には王と王妃もまみえ、やれあの娘はどうだ、あの娘もどうかと王子に話を振るのですが、王子本人はまるでやる気もなく軽く首を振るだけです。
豪華ではありますが、何とも退屈な舞踏会が、揺れるような衝撃に襲われたのはそのすぐ後。
桜乃が二人の若者を着き従えて会場に現れた瞬間、舞曲を奏でていた奏者達の全ての指の動きは止まり、その場は静寂で満たされました。
舞曲を舞っていた娘達も、その蒼いドレスを纏った姫を見ると、敵わないという様に会場の隅へと移動し、男達は例外なく彼女へと視線を注ぎました。
王子がその姫君…桜乃に夢中になっている脇では、王が王妃に『あんな美しい姫を見たのは久し振りだ』と囁いた程です。
「姫よ、王子に目通りを」
「楽しい時を過ごされよ」
蓮二と弦一郎から離れ、桜乃は緊張しながらも王子の前に立ち、静々と礼をしました。
それを合図に、城内には再び舞曲が流れ始めます。
それはこれまでより、より美しく、聞く者の耳を癒すような音色でした。
王子が何処から来たとも知れぬ姫の手を取り上げた時、彼女は、不意にここに出かける前に経験した同じ感触を思い出します。
(あ…)
魔法使いの見習いの精市を思い出し、ふ、と顔を上げた桜乃ですが、勿論そこにいるのは彼ではなく、王子様でした。
(…あ、そうか…そうよね…)
どうしてあの人の事を思い出したのかしら…私は王子様に会いに来たのに…
気を取り直して、桜乃は王子様にリードされながら、会場の中央で踊り始めました。
その姿を、遠くから蓮二と弦一郎が微笑ましく見つめています。
「…良かったな」
「ああ、あの見習い…精市と言ったか、実力を認めない訳にはいかんな」
一度は金縛りに掛けられたものの、今は弦一郎も素直にあの若者を評価している様です。
「しかしな…」
「ん…?」
「…俺達はもしかして、変な格好なのではないか? その…女性達の視線がやけに痛い様な…」
服の所為ではなく、身体がむず痒い…と肩を揺らす無骨な親友に、蓮二はあっさりと答えました。
「ああ、心配するな…彼女達は単に俺達に…」
「俺達に?」
「発情しているだけだ」
「っっっ!!!!!」
ぴきーんっと硬直してしまった弦一郎を他所に、そうさせた張本人はさっさと豪華な食事が並ぶテーブルへと移動します。
「さて、下で待つあいつらにも食事を持って行ってやるか…帰りもあることだしな」
何より、空腹に耐えかねて倉庫にでも特攻を掛けられては堪らない…と冗談とも本気とも取れるような事を思いながら、優秀な執事は上手くその場の召使を誤魔化し、大量の食事を下の仲間達へと運んでいきました。
幸い、馬達は厩の係から既に沢山の人参を与えられており、至極満足そうです。
「食事だ」
「待ってました! 腹減ってたんだ、助かる、蓮二」
ネズミ達が身を変えた若者達は馬車の傍で控えていましたが、今はもう辺りには誰もいないので、彼らは割りとのんびりと時間を潰しておりましたが、蓮二が食事を持ってくると、すぐにそれらの消費に取り掛かりました。
それでも、人としての最低限の振舞いは心掛けているのか、浅ましい食べ方はしませんでしたが…
「で、で、どうっすか? 桜乃は」
「問題ない…王子の反応も上々だしな…亡き奥方の躾と作法の教示が功を奏したと言えるだろう」
「そっか、良かった良かった」
良かった、と言いながらも、ブン太の視線は目の前の食事から逸らされる事はありません。
「なら、後は王子の出方次第ですか…」
「早く、相手の心を射止めることが出来たらええのう」
あぐあぐあぐ…!と家でも滅多に食べた事がない豪華な食事を思うままにネズミ達が食べている一方では、桜乃はずっと王子に手を取られていました。
初めて見る桜乃に、向こうは興味津々の様子で何とか彼女の出自を聞きだそうとするのですが、勿論、彼女は真実を話す訳にはいきませんでした。
真実は、自分は何処かの国の姫などではなく、貴族の娘でありながら、小間使いの様にこき使われている、普段はみずぼらしい姿の娘に過ぎないのですから。
お忍びでの来訪であることを伝え、それを隠れ蓑にして桜乃は何とか王子の質問を切り抜けつつ、豪華な舞踏会を楽しみました。
しかし、その夢の様な一時にも、確実に終わりの瞬間は近づいているのでした。
(…あ)
ふと、桜乃が会場から見える時計台に目を遣ると、あと十分程で十二時の鐘が鳴る時分でした。
「ごめんなさい、私、もう帰らないといけません」
きっと、動物達も待っている筈…と、桜乃は別れを惜しむ王子に礼儀正しく別れを告げ、弦一郎と共に階段を降り、馬車へと戻って行きました。
「姫、さぁお早く」
「早くお戻りにならねば」
彼らは既にいつでも出立出来る状態にあり、桜乃が馬車籠に乗り込むと、一気に走り出しました。
急げ急げと逸る馬車の後ろを、王子の命を受けた城の馬車が追いかけます。
何とかあの美しい姫が何処から来ているのか知りたかった王子でしたが、城一番の馬と御者を使っても、あの馬車の行く先は分かりませんでした。
彼らは、或る大通りで、問題の馬車を見失ってしまったのです。
尚も姫を探す城の者達を、通りに建てられていた四頭の駿馬の銅像は、無言で見下ろすだけでした。
「ただいま帰りました!」
その貴族の家の台所の裏口で、およそ相応しくない装いの人間達が一気に中へとなだれ込みました。
姫君と従者達がそこに着いたと同時に、遠くから、最後の鐘の音が響いてきます。
するとどうでしょう、台所に再び煙が立ち昇り、桜乃達は元の、現実の姿へと戻ってしまっていたのでした。
「おかえり、皆」
そこで一人待っていた魔法使いの見習いは、全員が約束を守ってくれた事に満足そうに頷いて彼らを見回しました。
そして、弦一郎や蓮二、ネズミ達の頭を一匹ずつ丁寧に撫でてやると、彼は最後に桜乃の頭もさわりと撫でてやったのです。
「おかえり、桜乃…舞踏会は楽しかったかい?」
「あ…精市さん」
自分に惜しみなく夢の時間を与えてくれた若者に、桜乃は心から感謝と歓喜の瞳を向けて頷きました。
「はい! とても楽しい夢の様な時間でした。精市さんのお陰です、本当に有難う!」
「…うん、なら良かった」
「?」
一瞬だけ、精市の笑顔に翳りが生まれた様な気がしたのですが、桜乃がそれを確認しようとした時には、既にその翳りは笑顔の奥へと隠されてしまっていました。
『しかし桜乃よ…お前はまだ王子から求愛は受けていないのだろう?』
「え…う、うん…だって、そんないきなり…」
ぽっと頬を染める桜乃は、俯いてそう答えましたが、獣達はむ〜うと全員揃って首を傾げました。
『人間って、何でそんなに呑気なんだよい』
『まぁ私達獣と違って長寿ですからね…時間の感じ方が違うのでは?』
『俺達が同じ感覚だったら、とっくに種が絶滅してるよな〜』
ブン太や比呂士、ジャッカルがごにょごにょと話し込む内容に更に桜乃が顔を赤くしていると、弦一郎が改めて精市を見上げました。
『失敗、というものではないと思う。確かに王子はあの場にいた全ての女性の中では桜乃を最も気に入っている様だった…俺達はこれからどうすべきなのだろうか?』
「そうだね…取り敢えずは待とうか」
相手の問いに、腕組みをしながら精市は呑気に答えました。
「掴みが良かったなら、王子はきっとまた新たに舞踏会を開くと思う。そう遠くない日にね…その時にまた桜乃が舞踏会に参加して、王子様に会えばいいんだよ」
求愛されるまで…と言い掛けた見習いでしたが、それは口にはしませんでした。
何故か…言いたくなかったのです。
『成る程…確かにその可能性は非常に高い。今のところ王子が桜乃に会う手立ては、舞踏会という場所でしかないからな』
きっと近々、その告知の貼り紙が出るだろう、そうしたら自分達も日時を知る事も出来るし、何よりあのお喋りな三人が、またぎゃーぎゃーと煩く騒いで教えてくれることだろう、と蓮二が推測して、それから精市を見上げました。
『だが、それが分かったところで、俺達は無力なのだ。桜乃の願いを成就させる為には…』
相手の言わんとしているところを察した精市は、にこりと笑って頷きました。
「分かってる。その時にはまた俺の魔法の出番さ…取り敢えず、それまで俺もここに居候させてもらっていいかな。桜乃の家族には絶対にばれないようにするから」
『いてくれるか、有難い』
早々に帰られたらどうしようかと内心不安だったらしい獣達は、弦一郎と同様に、ほっと安堵の溜息をつきました。
「そういう訳で、暫く宜しくね、桜乃。タダで居候するつもりはないよ、ちゃんとそれなりに手は貸すから」
「あ…で、でも、殆どお構い出来ないし、私の自由に出来る部屋だって、本当に寒くて過ごしにくい処で…」
「いいからいいから」
恐縮する桜乃にひらっと手を振って、精市はあっさりとその家に間借りする事を決めていました。
そしてそれから、おそらくは短い期間になるだろう、彼と桜乃達の共同生活が始まったのです……
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